今年4月、住所があきる野市と記された鈴木さんという、名前に覚えのない人から手紙が届きました。開封すると、東北大学で同時期に共に学んでから50年が経ったということで、9月28日(土)の昼12時から仙台で、「東北大学で共に学んで50年を祝う会」を開こうと企画しているとのこと。末尾に「東北大学経済学部50周年同期会幹事グループ」として鈴木さんの他、佐藤、高久、星野、目黒の4人の名前が書かれていましたが、覚えているのは目黒さんだけです。彼とは宝生流と観世流と流派は違っていましたが同じ能楽部に所属していて、卒業後も年賀状のやり取りを続けていたからです。
7月に正式の案内状が届きましたが、出欠の回答は8月9日までとなっていて、どうしたものかと迷いました。そこで7月19日に東京でセミナーに出席した後、東京近辺に住む大学柔道部の同期の仲間3人と飲んだ際に、同じ経済学部だった大野さんと和田さんに「50年を祝う会」に出るのかどうかと尋ねたところ、二人ともあっさり「出ない」とのこと。これで出席しようと腹が決まりました。理由は簡単、「せっかく幹事さんたちが準備してくれているのだから」です。
出席の回答をしたところ、8月20付で幹事の鈴木さんから葉書が届きました。葉書には、「林さんのことは間違いでなければ、(教養部があった)川内(キャンパス)で腰に手ぬぐいを下げて自転車に乗っておられた姿と、おおらかなお人柄だったような記憶があります」と書かれていました。また、「今のところ22名が参加予定で、(私が3年生の時に所属していた)服部先生のゼミでは高橋信敏君が出席してくださるそうです」とも書かれていました。「腰に手ぬぐいを下げて自転車」は間違いなく私です。私は、鈴木さんが私のことを覚えてくれていたことを嬉しく思うと同時に、鈴木さんのことを全く思い出せないことを申し訳なくも思いました。また、服部ゼミの記憶もほとんどなく、高橋さんのこともこれまた思い出せませんでした。
9月に入り、鈴木さんから4度目の便りがあり、現役で陣頭に立って活躍していて、今回はるばる日本アルプスを越えて参加してくれるということで、開宴に際し私に乾杯の音頭を取ってほしいとのこと。出欠の葉書に近況を書く欄があったので、私は「72歳になりましたが、建設業と介護事業の経営に携わっています」と書いたのですが、私以外の参加者は皆さん引退しているのだろうと想像され、また、日本海側からの参加は私だけなのだと分かりました。
9月28日、大宮で北陸新幹線から東北新幹線に乗り換え、ジャスト3時間で11:07に仙台駅に到着。大宮から仙台への車中では、車窓から福島県の吾妻連峰や磐梯山、そして宮城県の蔵王などの山々を眺めながら、宮沢賢治の弟である宮沢清六さん著の「兄のトランク」を読んでいました。そもそも私が東北大学を受験したのは、受験勉強中に読んだ宮沢賢治の童話や詩に惹かれ、賢治が生まれた岩手県のある東北地方に行きたいと思ったからなのです。
会場に着くと、受付で「やあ、林さん」と声をかけてくれたのが鈴木さんでした。でも、見覚えはありません。やはり声をかけてきた目黒さんは、少し太ってはいましたが、分かりました。受付でもらった参加者名簿を見ても、思い出す名前は目黒さんだけで、名乗ってくれた鈴木さん以外の19人は全く分かりません。
祝う会が始まり、司会者の進行のもと、鈴木さんの開会あいさつに続いて私の乾杯です。「初めにお断りしておきます。背中は曲がっていますが心は真っ直ぐの林です。さて、あと3日で10月1日。消費税が10%に上がりますが、消費税が3%から5%に上がった時に作られた川柳が、“消費税 上がる前にと 無駄遣い”で、5%から8%に上がった時に作られたのが“値が上がる 物価に主婦が 音を上げる”でした。私は経済学部に入学しましたが卒業は柔道部なので、経済のことはあまり分かりませんが、消費税が10%になると不景気になるという予感がしています。さて、同窓会についてこういう川柳がありました。“同窓会 出ないと死んだと 噂され”というものです。5年前にも有志による会が行われたと聞きましたが、5年後にも行われると思います。その時には、今日お集りの皆さんには、死んだと噂されないよう必ずご出席ください。」と挨拶してから、「乾杯!」と発声しました。
