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2004年7月

新潟豪雨

 7月14日の朝、JR富山駅のプラットホームで列車を待っていた私の耳に、「昨日からの新潟方面の豪雨で、信越線の宮内・新津間の運転は取りやめとなり、7時27分発の新潟行き特急北越1号は運転中止。新潟へは越後湯沢経由で」というアナウンスが飛び込んだ。越後湯沢経由では11時からの新潟での会議には遅れるけれどいたし方ないと判断、その後、今朝読んだ北日本新聞の1面トップの見出し"新潟で豪雨2名死亡、1人不明。堤防決壊、100人一時孤立"を思い起こした。
 同時に頭に浮かんだのが、数日前に読み終えた「日本文明の謎を解く」(竹村公太郎著:清流出版)の最後の章であった。この第15章"やるせない川"に、戦後いかに多くの台風や豪雨が日本を襲ったかが書かれていたからだ。
 死亡者1000人を超える風水害の年は、カスリーン台風の昭和22年(1790人)、アイオン台風の昭和23年(1161人)、キティー台風の昭和24年(1083人)、ジェーン台風の昭和26年(1373人)、西日本水害の昭和28年(2990人)、洞爺丸台風の昭和29年(2303人)、諫早水害の昭和32年(1149人)、狩野川台風の昭和33年(1655人)、伊勢湾台風の昭和34年(5565人)である。
 16日午前0時現在、今回の新潟豪雨での死者は12人、行方不明者は2人。お亡くなりになった方々にはお気の毒だが、昭和20年代から30年代にかけての死者の数とは大違いだ。なぜ死者がこんなにも減るようになったのか、本には次のように書かれている。
 「その時期の台風や豪雨が大規模だったということもあるが、それ以上に防災の施設が未整備で災害に対して脆弱な国土であったのだ。洪水を貯め込みそれを制御するダムや遊水池はまだ建設されていなかった。そのため洪水は暴れ放題に下流の人々を襲っていった。山は荒廃していて、出水は土石流となり山間地の人々を襲った。川の堤防は弱く洪水になればあっという間に決壊し、濁流は人々の命を飲み込んでいった。」
 そうなのだ、当社も常願寺川、神通川、井田川などで施工した護岸工事を通して洪水による死者の減少に貢献してきたのだ。公共事業不要論という馬鹿げた意見がさも正論のように語られる昨今だけに、なお更公共事業を手がけてきたことに誇りを感じ、また、これからもしっかり公共事業に関わっていこうという勇気を与えられたように思った。
 第15章"やるせない川"には、「いかにして歴史と文化を失ったのか」というサブタイトルがついている。「戦後、安全のための河川整備、経済発展のための道路整備は言うまでもなく必要であった。それに与えられた予算はいつも不足がちで、その完成はいつも急がされていた。担当する行政は、安く早く「効率」だけを考え、歴史や文化や環境はないがしろにせざるをえなかった」ために「日本中の都会の川はやるせない川となってしまった」。
 しかし「全く新しい手法の『川を治める』時代が始まろうとしている」と著者は言う。それは川だけではなく道路においても建設業者の公共事業への関わり方が変わっていくということだろう。我々にとっても何ともワクワクするような遣り甲斐のある時代ではないか。
 筆者の竹村公太郎氏は、2002年に国土交通省の河川局長を退官した人で、私の大学の1年先輩であった。「公共事業という社会インフラの世界に生きてきた」著者は、「独特の気象と地形の制約を受けている日本、その日本から生まれてきた日本人、その日本人を土台で支えている社会資本を通して日本文明の生い立ちと現在を考え、未来の日本文明の有り様を考えていく」のであった。皆さんにも是非読んでもらいたい。 

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