新型コロナウイルスを考える

2020.04.01

  日本における新型コロナウイルスの感染者が1月15日に初めて確認されてから4月20日に10,751例になり、富山県でも3月30日に感染が確認されましたが、4月20日には114人となり、死者も2人出ました。

  手作りマスクの初めてのニュースとして、3月17日に、甲府市の中学1年生の女子生徒が、材料費およそ8万円は幼いころから一度も使わずにためてきたお年玉でまかなって自分で作ったマスクおよそ600枚を山梨県に寄付したという心温まる報道を耳にしましたが、その後、全国でも富山県でも、感染者や医療従事者に対する心無いバッシングが起きていること、在宅勤務によるDV(ドメスティック・バイオレンス)が増えていること、また、新型コロナウイルスに便乗した悪徳商法がすぐに現れたことに、日本人として情けなく思いました。

  この新型コロナウイルス感染者の急速な拡大に対して、2月27日の唐突な全国の学校休業の打ち出しに始まり、466億円かけての布マスク2枚のアベノマスク、減収世帯への30万円の支給を撤回して制限なしの国民一人当たり一律10万円の給付、休業要請をめぐる迷走、そして安倍首相の自宅でくつろぐ動画のツイッターなどの国の対応に批判が殺到しています。官邸官僚に頼る安倍首相による失政であり、批判されて当然だと思います。さらに、麻生太郎副総理兼財務大臣の、10万円給付に関して「今回は要望される方、手を挙げていただいた方に給付する」との「自己申告すれば給付する」と受け取れる言葉に、批判が噴出したのは当然でしょう。相変わらずの反省のない人です。

  また、国がすべての都道府県に緊急事態宣言を拡大したことを受けて、Ⅰ知事が17日に県民へ不要・不急の外出自粛を改めて呼びかける一方、商業施設などへの休業要請はしない考えを示したことに対して、前県議会議長のN氏が18日にフェイスブックで、「県民の生命を守る気概が足りない」、「首長は感染者の少ない段階で自粛や休業要請をする勇気が必要だ」と苦言を呈しました。ニューヨークのクオモ州知事は「責任はすべて負う、非難するなら私を非難してくれ」と言いましたが、Ⅰ知事も、国や他県の様子見ではいけないと思います。

  しかし当社においては、東日本大震災後に組織した経営企画室BCP(事業継続計画)対策グループが素早く動き、全社員が携帯電話で使えるセコムの安否確認サービスを使って、4月3日に密閉・密集・密接の3密を避けるよう全社員に通知し、その後も、消毒用アルコール、マスク、非接触温度計の購入手配状況や、職場で濃厚接触者とみなされる家族のPCR検査状況を敏速に知らせるなど、4月19日までに9回の情報発信をしています。マスクは第一弾として1人5枚ずつ支給済みですが、20日には4月3日に発注した2,800枚のマスクが納品されました。4月18日の出勤土曜日に開催した安全衛生会議は、Microsoft Teamsを使ってのテレビ会議で、本社4階の会議室で5人、富山オフィスで1人、八尾オフィスで2人が参加し、活発な議論が交わされました。

   また、子会社の老人介護事業所あさひホームやあさひホーム吉作では、グループホームでのご家族の面会を控えてもらい、私も4月からは週2回のグループホームでの昼食が出来なくなっています。当然ですが、職員の感染防止のために利用者さんや職員本人の体調の把握に努め、訪問介護や関係者との外部での打合せには除菌スプレーを携帯しています。さらに、保育士に感染者が出た東山保育所に子どもを預けていた2人の職員には出勤を2週間控えてもらい、妊娠している3人の職員にも本人の不安を考慮して休んでもらっています。介護職員が慢性的に不足している中、介護職員が責任感を持って勤務していることに感謝し、医療、交通、食料などと同様、生活を維持していくうえで必要不可欠な介護を提供し続けられていることを嬉しく思います。しかし危機対策は「大きく構えて小さく収める」です。万全の準備を構えて事に臨めばよい結果を得るということであり、管理者はこの言葉を肝に銘じて、“ここまでやるか”というほどの対策を実施して下さい。 