会食が始まり、参加者名簿の順に一人ずつ正面のステージ上で挨拶しました。顔も分からなければ名前も分からない人ばかりなので、一人ひとりの顔写真をスマホで撮りながら、名簿に書かれた近況や大学の思い出のメッセージの横に、スピーチでのポイントを書き込みました。最初に挨拶した恰幅の良い白髪の石井さんには、「64歳で仕事を終え、今は語学(ドイツ語)と釣りとゴルフ」と書いていました。2番目のスラっとした井上さんには、「学校に行かなかった」と書いていました。4番目の佐藤さんは、「軟式庭球部に所属していて、卒業時に学長賞をもらった」とのこと。杉本さんは日銀に30年間いて、香港大学に留学し中国語を学んで外交官も2年間やったとのことで、あとから、日銀時代に、富山第一銀行の現在の頭取の横田さんと一緒に働いていたと言われました。そして幹事で連絡係の鈴木さんの近況には、銀行に就職し55歳で退職し、2社で働いた後、年金生活が8年になったとあり、この間に暮らした地域は、東京が合計33年のほか大阪、広島、仙台、富山、国外各2~5年ずつと書かれていました。鈴木さんに、富山にはいつ頃いたのかと尋ねたら、平成11年から15年とのこと。高岡市民病院の近くのクラウンという喫茶店によく行ったと、懐かしそうに話してくれました。
学生時代の思い出は勉強しなかったことと語る人が多く、ボート部に所属していた竹内さんの、松島にある合宿所で寝起きしていて、学校に行くと言うと周りの部員にびっくりされたという話を聞いて、私より上がいたと変に安心しました。今は、海外旅行や国内外の登山にいそしむ人、ボランティア活動をしている人、今年からパソコン教室に通い始め初級を目指している人など、それぞれの人生の一片を知ることができました。
そして驚いたのが、山口八平治さんの「国分町の居酒屋“炉ばた”に夜の9時ころに行くと、店の祝ちゃん(祝子という名前)が鯨の刺身を出してくれた」という思い出話。私も柔道部の大野さんと時々出かけた店で、祝ちゃんが仙台弁で「おばんでござりす」と明るく迎えてくれました。彼女はやさしさに惹かれる女性でしたが、私がサラリーマンになってから聞いていたラジオ番組の永六輔の「誰かとどこかで」に、引退していた祝ちゃんに永六輔がインタビューしているのを聞いて驚いたことも思い出しました。その日の夜、仙台在住の柔道部の先輩、後輩と“炉ばた”に出かけ、当時と同じようにもんぺ姿で「おばんでござりす」と迎えてくれた年配の女性に祝ちゃんのことを話したら、何と彼女は昭和2年生まれとのこと。私より20歳も上ではないか!純情だった学生時代の私には、せいぜい2、3歳上にしか見えなかったのに、当時で40歳を過ぎていたことになります。
この原稿を書きながら名簿の名前とスマホの写真を見比べても、学生時代の顔は全く思い出せませんが、皆さんそれぞれに社会に出てから頑張って生きてきて、仕事を退いた今も充実した日々を過ごされている様子に接し、思い切って同期会に出かけてよかったと思います。私自身も柔道と酒に明け暮れた青春時代、そして社会に出てからこれまでの49年間(私は1年留年したので、共に学んで49年なのです)を振り返ることが出来ました。そしてこれからも、健康に留意しながら、しっかり会社経営をしていこうという思いを強くしました。
7月2日に、当社が保険契約しているAIG損害保険会社の富山支店長から、AIG損保が提供しているFMとやまの番組「賢者の名言」への出演と7月22日の収録を依頼されました。番組の内容は、先人たちが遺した古今東西の名言を、パーソナリティーの魚住りえさんが毎朝5時55分から一つずつ紹介し、その後に富山県内法人会の会員が会社と法人会のことを話すというもので、放送は9月に毎週1回、計4回の放送というものでした。
承諾したところ、早速翌日にAIG損保の担当者からメールで2案の原稿が届きました。第1案は、「富山法人会会員、朝日建設株式会社の林です。当社は昭和15年創業。『建設事業を通じて、世の中の役に立つ』という経営理念の元、ふるさと富山の風土と向き合いながら歩んでまいりました。富山法人会では、税に関する各種セミナー等を開催しております。」で、第2案は「富山法人会会員、朝日建設株式会社の林です。1940年創業の建設業者です。2040年の100周年を見据えながら、社員一人ひとりの成長を通して日々ステップアップを目指してまいります。(以下、前掲の原稿と同じ)」で、以下の確認事項がありました。
①平仮名130文字程度となります。
②最大や、最上級の文字は使用出来ない可能性が高いです。(エビデンス必要)
