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2020年3月

日本人の忘れもの

 昨年12月のコラム「中西先生 その2」で、12月中旬に高志の国文学館の職員が、館長である中西進先生の著書「日本人の忘れもの」を先生自筆の送り状と共に会社に届けてくださったこと、そして、第1章「心」から始まる3章21節のこの文庫本の「はじめに」は、「二十一世紀は心の時代だと考えることは、二十一世紀こそ、世界中に日本をどんどん知ってもらう時代だと考えることになる。もちろん、日本人自身ですらうろ覚えになっているものも、最近はほとんど忘れてしまっているものも多い。そこで二十一世紀を迎えて私たちが心がけるべきことを、おたがいに確認しておきたい。」と締めくくられていて、一気に読みたいと思ったが、「銀河鉄道の父」のように読み終える目標の時期が無いと、ついつい仕事に関する本が先になるが必ず読み終えると、決意表明しています。
 
 「銀河鉄道の父」を2月9日に読み終えてからすぐ「日本人の忘れもの」を読み始め、土曜日や日曜日に集中的に読み進み、3月15日の日曜日に読み終えました。
 
 見開き2ページの目次を開くと、第1章「心」には、「まける」、「おやこ」、「はなやぐ」、「ことば」、「つらなる」、「けはい」、「かみさま」、第2章「躰」には、「ごっこ」、「まなぶ」、「きそう」、「よみかき」、「むすび」、「いのち」、「ささげる」、そして第3章「暮らし」には、「たべる」、「こよみ」、「おそれ」、「すまい」、「きもの」、「たたみ」、「にわ」と、それぞれ7節の全21節がすべてひらがなで書かれています。この3章21節のひらがながすっと目に優しく入ってきますが、各節の下には、二回りほど小さな活字でこの節の要旨が記されています。この要旨、例えば、「おやこ」には「家族問題を招く子ども大人の氾濫」、「はなやぐ」には「恋愛は心の匂いだった」を読んだだけで、本文にはどんなことが書かれているのかと心がはやりました
 
 ここでは文字数の関係で、第1章「心」の第1節「まける」の最初の部分を記すことで、この本全体を想像してもらいましょう。
 
 第1「心」の章の最初の節「まける」の要旨として、「相手に生かされる道をさぐる」と書かれています。まずこのフレーズにグッときました。負けると生かされるがどうつながるのかと思いました。次に「日本の悪口を言うのがインテリの証?」と項立てされ、「今までの日本はおかしかった。とにかく日本の悪口を言っていればインテリなのである。反対に日本に味方するとすぐ国粋主義者のレッテルをはられ、極端になると特別な組織の人間にさえみなされてしまった。」と、本文に入ります。次の項は「まけるが勝ち」、そして「生かされて生きる」の第3項となります。以下すべての節は3つの項で構成されています。
 どの項を読んでも、こんな見方があったのかと思わされ、文字通り目からうろこの思いがしましたし、随所に、言葉や漢字の成り立ち、そしてその言葉や漢字の意味が説かれていて、中西先生の博識に感嘆しきりでした。
 
  第2章「躰」の第2節「きそう」の要旨は「競技とはお互いの成長を目指すものだ」とあり、第1項が「張り手は許されない」で、2000年の秋場所で旭鷲山が玉春日に対してくり出した二十数発の張り手をとりあげています。中西先生のこの項で言われることは理解できますが、一方で、最近しきりに批判される横綱白鵬の「かち上げ」や「張り手」に思いがいきます。私は「張り手」は反則技ではないし、白鵬は、八百長問題で中止になった2011年3月の春場所の次の天皇杯を辞退した5月大阪場所で7連覇し、一人横綱の責任を果たした立派な力士だと思っていたので、中西先生のこの説には驚きました。しかし第3項の「勝負化したオリンピック」で、「きそうことでお互いが成長する。だからオリンピックは意義があるといった初心にもどる必要があろう。その点、相撲を日本人はいつまでも持ちつづけて、忘れ物としてはいけない。だから、勝てばいいのだからとばかりに二十数回も張り手をくり返す力士は、本質をはき違えている。張り手にかぎらず、『すもう』でない相撲をいさめるべきであろう。」に、横綱が張り手をするのは品格にかけるという視点からの白鵬の張り手に対する批判ではなく、「すもう」でない相撲という観点からの張り手批判に、私や世間一般とは考え方や発想のレベルが違うと思いました。
 
  「日本人の忘れもの」は第2冊、第3冊も出版されています。社員の皆さんも「日本人の忘れもの」を読むことで、日本人としての自分を見つめ、日本人に生まれてよかったと感じてほしいと思います。
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