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2007年2月

英語学習

 今日の午後"あさひホーム吉作"のパソコンで私の月間予定表を見て、このコラムの原稿締め切りが明日2月19日の朝8時であることをすっかり忘れていたことに気づいた。これは大変だと、いつもはすべての社員の週間スケジュール表に目を通すのだが、私がチェックしたというサインを必ず入れる12人分のスケジュール表だけをチェックし、急いで帰宅した。
 帰宅し早速コラムの執筆に取りかかろうとするも、さっぱりテーマが思いつかない。そのうちに眠くなる。ひと眠りすれば何か思いつくのではないかという妻の言葉に従い、床暖の上で一眠り。目が覚めたら8時過ぎ。でも、状況は変わらない。とりあえずパソコンを立ち上げる。ふと横を見ると、昨日買った本が目に入る。「?山英男の反復練習 大人の英語暗唱ドリル」。「ヨシ、英語で行こう!」と、コラムのタイトル「英語学習」が決定する。 
 母は多分、これからの世の中、英語が必要になると考えたのだろう。中学や高校時代は進学という目標もあり、英語もそれなりに勉強し、英語はどちらかと言えば好きな科目であった。しかし、大学に入って最初の教養部の2年間は、あまり英語の授業の予習、復習はしなかったように思う。今でも、1年間に1回くらい、大学生の私が、英語の試験が明日に迫っているのに、授業に出ていないために教科書を読んでもさっぱり理解できず、焦りに焦っているという怖い夢を見る。これは、大学時代の英語の不勉強と、実際に授業にはあまり出ず、たまに出るとフランス人教師にしかられていたフランス語の故だと思っている。
英語学習に目覚めたきっかけは、当社に入社して3年後の昭和53年の春、ひょんなことでEIL(国際生活体験)プログラムに参加し、1ヶ月間アメリカで過ごしたことであった。大学3年生の女子学生数人と一緒のグループに入って、まずサンフランシスコで一緒に英会話の勉強をした後、サンフランシスコ郊外のリバモアという町で別々にホームステイをし、その後は、ロサンジェルスのディズニーランドやハワイを観光した。サンフランシスコでは、一人で町を歩いて与えられた課題を解いたり、日曜日に教会に出かけた折に、アメリカ人男性から、当時日本から急増していた自動車輸出について批判されたり、日曜日に母子家庭を一人で訪問したりした。リバモアでも、ホストファミリーのお母さんに日本の年功序列賃金について説明し、お父さんの運転での長距離ドライブを体験し、近所の子供たちと遊びながら英語でカタツムリを何というか教わった。懐かしく印象深い体験である。 
 これをきっかけに、帰国してから毎朝NHKや民放ラジオの英会話番組を聞き、英語に関するさまざまな本を手当たり次第に買い、カセットテープの英会話教材を何種類も買い込んだ。 
 昭和60年には、その頃知り合った小沢伊弘さん(現アイバック社長)に連れられて、創造的問題解決手法を学びに、勉強会仲間でアメリカのバッファローに出かけた。アメリカで10年間、ハーバード大学で学び、卒業後働きもしていた小沢さんの英語は実に素晴らしかった。ニューヨークのおもちゃ屋で買い物した時、先にレジで勘定をしている小沢さんに、レジの女性が「あなたはアメリカ人か?」と尋ねているのを見て、すごいと思ったことを今でも鮮明に覚えている。
その後これまで20年余りの間、富山市外国語専門学校の夜間コースで6年間英会話を学んだこともあったし、テープからCDに変わった英会話教材を買ってきて寝床や車の中で聞いたりもしている。"マジックトーカーズ"という音声で学べる英語の器械も買った。しかし、どれも中途半端で上達したという実感は無く、外国に出かけるたびに、もっと英語がうまくなりたいと思うのである。 
 今は9000円くらいしたCDの教材を聞いている。小分割された文章が、まず左の耳から日本語で聞こえ、その次に右耳から英語で聞こえるというもので、シャーロックホームズの「ボスコム谷のミステリー」という話だ。ストーリーは面白かったが、「スラスラ英語を学ぼう」というキャッチコピーのようにはいきそうにない。しかし、何事も継続が大事。今後は学び方も変えたりして、75歳の頃には、スラスラ英会話ができ、手紙も書けるようになっていたいと思っている。                     
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