先月のこのコラム「創業80周年に思う」は、「今月は、私の母方の祖父である当社の初代社長林銀蔵が、1940年(昭和15年)10月に高岡で個人経営の巴組を創業してから80周年に当たります。」と書きだしました。
今月は「創業80周年を考える」と題して、80という数字から想起されることを書いてみます。
まず、1940年に創業して今年80周年を迎えた会社が全国にいくつあるか調べたところ、帝国データバンクの調査によると2,705社ありました(下記のグラフ参照)。このグラフで注目したのは、70周年企業が13,651社なのに80周年は2,705社にがくんと減っていることです。71周年から79周年までの各周年の企業数は分かりませんが、多少の凸凹はあっても右肩下がりで減少していることは間違いないと思います。先月号では、この10年間を「経済面でも、失われた20年と言われた2010年代初頭までの日本経済が持ち直しつつあったところに、今またコロナ禍で経済が落ち込んでいて、総じて、良い10年間ではなかったと感じます」と振り返っていますが、この数字を知り、廃業も倒産もせずに10年間経営が続いたのは、当然のことだったのではなく、社員皆で頑張ってきた結果だったのだと思いました。
また、90周年企業数が3,049社、そして100周年企業数が1,176社にも目が注がれました。これも、各周年の間の企業数は分かりませんが、ざっくり言えば、90周年までは持つが100周年となると厳しいということでしょう。参考にしたい数字です。
さて、長寿を祝うのは60歳の還暦からですが、80歳は傘寿(さんじゅ)と言い、傘の字の略字「仐」を分解すると八十となることに由来しています。そして90歳は卒寿(そつじゅ)で、卒の字の略字「卆」が九十と読めることに由来し、99歳は百から一を引くと「白」となることから白寿と言います。そして100歳は100歳であることから百寿(ひゃくじゅ・ももじゅ)です。
次に80年を私個人に当てはめてみると、私が28歳で当社に入ったのは1975年(昭和50年)、創業35周年の年でした。それから45年、結婚し、4人の子ども、そして2人の孫を持つ73とになります。この間いろんなことがありましたが、月並みですがあっという間でした。いろんなことに取り組みましたが、遅まきながら2016年から3年間の中期経営計画を策定し、今年は第2期のVISION2021∼Chance Challenge Change∼の2年目です。この中計の第5期は2028~2030年で最終年の2030年が創業90周年で卒寿となります。傘寿の80周年から卒寿の90周年を経て、百寿の創業100周年までの、中計を繰り返しながら歩む20年間は、AIやDX(デジタルトランスフォーメーション)など目覚ましい進化を遂げるでしょうが、当社がこれらの道具を使いこなしてどのように進化を遂げるか、どんな会社に変わっているのか楽しみです。その時私は、93歳!
今月は、私の母方の祖父である当社の初代社長林銀蔵が、1940年(昭和15年)10月に高岡で個人経営の巴組を創業してから80周年に当たります。しかし、創業が10月の何日だったかの記録は残っていません。
昨年の秋、本部長会議で専務と営業本部長に、来年の創業80周年に記念事業として、まず年度初めで工事発注が少ない5月に、2班に分けて1日違いの出発で2泊3日の記念旅行を実施し、1班の2日目、2班の初日の夜に、同じ宿で1班と2班が合流して大懇親会を行う、次に創業月の10月には、全社員と協力会のアサヒ会会員との出席で、70周年記念事業として行って大変好評だった祝賀会をまた企画しよう、そして、70周年と同様にDVDも作り、70周年以降の10年間の記録を残しておこうと提案しました。
しかし今年に入ってNEXCO中日本の高速道路の工事を昨年に引き続き下請け受注し、5月の記念旅行の頃にも毎日10数名の社員が朝早くから工事に携わる予定となったので、まず5月の旅行が消えました。そこに3月からの新型コロナウイルス感染の全国的な広がりですべての懇親会が中止されるようになりましたが、10月には終息していて、3密を避けながら大きな会場で祝賀会を出来るだろう、アトラクションには知り合いのオペラ歌手を呼ぼうなどと思っていました。しかしながら8月から9月にかけて、新型コロナウイルスの第二波が到来し10月にも収まる気配が無くなり、この祝賀会も泡と消えました。
