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2004年5月

柔道の想い出

 昭和40年4月、東北大学に入学できた私は柔道部に入部した。高校時代の運動能力測定では100mを完走できないような情けない体力であったため、これではいけないと一念発起しての入部であった。しかし、運動神経鈍く、ただ太っていただけの私にとっては、受身の練習さえ難しかった。乱取りでは、小柄な先輩に背負い投げで投げられるたびに、頭から畳に落ちていく恐怖に「わぁ〜」と声を上げ、「黙ってやれ」と選手監督に叱られた。合宿の朝のランニングでは、先頭を走らされるものの合宿所に帰り着くときはいつもビリ。稽古を終えた夕方は、筋肉痛で合宿所の階段を這って上がり、体中の擦り傷の痛みをこらえて風呂に入った。
 我々の目標は、昭和27年の第1回大会での優勝以来遠のいていた七大学(旧七帝大)戦での優勝であった。高専柔道の流れをくむ七大学柔道では寝技を重視し、寝技への引き込みが認められていた。このことで、センスが必要な立ち技に比べ、大学から柔道を始めた者でも重点的に寝技を稽古しセオリーを身につければ短期間で寝技が上達できた。私が立ち技で勝った試合は、納会で後輩を2回くらい投げたことしか記憶にない。しかし、寝技では何度か勝った。また、腹ばいになって相手の攻撃をひたすら防ぐ"亀"では上達目覚しく、3年生で初めて七大学戦に選手として出場し、2試合とも「林、得意の亀で引き分け」と部誌に記されている。
 入部当時は30人くらいいた1年生は、4年生のときは5人に減っていた。柔道の経験者は4年生になって主将を務めた大野君一人で、和田、神前、茂手木の3君と私は初心者であった。中学から柔道をやっており、大野君よりも強い者もたくさんいたが、汗臭い柔道はもう結構と、あるいは、寝技の稽古に明け暮れることに耐え切れずに辞めていった。
 七大学戦は1本勝ちだけの15人勝ち抜き勝負であり、4年生のときの七大学戦では、私は副将(14番目)で出場した。林は勝たないが負けもしないということで、私の前までで勝ち越してきて私が引き分けて勝利するという作戦だった。1回戦の九州大学との試合では私の出番は無かった。5人残して勝ったのだ。名古屋大学との2回戦は私の前まで13人全員引き分けだった。1年下の佐藤君は試合中に肘を骨折しながらも、片腕一本で引き分けた。副将同士の対戦となったが、私の相手も分け役とあって、寝技に引き込んできた相手の上になって、さしたる攻防もないままに8分間の試合が終わった。そして、大将同士の一騎打ち。大将大野、敵将の須崎に一度は横四方固めで抑えられたものの必死に逃れた。しかし、再度の抑え込みに敗れる。自分がもっと攻めて勝っていたらその後の展開はどうなったであろうか、引き分けるのが使命の分け役であるからといって、大将の大野君一人に勝敗をゆだねた自分の心の弱さを今でも悔いている。
 柔道部の同期の仲間4人のうち大野、和田、神前の3君の結婚披露宴で私は司会をした。また、私の結婚式では、司会を大野君に、受付を私が主務(マネージャー)をしていたとき会計として助けてくれた神前君に頼んだ。
 試合や稽古で完全燃焼したとは言えないが、一生の友人を得た柔道生活であった。
 

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