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2019年10月

東北大学で共に学んで50年を祝う会

 今年4月、住所があきる野市と記された鈴木さんという、名前に覚えのない人から手紙が届きました。開封すると、東北大学で同時期に共に学んでから50年が経ったということで、9月28日(土)の昼12時から仙台で、「東北大学で共に学んで50年を祝う会」を開こうと企画しているとのこと。末尾に「東北大学経済学部50周年同期会幹事グループ」として鈴木さんの他、佐藤、高久、星野、目黒の4人の名前が書かれていましたが、覚えているのは目黒さんだけです。彼とは宝生流と観世流と流派は違っていましたが同じ能楽部に所属していて、卒業後も年賀状のやり取りを続けていたからです。
 
 7月に正式の案内状が届きましたが、出欠の回答は8月9日までとなっていて、どうしたものかと迷いました。そこで7月19日に東京でセミナーに出席した後、東京近辺に住む大学柔道部の同期の仲間3人と飲んだ際に、同じ経済学部だった大野さんと和田さんに「50年を祝う会」に出るのかどうかと尋ねたところ、二人ともあっさり「出ない」とのこと。これで出席しようと腹が決まりました。理由は簡単、「せっかく幹事さんたちが準備してくれているのだから」です。
 
 出席の回答をしたところ、8月20付で幹事の鈴木さんから葉書が届きました。葉書には、「林さんのことは間違いでなければ、(教養部があった)川内(キャンパス)で腰に手ぬぐいを下げて自転車に乗っておられた姿と、おおらかなお人柄だったような記憶があります」と書かれていました。また、「今のところ22名が参加予定で、(私が3年生の時に所属していた)服部先生のゼミでは高橋信敏君が出席してくださるそうです」とも書かれていました。「腰に手ぬぐいを下げて自転車」は間違いなく私です。私は、鈴木さんが私のことを覚えてくれていたことを嬉しく思うと同時に、鈴木さんのことを全く思い出せないことを申し訳なくも思いました。また、服部ゼミの記憶もほとんどなく、高橋さんのこともこれまた思い出せませんでした。
 
 9月に入り、鈴木さんから4度目の便りがあり、現役で陣頭に立って活躍していて、今回はるばる日本アルプスを越えて参加してくれるということで、開宴に際し私に乾杯の音頭を取ってほしいとのこと。出欠の葉書に近況を書く欄があったので、私は「72歳になりましたが、建設業と介護事業の経営に携わっています」と書いたのですが、私以外の参加者は皆さん引退しているのだろうと想像され、また、日本海側からの参加は私だけなのだと分かりました。
 
 9月28日、大宮で北陸新幹線から東北新幹線に乗り換え、ジャスト3時間で11:07に仙台駅に到着。大宮から仙台への車中では、車窓から福島県の吾妻連峰や磐梯山、そして宮城県の蔵王などの山々を眺めながら、宮沢賢治の弟である宮沢清六さん著の「兄のトランク」を読んでいました。そもそも私が東北大学を受験したのは、受験勉強中に読んだ宮沢賢治の童話や詩に惹かれ、賢治が生まれた岩手県のある東北地方に行きたいと思ったからなのです。
 
 会場に着くと、受付で「やあ、林さん」と声をかけてくれたのが鈴木さんでした。でも、見覚えはありません。やはり声をかけてきた目黒さんは、少し太ってはいましたが、分かりました。受付でもらった参加者名簿を見ても、思い出す名前は目黒さんだけで、名乗ってくれた鈴木さん以外の19人は全く分かりません。
 