そこで、50周年までの歴史は50周年記念誌に詳しく書かれており、その後の70周年までの20年間の記録はDVDに収められているのに、80周年を記念するものが何もないのは寂しいとの思いから、会社の歴史をきちっと記録するため、この10年間をメインに80周年記念DVDを作ることにし、今月制作に取り掛かりました。
この10年間を振り返ると、先ず思い出されたのが未曽有の被害に見舞われた2011年3月11日の東日本大震災と、翌年5月24日の、私の父である会長の死ですが、東日本大震災の後も、台風や豪雪などの多くの災害が発生しました。そして、うるわしい平和を築こうという意味が込められている令和の2年間も、阿武隈川や千曲川の堤防が決壊するなど、河川の氾濫、決壊が相次いだ昨年の台風19号や、今年の7月に熊本県を中心に九州や中部地方など日本各地で発生した豪雨など、令和という元号に似つかわしくない災害の発生が思い浮かびます。そして、この10年間に、災害復旧支援のために当社からも社員を派遣した5度の災害復旧活動も記憶に残っています。
経済面でも、失われた20年と言われた2010年代初頭までの日本経済が持ち直しつつあったところに、今またコロナ禍で経済が落ち込んでいて、総じて、良い10年間ではなかったと感じます。
しかし、1985年に14億円を超え、1996年には30億円を超えた売上高が、この10年間のスタートの2011年は、14億2100万円と最低でした。しかしこの年の営業損益では、17億7600万円の売上高で6000万円以上の赤字を計上した2005年に比べ、50万円ほどの赤字で済みました。これは、2006年から工事と財務を統合したシステムを導入し、CZ式原価管理手法が定着したことによる成果だと考えています。その後増収を続け、2015年には売上高24億3700万円、営業利益1億3920万円の好決算でした。この年に、今後予想される厳しい経営環境に対応するため、VISION1.2.3と名付けた中期経営計画を初めて策定しました。これは2016年から2018年までに、「営業利益1億円、売上高20億円を平成30年に達成する」というもので、1、2年目は目標数字を達成できましたが、3年目は2つの数字とも未達でした。昨年から6月決算に変え、今年6月の決算では売上高21億8700万円で営業利益は1億5670万円(営業利益率7.16%)と1億5千万円を超え、1946年(昭和21年)の設立以降で最高利益になりました。
そして昨年2019年からは、Chance、Challenge、Changeの3Cをテーマにした新たな中期経営計画VISION2021を策定しました。ここでのチャレンジの一つが高速道路の仕事に携わることでしたが、昨年そして今年と下請け受注しました。もう一つのチャレンジが、災害復旧にワンストップで対応できる体制を作るための管工事業への進出でしたが、ハードルの高いこのチャレンジも今年3月に酒井管工建設を買収することでクリアしました。
ここまで、この10年間の日本の社会、経済状況や当社の業績と活動を振り返りましたが、2030年の創業90周年に向け、ますます3Cの重要性が高まると考えています。コロナが終息しても大きな経済的打撃を被っている中で、経営理念の1番目「世の中の役に立つ。そして、ふるさと富山を発展させる」ためには、経営理念の2番目「成長する資源」である社員が土台であり、すべての部門において「絶対人事評価」システムで個人が決めた目標に向かって、自分の職務において日々チャンスをつかみ、それに積極的にチャレンジし、成長に向かってチェンジしていく社員の育成が肝要です。
地域社会も個人や会社と同じで、自らが変わろうという意思も持って、チャンスを逃さず、果敢にチャレンジし、変えていき変わっていかなければ発展しませんし、ワクワクする地域は作れません。この観点から、政治は重要です。今、富山県知事選挙戦の真っ最中ですが、私は、どの候補がワクワクする富山県に作り替えようという思いが強いかを、投票の判断基準にしています。民主主義は、選挙で投票することからスタートします。必ず投票しましょう。