  国、県、会社から私個人に移ると、まず新しい英語を覚えました。パンデミック(世界的大流行)は知っていましたが、河野防衛相が公式ツイッターに投稿した「クラスターは『集団感染』、オーバーシュートは『感染爆発』、ロックダウンは『都市封鎖』で言い換えられる」として「なんでカタカナ?」と疑問符をつけた3つの英語のこんな使い方は分かりませんでした。調べたら、クラスターは「集団」や「房」から転じ感染症の小規模な患者集団を意味し、ロックダウンは「一定期間、都市封鎖したり、外出禁止や店舗を閉鎖したりする措置とありましたが、オーバーシュートは、金融市場や統計などで、基準を超えて行き過ぎた変動を指す言葉で、「爆発的な感染者急増」という語義は無いとのことでした。ソーシャルディスタンシング「社会的距離の保持」やフィジカルディスタンシング「身体的距離の保持」という言葉も知りました。

  次に、2月下旬から、社外で開催される委員会、理事会、総会などの種々の会合、また、夜の懇親会は見事にすべて中止になり、一日中予定が無いのが寂しくて、私が誘って3月下旬と4月上旬にそれぞれ3人で2回飲み、それだけが外出でした。しかし、いまは自粛して、毎晩家で飲んでいます。

   日中外に出ることが無くなり、その分デスクワークできることで、これまでの8時9時が普通だった退社時刻が6時を過ぎることはほとんどなくなりました。おかげで早く帰宅することで、積読になっていた本が読めるようになり、今は禅僧の関大徹著「食えなんだら食うな」を読んでいます。また、昨年末に大枚をはたいて大人買いした、革製のトランク「寅んく」に入った渥美清がフーテンの寅を演じる「男はつらいよ」全49作のブルーレイを観る時間も取れます。現在第39作まで観ましたが、毎回、秀逸なストーリーに引き込まれ、マドンナに心ときめかせています。このコロナ感染が収まっても、これまでの会合や懇親会を不要・不急の観点で精査し減らして、仕事中心の行動パターンを変えたいと考えています。そして、中村天風師の「絶対積極」の教えに従って、コロナに負けず、自分を向上させる日々を送りたいと思います。

  「どうせ人間生まれた以上は一遍死ぬんだ。しかし死んでいない以上は生きているんだ。生きている以上は有意義に生きなきゃだめだよ。幾つになろうとも、自己を向上せしめるっていう意欲を失ってはいけませんぜ。それには自分を見捨てないことです。」(中村天風)

日本人の忘れもの

2020.03.01

 昨年12月のコラム「中西先生 その2」で、12月中旬に高志の国文学館の職員が、館長である中西進先生の著書「日本人の忘れもの」を先生自筆の送り状と共に会社に届けてくださったこと、そして、第1章「心」から始まる3章21節のこの文庫本の「はじめに」は、「二十一世紀は心の時代だと考えることは、二十一世紀こそ、世界中に日本をどんどん知ってもらう時代だと考えることになる。もちろん、日本人自身ですらうろ覚えになっているものも、最近はほとんど忘れてしまっているものも多い。そこで二十一世紀を迎えて私たちが心がけるべきことを、おたがいに確認しておきたい。」と締めくくられていて、一気に読みたいと思ったが、「銀河鉄道の父」のように読み終える目標の時期が無いと、ついつい仕事に関する本が先になるが必ず読み終えると、決意表明しています。

 「銀河鉄道の父」を2月9日に読み終えてからすぐ「日本人の忘れもの」を読み始め、土曜日や日曜日に集中的に読み進み、3月15日の日曜日に読み終えました。

 見開き2ページの目次を開くと、第1章「心」には、「まける」、「おやこ」、「はなやぐ」、「ことば」、「つらなる」、「けはい」、「かみさま」、第2章「躰」には、「ごっこ」、「まなぶ」、「きそう」、「よみかき」、「むすび」、「いのち」、「ささげる」、そして第3章「暮らし」には、「たべる」、「こよみ」、「おそれ」、「すまい」、「きもの」、「たたみ」、「にわ」と、それぞれ7節の全21節がすべてひらがなで書かれています。この3章21節のひらがながすっと目に優しく入ってきますが、各節の下には、二回りほど小さな活字でこの節の要旨が記されています。この要旨、例えば、「おやこ」には「家族問題を招く子ども大人の氾濫」、「はなやぐ」には「恋愛は心の匂いだった」を読んだだけで、本文にはどんなことが書かれているのかと心がはやりました