 祝う会が始まり、司会者の進行のもと、鈴木さんの開会あいさつに続いて私の乾杯です。「初めにお断りしておきます。背中は曲がっていますが心は真っ直ぐの林です。さて、あと3日で10月1日。消費税が10%に上がりますが、消費税が3%から5%に上がった時に作られた川柳が、“消費税 上がる前にと 無駄遣い”で、5%から8%に上がった時に作られたのが“値が上がる 物価に主婦が 音を上げる”でした。私は経済学部に入学しましたが卒業は柔道部なので、経済のことはあまり分かりませんが、消費税が10%になると不景気になるという予感がしています。さて、同窓会についてこういう川柳がありました。“同窓会 出ないと死んだと 噂され”というものです。5年前にも有志による会が行われたと聞きましたが、5年後にも行われると思います。その時には、今日お集りの皆さんには、死んだと噂されないよう必ずご出席ください。」と挨拶してから、「乾杯!」と発声しました。
 
 会食が始まり、参加者名簿の順に一人ずつ正面のステージ上で挨拶しました。顔も分からなければ名前も分からない人ばかりなので、一人ひとりの顔写真をスマホで撮りながら、名簿に書かれた近況や大学の思い出のメッセージの横に、スピーチでのポイントを書き込みました。最初に挨拶した恰幅の良い白髪の石井さんには、「64歳で仕事を終え、今は語学(ドイツ語)と釣りとゴルフ」と書いていました。2番目のスラっとした井上さんには、「学校に行かなかった」と書いていました。4番目の佐藤さんは、「軟式庭球部に所属していて、卒業時に学長賞をもらった」とのこと。杉本さんは日銀に30年間いて、香港大学に留学し中国語を学んで外交官も2年間やったとのことで、あとから、日銀時代に、富山第一銀行の現在の頭取の横田さんと一緒に働いていたと言われました。そして幹事で連絡係の鈴木さんの近況には、銀行に就職し55歳で退職し、2社で働いた後、年金生活が8年になったとあり、この間に暮らした地域は、東京が合計33年のほか大阪、広島、仙台、富山、国外各2~5年ずつと書かれていました。鈴木さんに、富山にはいつ頃いたのかと尋ねたら、平成11年から15年とのこと。高岡市民病院の近くのクラウンという喫茶店によく行ったと、懐かしそうに話してくれました。
 
 学生時代の思い出は勉強しなかったことと語る人が多く、ボート部に所属していた竹内さんの、松島にある合宿所で寝起きしていて、学校に行くと言うと周りの部員にびっくりされたという話を聞いて、私より上がいたと変に安心しました。今は、海外旅行や国内外の登山にいそしむ人、ボランティア活動をしている人、今年からパソコン教室に通い始め初級を目指している人など、それぞれの人生の一片を知ることができました。
 
 そして驚いたのが、山口八平治さんの「国分町の居酒屋“炉ばた”に夜の9時ころに行くと、店の祝ちゃん(祝子という名前)が鯨の刺身を出してくれた」という思い出話。私も柔道部の大野さんと時々出かけた店で、祝ちゃんが仙台弁で「おばんでござりす」と明るく迎えてくれました。彼女はやさしさに惹かれる女性でしたが、私がサラリーマンになってから聞いていたラジオ番組の永六輔の「誰かとどこかで」に、引退していた祝ちゃんに永六輔がインタビューしているのを聞いて驚いたことも思い出しました。その日の夜、仙台在住の柔道部の先輩、後輩と“炉ばた”に出かけ、当時と同じようにもんぺ姿で「おばんでござりす」と迎えてくれた年配の女性に祝ちゃんのことを話したら、何と彼女は昭和2年生まれとのこと。私より20歳も上ではないか!純情だった学生時代の私には、せいぜい2、3歳上にしか見えなかったのに、当時で40歳を過ぎていたことになります。
 
 この原稿を書きながら名簿の名前とスマホの写真を見比べても、学生時代の顔は全く思い出せませんが、皆さんそれぞれに社会に出てから頑張って生きてきて、仕事を退いた今も充実した日々を過ごされている様子に接し、思い切って同期会に出かけてよかったと思います。私自身も柔道と酒に明け暮れた青春時代、そして社会に出てからこれまでの49年間(私は1年留年したので、共に学んで49年なのです)を振り返ることが出来ました。そしてこれからも、健康に留意しながら、しっかり会社経営をしていこうという思いを強くしました。
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