新元号の令和を発表して「令和おじさん」の愛称がある菅官房長官が総理大臣に選ばれましたが、その令和の考案者と目される高志の国文学館館長の中西進先生に関してのコラムを、聴講した講演会について2回、著書を読んでの感想を1回書きました。今回も、感心しながら聴いた中西先生の講演会について書きます。
9月5日の土曜日、高岡文化ホールでの「中西進講演会 家持のまなざし―富山の風土を見つめるー」に、事前申し込みして聴講が認められ、どんな話が聴けるかと楽しみに出かけました。新型コロナウイルス感染予防のための座席指定券に従って、1席ずつ空けた椅子に着席しました。中西先生は、講演の内容が記されたA41枚の資料に沿って話されましたが、過去2回の講演と同様、ユーモアを交えながらの講演でした。
今回は、iPadではなくiPhoneにメモしましたが、今、資料とこのメモを見ると、講演会の様子がよみがえります。改めて、メモすることの大切さを思い、メモを見ながら、このコラムを書き進めます。
講演は、前半の㈠能登そして「家持屏風」と、後半の㈡天平の眼、勝宝の眼の構成でした。前半は、聖武天皇に尽くすのが家持であるという話から始まっての、年表の説明でした。
この屏風を中西先生は「家持屏風」と名付けたとのことで、ここにも中西先生のユーモアが感じられました。講演の後半部分の天平の眼、勝宝の眼では、家持が越中国守を勤めた5年間のうち、聖武天皇が在位中の天平に詠まれた歌から3首が能登巡行の歌(抄)として、聖武天皇が退位されてからの勝宝に詠まれた歌からも3首が春苑桃李の歌(抄)として取り上げられています。能登巡行の歌には、発見 旅 朝 鄙 自然、春苑桃李の歌には、沈潜 苑 夜 都 花鳥 がキーワードとして書かれていて、前半は能登がバックスクリーンで、後半は都がバックスクリーンであり、多くのバックスクリーンがあったと話されました。キーワードの「発見」と「沈潜」では、発見する、見ると、眺める、ぼんやりしているとは違う、前半には地名がたくさん出てきて、行動を促すような「発見」をしているが、後半には地名は出てこない。後半の3番目に紹介された歌に射水川とあるが、これは「発見」ではなく主題は船人。そして「全日空ホテルの中華料理店にしか桃李は無い」と笑わせてから、「春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に 出で立つ少女(おとめ)」の歌について、「旅」に対して「苑」は現在の庭のことであると説明され、前半の「旅」をしながら詠った歌と、後半の庭(「苑」)で詠った歌との違いを説明されました。そして、前半の1番目と3番目の歌には、「朝凪」や「朝びらき」と「朝」が詠われ、後半の2番目の歌には、「さ夜更けて」と「夜」が詠われていて「朝」と「夜」とに分けられていているが、3番目の歌に「朝床に」とあるのは、夜の延長線上の最後としての「朝床」である。さらに、前半では能登の「鄙」びた風景を詠っていて、1番目の歌では、大和の風の中の能登の「自然」の風景を詠っているが、後半は、「都」の風景であり、後半の1番目の歌には桃の花、2番目の歌には鴫(しぎ)といった「花鳥」が詠われていて、3番目の歌「朝床に 聞けば遙(はる)けし射水川 朝漕ぎしつつ 歌ふ船人」も、あたかも「自然」の風景を詠っているようで「花鳥」 に似ていると解説され、前半と後半に分けて万葉集を読んでみると良いと締めくくられました。
さすが文化勲章を受章した文学者は違う、大伴家持の歌を、いろんな切り口で何と深く読み解き、分析されるものかと、しきりに感心しながら聴き、中西先生が高志の国文学館の館長に就かれたことで、4回もコラムに書きたくなるご縁を頂いたとうれしく思いました。
しかし、私の文章が拙いせいで、コラムを読んでも、万葉集の前半と後半の違いはさっぱりお分かりにならないと思います。ぜひ、先生の講演を聴き、91歳の中西先生のお人柄に触れてください。