 ここでは文字数の関係で、第1章「心」の第1節「まける」の最初の部分を記すことで、この本全体を想像してもらいましょう。

 第1「心」の章の最初の節「まける」の要旨として、「相手に生かされる道をさぐる」と書かれています。まずこのフレーズにグッときました。負けると生かされるがどうつながるのかと思いました。次に「日本の悪口を言うのがインテリの証?」と項立てされ、「今までの日本はおかしかった。とにかく日本の悪口を言っていればインテリなのである。反対に日本に味方するとすぐ国粋主義者のレッテルをはられ、極端になると特別な組織の人間にさえみなされてしまった。」と、本文に入ります。次の項は「まけるが勝ち」、そして「生かされて生きる」の第3項となります。以下すべての節は3つの項で構成されています。

 どの項を読んでも、こんな見方があったのかと思わされ、文字通り目からうろこの思いがしましたし、随所に、言葉や漢字の成り立ち、そしてその言葉や漢字の意味が説かれていて、中西先生の博識に感嘆しきりでした。

  第2章「躰」の第2節「きそう」の要旨は「競技とはお互いの成長を目指すものだ」とあり、第1項が「張り手は許されない」で、2000年の秋場所で旭鷲山が玉春日に対してくり出した二十数発の張り手をとりあげています。中西先生のこの項で言われることは理解できますが、一方で、最近しきりに批判される横綱白鵬の「かち上げ」や「張り手」に思いがいきます。私は「張り手」は反則技ではないし、白鵬は、八百長問題で中止になった2011年3月の春場所の次の天皇杯を辞退した5月大阪場所で7連覇し、一人横綱の責任を果たした立派な力士だと思っていたので、中西先生のこの説には驚きました。しかし第3項の「勝負化したオリンピック」で、「きそうことでお互いが成長する。だからオリンピックは意義があるといった初心にもどる必要があろう。その点、相撲を日本人はいつまでも持ちつづけて、忘れ物としてはいけない。だから、勝てばいいのだからとばかりに二十数回も張り手をくり返す力士は、本質をはき違えている。張り手にかぎらず、『すもう』でない相撲をいさめるべきであろう。」に、横綱が張り手をするのは品格にかけるという視点からの白鵬の張り手に対する批判ではなく、「すもう」でない相撲という観点からの張り手批判に、私や世間一般とは考え方や発想のレベルが違うと思いました。

  「日本人の忘れもの」は第2冊、第3冊も出版されています。社員の皆さんも「日本人の忘れもの」を読むことで、日本人としての自分を見つめ、日本人に生まれてよかったと感じてほしいと思います。

友をえらばば書を読みて

2020.02.01

タイトルは与謝野鉄幹作詞の「人を恋うるうた」の一題目の歌詞にあります。「妻を めとらば 才たけて みめ美わしく情ある 友をえらばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱 」という歌詞で、学生時代に友人と酒を酌み交わしながら歌いました。

 今回「友をえらばば書を読みて」をコラムのタイトルとしたのは、最近人から頂いたり、薦められたりした本が3冊あるからです。1冊目は直木賞作家門井慶喜さんの「銀河鉄道の父」です。2017年7月に105歳で亡くなった聖路加国際病院名誉院長日野原重明先生の著書「生きていくあなたへ〜105歳どうしても遺したかった言葉〜」を輪読する「新老人の会」富山支部の昨年8月の読書会で、日野原先生がこの著書の中で宮沢賢治に触れられた一節について私が賢治の愛読者だと話しました。このことを覚えておられた80歳の元国語の先生が、次の11月の読書会に「銀河鉄道の父」を持って来て貸してくださいました。418ページもある分厚い本でしたが、正月からほぼ毎日読み続けて読了し、 2月11日開催の読書会にお返しできました。宮沢賢治の生涯についてはそれなりに知っているつもりでしたが、賢治の父の政次郎のことをよくここまで調べたものだと思いながら読み進みました。政次郎や賢治の人となりが活き活きと描写されていて、妹トシや賢治の臨終の場面では涙しました。

