タイトルは与謝野鉄幹作詞の「人を恋うるうた」の一題目の歌詞にあります。「妻を めとらば 才たけて みめ美わしく情ある 友をえらばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱 」という歌詞で、学生時代に友人と酒を酌み交わしながら歌いました。
今回「友をえらばば書を読みて」をコラムのタイトルとしたのは、最近人から頂いたり、薦められたりした本が3冊あるからです。1冊目は直木賞作家門井慶喜さんの「銀河鉄道の父」です。2017年7月に105歳で亡くなった聖路加国際病院名誉院長日野原重明先生の著書「生きていくあなたへ〜105歳どうしても遺したかった言葉〜」を輪読する「新老人の会」富山支部の昨年8月の読書会で、日野原先生がこの著書の中で宮沢賢治に触れられた一節について私が賢治の愛読者だと話しました。このことを覚えておられた80歳の元国語の先生が、次の11月の読書会に「銀河鉄道の父」を持って来て貸してくださいました。418ページもある分厚い本でしたが、正月からほぼ毎日読み続けて読了し、 2月11日開催の読書会にお返しできました。宮沢賢治の生涯についてはそれなりに知っているつもりでしたが、賢治の父の政次郎のことをよくここまで調べたものだと思いながら読み進みました。政次郎や賢治の人となりが活き活きと描写されていて、妹トシや賢治の臨終の場面では涙しました。
2冊目は、古志の国文学館館長で令和の名付け親である中西進先生の著書「日本人の忘れもの(1)」です。昨年11月の富山経済同友会例会は中西先生の講演で、その時に購入した先生の本に講演後の懇親会の席でサインをお願いし、富山県美術館で聞いた先生の講演について社内報のコラムに書いたと話したところ、「そのコラムを見せて下さい」と言われました。そこで後日、印刷したコラムを古志の国文学館に届けたところ、12月中旬に文学館の職員が、この「日本人の忘れもの」を先生自筆の送り状と共に届けてくださったのです。「まける」から始まる3章21篇の文庫本ですが、「はじめに」の最後に「二十一世紀は心の時代だと考えることは、二十一世紀こそ、世界中に日本をどんどん知ってもらう時代だと考えることになる。もちろん、日本人自身ですらうろ覚えになっているものも、最近はほとんど忘れてしまっているものも多い。そこで二十一世紀を迎えて私たちが心がけるべきことを、おたがいに確認しておきたい。」と書かれていています。一気に読みたいところですが、「銀河鉄道の父」のように読み終える目標の時期が無いと、ついつい仕事に関する本が先になります。でも、必ず読み終えます。
3冊目は「文藝春秋」の最新号第98巻第3号です。2月13日の木曜日に行われた、高校時代の同期の有志が集う木曜会の食事例会で、隣に座ったI君に、最近の若い人は本当に言葉を知らない、数学者で作家の藤原正彦が、ベストセラーとなった「国家の品格」で「一に国語二に国語、三四がなくて五に数学」と言っているが全くその通りだと思うと話したところ、I君がこの文藝春秋に、藤原正彦が今話題になっているIRについて書いていてIRの本質がよく分かったと教えてくれました。そこで翌日の東京出張の際に東京駅で買い求め、ニチレキが主催する講演会が始まる前にこの雑誌の目次を目で追ったところ、巻頭随筆の最初に、「持統天皇に背いた私」のタイトルで藤原正彦の随筆が載っていました。2ページの文章なので講演が始まる前に読み終えましたが、I君が言う通りでした。「今回のIR推進とは単なる経済政策の一つではなく、『賭博は不道徳』の伝統を捨てることなのである」に、なぜ私がIRに対して直感的に嫌悪を感じるか納得できました。
最後は「友をえらばば書を読みて」そのものの友人の話です。大学入学するとすぐ柔道部に入部しましたが、同じ経済学部から入部した5人のうち私とO君、W君の3人だけが卒業まで残りました。そのW君が非常な読書家で、私に「太宰(治)を読め」と言うので、文庫本を買い求めて「斜陽」や「人間失格」「走れメロス」などを読んでいたら、W君は「太宰は古い、坂口安吾がいいぞ」と言うのです。そこで無頼派と呼ばれた坂口安吾の「堕落論」「白痴」「桜の森の満開の下」などを読みました。W君と知り合わなかったら、太宰治は読んでも坂口安吾は今でも知らなかったと思います。このW君が再び教えてくれた人物が、今年の年頭あいさつでも取り上げた中村天風です。天風を知ったのは、かれこれ10年ほど前に彼から届いた年賀状に一言「宇野千代の『天風先生座談』がおもしろいよ」と書かれていたのです。早速この本を読んで、日本にすごい人がいたことを知り、1万円ほどする分厚い「成功の実現」をはじめとして何冊かの天風の書物を買い求めました。さらに、たまたま耳にした北陸天風会の講習会にも参加し、そこで販売されていた「真人生の探究」や全4巻の「マンガ中村天風」を買いました。
中村天風の「絶対積極」の教えは、今や私の生き方や経営感の中心になっており、大学時代のW君との出会いがなかったら、今頃はもっとよい加減な生き方をしていたのではないかと思うと、本を読む友や知人を持つありがたみをつくづく感じます。社員の皆さんに読書家の友達はいますか?