③ご提出頂きました原稿はラジオ局にて【修正】を頂く事があります。ご了承ください。
④構成は、前半は会社PR、後半に法人会のPRとなります。
⑤原稿は出演の2週間前にはご提出をお願いします。
私は、第1案は当社の経営理念の1番目を、第2案は2番目と100周年を目指すビジョンを表現しているので、両方をミックスして、中心部分の言葉を「1940年創業で今年79年目、100周年の2040年に向かって、社員一人ひとりの成長を通してステップアップし、富山の発展を目指しています。」と修正して返信したところ、7月17日に「富山法人会会員、朝日建設株式会社の林です。当社は、100周年の2040年に向かって、社員一人ひとりの成長を通してステップアップし、富山の発展を目指しています。富山法人会では、小学生を対象に租税教室を開催しております。」という、なかなか引き締まった文章に修正された最終原稿が送られてきました。
7月22日の収録は、一度原稿を読んだ後に本番録音しましたが、録音前に読んだ時より声が固いと言われ、録音しなおしそれを聞いてOKとしました。収録を終えてから、目覚まし時刻を6時から5時54分に早め、55分からの「賢者の名言」を聞いてみましたが、知り合いの社長も何人か出演していました。会社紹介の内容は、創業年や創業の地、事業内容の紹介がほとんどで、経営に対する想いを語っている社長もいましたが抽象的に思われました。それに比べると、当社の内容は、2つの経営理念と将来への思いが短い言葉の中に込められていて、我ながら良くできていると自画自賛しています。
私は、当社に入社した昭和50年に、当時人事考課制度では日本の第一人者であった楠田丘(くすだきゅう)先生のセミナーを受講し、「人事考課制度は、給料や賞与の査定に使うだけでなく、人材育成に使ってこそ意義がある」という言葉が強く心に残り、翌年にはコンサルタントを導入して人事考課制度を作り、平成18年からは田中久夫方式の賃金体系を導入し、平成27年には、濱岸コンサルタントによる人事考課セミナーを全社員参加で2日間にわたり開催しました。また、各種セミナーに社員を参加させてきて、平成27年から4年間にわたっては、タナベ経営による当社向けの各種セミナーをシリーズで実施してきました。しかし、給料や賞与の査定においては、AさんよりBさんが上というのは妥当であっても、AさんとBさんの格付けの差が妥当なのかどうか、目標管理に基づく査定を行っているが、目標そのものに個人差があって査定には活かせていない、半年ごとの評価は長すぎるのではないか、格付け検討会ごとにエクセルで作った大量の資料が準備されるが、その時限りの資料となっている、などの問題を感じており、社員教育においても、成果が上がっているとは思われないという現場の声を聞いていましたし、私自身も一過性に終わっている感が否めませんでした。
そこで、これらの課題を解決するための切り札として現在取り組んでいるのが、「あしたのチーム」式評価制度です。この人事評価制度を知ったのは、昨年11月にタイトルにひかれて参加したセミナー「人事評価制度7つの新常識」でした。「あしたのチーム」という変わった名前の会社の担当者から説明を聞くうちに、私が当社の人事考課制度や社員教育で抱えている課題が解決できそうだと思い始めました。
「あしたのチーム」式評価制度とは、ざっくりと記すなら、全社、各部門、各役職で決められた行動目標に対して、各自(被評価者)が上司(評価者)とクラウド上でやり取りしながら自分なりに具体的に落とし込み、納得の上で目標を設定し、その設定した目標に対して四半期ごとに本人と上司が達成度合いを4段階(よく出来た、出来た、出来なかった、全く出来なかった)で評価する(5段階評価の中間の「普通」は無し)というものです。この評価方式を、「あしたのチーム」は『ゼッタイ!』評価制度と呼んでいます。
私が当社の人事考課制度に抱いていた不満が、『ゼッタイ!』評価制度ですべて解消されると直感しました。なおかつ、常々関心を抱いていたクラウドを活用でき、さらには、この「あしたのチーム」式評価制度を導入した場合には、導入後の3か月間は「あしたのチーム」がクラウドを通して、各自が目標を設定する際に「おせっかい」をやいてアドバイスをしてくれます。