 2冊目は、古志の国文学館館長で令和の名付け親である中西進先生の著書「日本人の忘れもの(1)」です。昨年11月の富山経済同友会例会は中西先生の講演で、その時に購入した先生の本に講演後の懇親会の席でサインをお願いし、富山県美術館で聞いた先生の講演について社内報のコラムに書いたと話したところ、「そのコラムを見せて下さい」と言われました。そこで後日、印刷したコラムを古志の国文学館に届けたところ、12月中旬に文学館の職員が、この「日本人の忘れもの」を先生自筆の送り状と共に届けてくださったのです。「まける」から始まる3章21篇の文庫本ですが、「はじめに」の最後に「二十一世紀は心の時代だと考えることは、二十一世紀こそ、世界中に日本をどんどん知ってもらう時代だと考えることになる。もちろん、日本人自身ですらうろ覚えになっているものも、最近はほとんど忘れてしまっているものも多い。そこで二十一世紀を迎えて私たちが心がけるべきことを、おたがいに確認しておきたい。」と書かれていています。一気に読みたいところですが、「銀河鉄道の父」のように読み終える目標の時期が無いと、ついつい仕事に関する本が先になります。でも、必ず読み終えます。

 3冊目は「文藝春秋」の最新号第98巻第3号です。2月13日の木曜日に行われた、高校時代の同期の有志が集う木曜会の食事例会で、隣に座ったI君に、最近の若い人は本当に言葉を知らない、数学者で作家の藤原正彦が、ベストセラーとなった「国家の品格」で「一に国語二に国語、三四がなくて五に数学」と言っているが全くその通りだと思うと話したところ、I君がこの文藝春秋に、藤原正彦が今話題になっているIRについて書いていてIRの本質がよく分かったと教えてくれました。そこで翌日の東京出張の際に東京駅で買い求め、ニチレキが主催する講演会が始まる前にこの雑誌の目次を目で追ったところ、巻頭随筆の最初に、「持統天皇に背いた私」のタイトルで藤原正彦の随筆が載っていました。2ページの文章なので講演が始まる前に読み終えましたが、I君が言う通りでした。「今回のIR推進とは単なる経済政策の一つではなく、『賭博は不道徳』の伝統を捨てることなのである」に、なぜ私がIRに対して直感的に嫌悪を感じるか納得できました。

 最後は「友をえらばば書を読みて」そのものの友人の話です。大学入学するとすぐ柔道部に入部しましたが、同じ経済学部から入部した5人のうち私とO君、W君の3人だけが卒業まで残りました。そのW君が非常な読書家で、私に「太宰(治)を読め」と言うので、文庫本を買い求めて「斜陽」や「人間失格」「走れメロス」などを読んでいたら、W君は「太宰は古い、坂口安吾がいいぞ」と言うのです。そこで無頼派と呼ばれた坂口安吾の「堕落論」「白痴」「桜の森の満開の下」などを読みました。W君と知り合わなかったら、太宰治は読んでも坂口安吾は今でも知らなかったと思います。このW君が再び教えてくれた人物が、今年の年頭あいさつでも取り上げた中村天風です。天風を知ったのは、かれこれ10年ほど前に彼から届いた年賀状に一言「宇野千代の『天風先生座談』がおもしろいよ」と書かれていたのです。早速この本を読んで、日本にすごい人がいたことを知り、1万円ほどする分厚い「成功の実現」をはじめとして何冊かの天風の書物を買い求めました。さらに、たまたま耳にした北陸天風会の講習会にも参加し、そこで販売されていた「真人生の探究」や全4巻の「マンガ中村天風」を買いました。

 中村天風の「絶対積極」の教えは、今や私の生き方や経営感の中心になっており、大学時代のW君との出会いがなかったら、今頃はもっとよい加減な生き方をしていたのではないかと思うと、本を読む友や知人を持つありがたみをつくづく感じます。社員の皆さんに読書家の友達はいますか?

 今年の年頭挨拶の最後のスライド「社員全員に望む姿勢 その2」は「読書習慣を身につけよう!1日1時間 毎日」でしたね。「1日4回メシを食う」という言葉を聞いたことがあります。4回のメシとは、3度の食事と1度の読書という食事です。本も食物も栄養になる点では同じで、よく噛んで食べることで人間が作られるのです。