今年の年頭挨拶の最後のスライド「社員全員に望む姿勢 その2」は「読書習慣を身につけよう!1日1時間 毎日」でしたね。「1日4回メシを食う」という言葉を聞いたことがあります。4回のメシとは、3度の食事と1度の読書という食事です。本も食物も栄養になる点では同じで、よく噛んで食べることで人間が作られるのです。
ドイツの心理学者「ヘルマン・エビングハウス」は、彼が発表した「エビングハウスの忘却曲線」で、人間は聞いたことを20分後には42%忘れ、1日後には74%忘れ、1週間後には77%忘れると言っています。であれば、1月6日の新年式から1週間たった今日(1月12日)、社員の皆さんは、私の年頭あいさつを77%忘れていることになります。そこで、今回は年頭あいさつを要約し、思い出してもらおうと思います。
今年の年頭あいさつは、社員の皆さんに少しでも興味を持って聞いてもらいたいと、最初に「昨日の朝ラジオで聞いた話ですが、休肝日は設けない方が良いらしいです。肝臓だけ休むと、毎日動いている他の臓器が不公平だと怒り、肝臓をいじめるかもしれない。特に心臓は総理だから一番偉いので」と話しました。この話は伊奈かっぺいが話したジョークで、心臓=総理=(安倍)晋三という掛け言葉も入っています。でも、あまり反応はありませんでした。また、論語の言葉を紹介するときに、大谷翔平のマンダラシートの話を交えましたが、社員の皆さん、覚えていますか?
私は、これまでの年頭あいさつでは、3ヶ年中期経営計画に沿っての年度方針の発表と説明に時間を割いてきましたが、元号が令和に変わって最初の新年式の今年は、社員教育の意味合いをこめた内容にしようと、これまでと少し趣を変えました。まず最初のスライドで、「令和」の名付け親である高志の国文学館館長の中西進先生は、「令」は「麗しい」、「和」は「平和」と「大和」を表現していて、「麗しき平和をもつ日本」という意味だと言っておられると紹介しました。続けて口頭で、「令和の昨年は、一昨年に続き台風15号による千葉県での断水被害や、台風19号による千曲川の氾濫などの自然災害に見舞われたましたが、凶悪事件もたくさん発生しました。犠牲者36人をだした京都アニメーションの放火殺人事件や、両親や大人からの幼児虐待死事件などの悲惨な事件を思うと、とても麗しく平和な日本とは言えない年であったと思います」と話し、「そこで思い出したのが、論語にある『恕(じょ)』です。孔子が人生で一番大切なことだと説いたのが、恕=思いやりです。“其(そ)れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ”と言われました。それは思いやりです。自分がされたくないことを人にしてはいけません。ということです」と話を展開しました。
そして「恕」とは、辞書には「他人の立場や心情を察すること。また、その気持ち。思いやり」と書かれているが、昨年から当社に導入した「あしたのチーム」式人事評価で、社長が決める3つの全社行動目標の一番目に「思いやり」を掲げたのは、当社の社員の行動に「思いやり」に欠けた行動が見受けられるからだと話しました。そして、各部署に掲示している「社会人としての素養」の中の思いやりに関連する項目として、①人に対して思いやりがあること、②人の気持ちを理解し、決して人の感情を傷つけるような言動をしないこと、③人を許す寛容さをもっていること、④性格が穏やかであることの4つを表示し、普段の自分自身の行動を振り返って、これらの素養に反する言動はありませんか?と問いかけました。そして、これらの素養を身に着けた社員の集まった会社は、パワハラのない社風であり、それは、現下の最重要課題である人材確保・定着の基本であると説きました。