このセミナーの後、本部長会議に「あしたのチーム」の担当者を呼んで説明させました。3人の本部長からは、また新しいことを始めることに対する慎重論も出ましたが、私は、『ゼッタイ!』評価制度は社員が着実に成長できる仕組みであり、創業100周年の2040年に向かって今すぐこの仕組みを作らなければいけないとの信念から、導入を決定しました。
課長以上を対象に、6月~8月をトライアル期間としてスタートしましたが、システムの操作方法に慣れるのに苦労したり、何度も上司である専務や私から差し戻しされたりで、8月末にようやく目標が承認された課長もいました。7月に東京で参加したセミナー「AIで経営はどう変わるのか?社長のための“AIビジネス”」で講師から聞いた言葉「現場の人は、AIに対して“導入の壁”と“定着の壁”がある」の、先ずは「導入の壁」を実感しています。今後は「定着の壁」にもぶつかると思いますが、この『ゼッタイ!』評価制度で、全社員の成長を実現します。72歳ですが、ボーっとしている暇はありません。
なお、私の放送は毎週金曜日ですので、9月27日の最終回を聞けたら聞いてください。
8月18日の日曜日。この日は、4つの行事への参加を予定していました。
午前7時からの、朝日建設として毎年参加している富山駅周辺での富山市ふるさと美化大作戦、9時からの、東富山運動広場での富山市勤労者ソフトボール大会の応援、午後3時半からは、北代の「あさひホーム」で夏休み特別企画「真夏のJAZZ」を聴き、さらに7時から総曲輪のジャズクラブ「FIVE SPOT」で「夏のキューバンプロジェクト IN TOYAMA VOL.4」を聴くという、午前中は屋外を移動し、午後から夜にかけてはライブ会場を移動するという、結構あわただしい予定でした。
実は今月のこのコラム、長いと思っていたお盆休みの6日間も時間はしっかりと過ぎ、16日に「やはり会社はいいな!」と出勤したものの、コラムの提出期限が20日の午前中に迫っているという認識が薄れていました。
コラムの題材を何にしようかと焦りだしたのは翌土曜日。「よし、過密スケジュールの明日のことを書こう!」と何とも安直に考え、タイトルも、見た人が「何の話かな?」と興味を持ってくれたらとの思惑で「8月18日」と付けました。
ここまでが言い訳で、我ながらいい加減だと思います。この後も面白くないだろうと思った方は、ここで読むのを止めても一向に構いません。
5時に起きて2匹の犬を1匹ずつ散歩させてから、富山市ふるさと美化大作戦に、例年通り「落書き消し隊」として営業部のN.Fさん、総務部のH.Mさんと私が富山市の男性職員2名と一緒に参加しました。当社が販売している、天然のオレンジから抽出した成分で作った落書き消し剤「オレンジ110」を使っての作業は、事前に富山市の職員が撮影した落書きされた個所の写真と地図に基づいて行いますが、先ず、初めての富山市の職員さんにN.Fさんが消し方を実演して見せた後、当社チームと富山市チームに分かれてそれぞれ十数か所の落書きを消しました。私は4か所の落書き消しをしましたが、照明柱や変圧器にスプレーで汚く殴り書きされた落書きに、「犯人はどんな人間だろうか?何を思ってこんなことをするのだろうか?酔ってのことだろうか?多分、男だろうな?」などと考えてしまいました。朝日建設の社員は、公共事業を通して社会のインフラ整備を行うことで世の中の役に立ちたいと思って仕事をしていますが、落書きする人には世の中の役に立ちたいという気持ちは微塵もないのだろう、また、「恥を知る」という言葉も知らないのだろうと思いました。
2番目の予定はソフトボールの応援。コンビニでサンドイッチを買って車中で食べ、何とか9時にソフトボール会場に間に合ったと思ったら、当社の選手は試合をしておらず、建物の陰で休んでいるではないか。選手として出ているS.Hさんから、私の携帯にショートメールが入っていたのに気づかなかったのですが、第1試合の相手が棄権したので、第2試合からだとのこと。そのうちにT.Mさん、M.Fさん、そしてM.Mさんがやって来ました。T.MさんもM.Fさんも選手として参加したことはあったが、応援に来たのは初めてとのことで、メールでの私の応援要請が初めて功を奏したと嬉しく思いました。10時過ぎからの試合は、昨年準優勝のチームと当たり、先攻の当社はピッチャーのN.Fさんが強力打線を相手に3回裏まで0対2と好投していましたが、4回裏につかまり、ホームランや連打を浴び、エラーも出て、あれよあれよという間に8点取られ0対10でコールド負けしました。しかし、練習もほとんどせずの参加でしたので、結果はやむを得ないものでしたが、今年も、S.Hさんの4歳になる娘さんや、T.Iさんの小3の息子さんの元気な姿が見られて良かったです。