その後に、中村天風師の「ばい菌一匹でも、目的無くこの世に出てきたものはない」と「この世、この時、人間に生まれてきたのは、人の役に立つために生まれてきたんだよ」から、何事も目的をはっきりさせることから始まるのであり、朝日建設の目的は経営理念だと話し、経営理念を達成するには、Chance、Challenge、Changeの三つのCが必要なので、全社行動目標の二番目にChanceをつかむのに必要な問題意識力を挙げ、三番目にはチャレンジ性を挙げたのだと続けました。そして、当社でこれまで行ってきた数々の施策を示しながら、これらはすべて3Cに則って行ってきたものであったと振り返りました。
終盤には、「社長が知るべき人間学と経営」というセミナーで聞いたリーダーシップに関する言葉「リーダーシップとは、20%が仕事力(スキル)80%が人間力(マインド)。リーダーシップとは、人を鼓舞して、望ましい方向に導く(リードする)力である」を紹介し、この視点で当社の管理職社員を見てみると、いささかリーダーの資質に欠ける人もいると思ったと、耳が痛い管理職もいるかと思いながら、正直に話しました。
そして最後は「社員全員に望む姿勢」として、まず一番目に、中村天風師の「人生と積極精神」から、「言葉というものには、強力な暗示力が固有されている。従って特に積極的人生の建設に志す者は、夢にも消極的の言葉を戯れにも口にしてはならないのである」、「どんな場合にも『困った』『弱った』『情けない』『助けてくれ』なんていう消極的言葉を、絶対に口にしないことです」、「幸福や幸運は、積極的な心もちの人が好きなんですよ」などの名言を紹介して、消極的な言葉を使わないようにしよう、それを習慣化しようと要望しました。そして二番目に「読書習慣を身につけよう!1日1時間 毎日」と要望しました。これは、言葉を知らない社員、言葉の意味を理解できていない社員が目立ち、これでは日本語でまともにコミュニケーションが取れないからです。スライドは作りませんでしたが、ベストセラーの「国家の品格」の著者である数学者の藤原正彦氏は、「一に国語、二に国語、三四が無くて五に数学」と言っていることも紹介しました。
最後のスライドとして、創業の1940年から今年の2020年、そして創業100周年の2040年へのレモンイエローの階段を映し、クリックして、2020年の数字の下に創業80周年という文字を出現させ、80周年記念行事として、昨年好評だった社員旅行を計画したいという言葉で挨拶を締めくくりました。
思い出していただけましたか?
5月のこのコラムで、3月3日(日)に富山県美術館で、高志の国文学館館長中西進氏の「余白空白 そして留守」という特別講演を聴いて、「表現の正道(せいどう)を真っ直ぐに歩いてきたのが日本画家である」という締めくくりの言葉に、日本人の感性に驚いたという話を書きました。
この中西進先生の講演を、富山経済同友会の11月会員定例会で再び聴く機会を得ました。演題は「日本文化の原点『万葉集』をひもとく」で、今回はiPadを持って行かなかったので、案内チラシの裏に書き留めました。相変わらず、読み返して判読できない文字がありましたが、ぜひ皆さんにお伝えしたいと思います。
1時間の講演は、(1)日本の歴史、(2)愛、(3)和、の3部構成でした。
(1)日本の歴史では、万葉集の最初の歌を作った雄略天皇(注、420〜480?)の5世紀から始まると話し出されました。ギリシャはプラトンのアカデミズムに見られるように、政治の根幹は学術にあると考え、学術をよく知った哲学者でなければ政治家になってはいけないと考え、中国は官僚採用試験の科挙(かきょ)に見られるように、カンニングしても合格を目指し、自分の意見を持った者が政治を行う文人政治であった、これに対して日本は、天皇は和歌を詠めなければいけないという歌人政治であった、と解説されました。日本の政治の支配者は武士ではないのかと思われるかもしれないが、武士も歌を詠めなければ武士(もののふ)ではない、それを見事に表したのが万葉集の最初の歌であるとのことです。となれば天皇、皇后は立派な歌を詠まれますが、政治家で和歌を詠んだという人は、聞いたことがありません。