12時に帰宅し、シャワーを浴びてすっきりしてひと眠りしてから北代のあさひホームでの「真夏のJAZZ」へ。デイサービスフロアの会場は満席のお客様で、私が案内した取引先の社長さんもご夫婦で来ておられました。JAZZライブの出演者は、富山県出身でヴォーカルとクラリネットの果奈さん、茨城県出身で、東京理科大学卒業というピアノの楠直孝さん、そして、平成15年の朝日ケアの開業時から介護スタッフとして働きながら、全国で演奏活動をしているパーカッションのヤマダベンさんです。
第一部は、ジャズのスタンダードナンバー「A列車で行こう」から始まり、2曲目はボサノバ風にアレンジした「ハナミズキ」、そして3曲目が灰田勝彦の「鈴懸の径(すずかけのみち)」でした。この歌は私が昭和45年にサラリーマンになった時、私をかわいがってくれた営業部の先輩がスナックのカラオケで歌うのを聞いて大好きになった曲です。「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎の街」で始まる「鈴懸の径」は、灰田勝彦が第二次世界大戦中に歌い、戦後はジャズ・クラリネット奏者の 鈴木章治が一世を風靡した曲ですが、果奈さんがその「鈴懸の径」を歌いかつクラリネットを奏でるという、誠に贅沢な演奏でした。そのあとは「テネシーワルツ」と果奈さんのオリジナルの2曲が続きましたが、女性たちは頭でリズムをとり、男性は足でリズムをとりながら熱心に聴いていました。
第二部は富山にちなんだ曲ということで、最初は美空ひばりが歌った「真赤な太陽」。なんで富山?と思ったら、作曲が富山市出身で『原信夫とシャープス・アンド・フラッツ』のリーダーの原信夫とのことでした。次が井上陽水の「少年時代」で、これは藤子不二雄Ⓐ原作の映画「少年時代」の主題歌を井上陽水が作曲したということでした。そしてオリジナル曲を3曲奏で、最後は皆で「故郷」を合唱しました。途中、ピアノとパーカッションそれぞれの独奏がありましたが、楠さん、ベンさんのエネルギッシュな演奏に魅了されました。
そして午後8時からは「夏のキューバンプロジェクト IN TOYAMA VOL.4」。会場の「FIVE SPOT」では夜にジャズの生演奏をやっていて、去年は渡辺貞夫(ナベサダ)のサックスを聴きましたが、美味しい昼食も食べられるので、時々出かけています。7月末に昼食に出かけたときに、カウンターにあったチラシを見つけ、お盆休みの後にキューバの音楽を聴いて、元気をつけようか!と思って1枚購入しました。チラシには「世界中旅を続けてきた3人がお届けする、一夜限りのワールドミュージックナイト。キューバ、プエルトリコ、スペイン、ブラジル、NYのサルサからポップスまで彩り豊かでダンサブルなサウンドをお届けします」とありました。
会場の最前列の木の椅子に座っての2時間、お尻が痛くなって時々左右に腰を動かしていましたが、バイオリンとヴォーカルのSAYAKA(日本人女性)、ヴォーカルとギターのCarlos Cespendes(キューバの男性)、そしてヴォーカル・パーカッション・ダンスのGENKI(日本人男性)の3人による情熱的な、あるいはしんみりしたラテン音楽を、ウイスキーの水割りを片手に楽しみました。Carlos Cespendesさんの歌声、SAYAKAさんのバイオリンの音色は、今でも耳に残っています。途中休憩の時間に、見知らぬ男性から声をかけられましたが、富山市内のホテルのフロントにいて、私のことを知っていて声かけた、また、GENKIさんにサルサダンスを習っているとのことでした。リズム感の全くない私には、うらやましい話でした。
ライブが終わり、長男に教えてもらって時々行っているワインバー「アルプ」に歩いて出かけ、砂肝を肴に赤ワイン2杯と白ワインを1杯飲みましたが、マスターと長男の話をしていたら、カウンターの隣の席の女性とテーブル席のお連れの女性から長男のことを知っていると話しかけられ、話が弾みました。ここでも、世の中は狭いと思わされました。
以上、長々ととりとめのない日記風のコラムになりましたが、皆さんは、どんな8月18日でしたか?