(2)愛では、万葉集の最初の歌はプロポーズの歌であり、日本の骨組みを作っている愛が、根幹として国民性に染み付いていると話し始められました。「美しい」とは美しむ(うつくしむ)べきもので、愛しむ(いつくしむ)、愛おしむ(いとおしむ)と同じであり、美は愛の感情の中で価値観を決めている、これが愛の概念であると、いささか難しい話になりました。さらに、美とは中国の解釈では羊の焼肉だが(これはジョークか?)、論語で美と並んで最高の地位の善も羊から成り立っていると話が展開しました(漢字・漢和辞典:善は会意文字です(羊+言+口)。「ひつじの首」の象形と「2つの取っ手のある刃物の象形と口の象形。「原告と被告の発言」の意味から、羊を神のいけにえとして、両者がよい結論を求める事を意味し、そこから、「よい」を意味する「善」という漢字が成り立ちました)。(この後のメモは、書いている字が判読できず、何を書いているのかわからないので飛ばします)そして愛の歌である相聞(そうもん)と、死を歌っている挽歌(ばんか)の話に展開し、愛している者が死ぬから悲しい、愛もまた死、死もまた愛と続き、生きている喜びは愛することができる喜びであり、道を歩いていて夜空が美しい、夜景が美しいと思うのも愛であると結ばれました。「生きている喜びは愛することができる喜び」という話に、なるほどそういうことなのかと、合点しました。
(3)和では、「和して同ぜず」というように、同はいけない。万葉集は集団で歌を作る歌群、連作だが、古今集は一句一句しか見ないという話から、聖徳太子の17条憲法は「和を以て貴しとなす」の平和を願う憲法であり、「篤く(あつく)三宝を敬い」として宗教で解決せよと言っている。怒ってはいけない、皆、自分が偉いと思うから怒ると、私には耳の痛い話をされました。また、万葉集は17条憲法の150年後の動乱期に編まれ未完に終わっていて、300年後に古今集が編まれたということです。さらに、8という偶数の最後と、9という奇数の最後を足すと17になるという話をされましたが、17には何か深い意味があるのでしょうね。和は、昭和の和、令和の和、そして私の名前の和夫の和だと思うと、和夫って良い名前だなあと思うのです。
そして講演の最後はやはり「令和」の話で、善と並び美しさの最上級の言葉の令は、細やかな美しさのことで、これを「詳(くわ)しい」と言い、自立性を持った美しさが「令」である。誇り高くということで、英語で言うところのNoblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ、簡単に言うと「貴族の義務」)であると締めくくられました。「詳しい」がなぜ美しいと結びつくかと思い、詳細という言葉もあると思って大辞林を調べたら、「くわ・し 【細▽し・美▽し】( 形シク )こまやかに美しい。うるわしい。」とあり納得しました。
5月のコラムの最後に「これからの令和の時代が、中西先生の持論『元号は時代に対する、おしゃれみたいなもの。美的な感覚を楽しむ文化の一つ』を実践し、肩の力を抜きつつも、うるわしい平和な時代を作るために、私も楽しみながら、しっかり歩んでいきたいものだと思います。」と書きましたが、経営においても、個人生活においても、美的感覚を楽しむことを本気で実践しなければいけないと、このコラムを書きながら思いました。思っても行動しなければ、思う意味がありませんからね。
最後に、講演会で販売されていた、中西進先生監修のたくさんの本の中から買った「図解雑学 楽しくわかる万葉集」から、雄略天皇の歌の口語訳を紹介します。
籠(かご)よ、美しい籠をもち、箆(へら)よ、美しい箆を手に、この岡に菜(な)を摘(つ)む娘よ。あなたはどこの家の娘か。名はなんという。そらみつ【*大和(やまと)にかかる枕詞(まくらことば)】大和の国は、すべてわたしが従えているのだ。すべてわたしが支配しているのだ。わたしこそ明かそう。家がらも、わが名も。