富山大学での3年目の講義を終えて

2018.07.01

一昨年から富山大学経済学部の経済学特殊講義で、富山新聞文化センターの寄付講座「現場の経営学:地域企業の経営者から学ぶ」の講師を務めていますが、今年も6月20日(水)に、今回の特殊講義の10人目の講師として講義を行いました。

この寄付講座の提案者である富山新聞文化センター マネジメント・アカデミー代表の中村哲夫さんからは、過去2回の私の講義が90分間の授業のうち80分間ほどを講義に費やし学生との質疑応答の時間が短かったので、今回の講義は70分間で終わるようにと言われていました。そこで、今回はこれまでの2回の講義の経験を踏まえて、講義のテーマ「私の経営観」をより明確に学生に伝えられるようにスライドの選択や順序、スライド以外の補足説明などを考えました。
 今年は人文学部からも学生が聴講していて、送られてきた学生の感想文の送付状には人文学部教授名で、「ご講義では、御社が社会のインフラ整備に深く関わる分野で事業展開され、社会に役立つ仕事に関わることを通して社員の人としての成長を望んでいらっしゃるとの話をお聞かせ頂きました。(中略)何よりも、歴史上の人物の言葉から、英語や日本語の語源、個人的体験、だれもが知っているアンパンマンの歌まで、多様な例を巧みに結びつけながら語られた姿には、御社の活動が、林様の深く幅広い教養と思索に基づいた確かな経営理念によってなされていることが感じられました。」と記されていました。
 いささかほめすぎでこそばゆく感じましたが、学生たちの感想文を読むと、私の講義をしっかり聴き、私の話からそれぞれに学んでくれた様子がうかがえ嬉しく思いました。私の講義が目指した、「学生たちに日本の将来を担う人間になってもらいたい」、そのために「生きる目的、働く意味について考えさせる」という目的の達成度合いを、それぞれの感想文から感じられたからです。
 人文学部3学年の男子学生は、「今日の講義で印象に残っている言葉は『I wish to leave this world better than I was born.(この世の中を、私が死ぬときは、私が生まれたときより少しなりともよくして逝こうではないか)』です。この言葉を聞いて、自分が生まれたことで、人のため世のために何ができるのか、自分が生まれなかった世界よりもどれだけ人の役に立てるのかを考えると、これまで恥ずかしくて人のために働いたり動いたりするのをためらっていましたが、これからは自信を持って、自分が生まれてきた意味を考え続けながら、行動しようと思います。自分なんか生まれてこなければよかったと悪い面に目を向けるのではなく、自分が生まれたことで人のためにどうプラスになるのかという良い面に目を向けたいです。」と結んでいました。
 昨年も英国の天文学者ハーシェルのこの言葉を紹介しましたが、この言葉についての感想はありませんでした。今回は彼一人ではありますが、この言葉についての感想を述べながら自分が今後生きていく姿勢を考えてくれたことに感動しました。それは、私が初めてこの言葉を知った昨年は、言葉の紹介だけでしたが、今年は、この言葉は当社の経営理念の「ふるさと富山を発展させる」に繫がっていて、この言葉を私自身の生きる指針としているということが、この学生にも伝わったと思ったからです。
 また、私が作った方程式「有意義に生きる=働く」について、36人のうち8人が直接触れていましたが、このことも嬉しかったです。この方程式も私の生きる指針であり、私にとって「どのように働き、有意義に生きるか」は、「この富山を、私が死ぬときは、私が生まれたときより少しなりともよくする=ふるさと富山を発展させる」ことなのです。
 そのほか何人かの感想文に、これまでの経営者の講義が、会社の経営課題や業界の課題に関するものであったのと違い、私のそれは人生についての話が多く哲学的だったという感想や、最後のスライド「袖振り合うも他生の縁」(写真2)に関して、「林社長には来世でも何かの縁でお会いできればと思いました」や、「人として生きる上で大切なことをたくさん教えて頂けて、とても光栄でした。『前世で何かの縁があったからこそ、こうして出会えた』とおっしゃられていたのがとても素敵に感じた」などの思いがけない感想もあり、私自身の今後のプレゼンテーションの参考になりました。

中村天風の言葉「準備が完全でなくて、仕上げが完全に出来ようはずがない」を実感した今回の講義でもありました。

立山室堂でのライチョウ見学ツアー

2018.06.01
写真1:ライチョウ基金のシンボルマーク

「ニホンライチョウ」の人工飼育に取り組んでいる富山市ファミリーパーク(FP)が、昨年12月1日に、「神の鳥」とも呼ばれながら絶滅の危機にひんしている国の特別天然記念物「ニホンライチョウ」の現状を全国に知ってもらい、支援の輪が広がるようにしようと、飼育繁殖技術の確立に役立てる「ライチョウ基金」(写真1)を設立し、インターネットで出資を募るクラウドファンディング(CF)を始めました。3カ月で1千万円の募集を目標として、パークには募金箱も設置し、飼育に取り組む全施設を対象に必要な備品の購入に充てるほか、大学と進めている調査研究や人材育成、保全活動の普及啓発に活用するというものでした。
 昨年12月18日に、FPを舞台に活動している「富山市民いきものメイト」を通じて旧知の仲であるFPの石原園長が来社され、今のところ募金がまだ175万円で、2月末で1千万円の目標額に達しなければ今回の寄付プロジェクトは不成立となり、集まったお金は返金されることになる、そこで当社からも寄付願えないだろうかと話されました。
 県鳥のライチョウが絶滅しないように協力するのは、富山県の企業として、また富山県民の1人として当然であると思い、会社から30万円、個人として2万円の寄付をその場で即決しました。
 このCFは1月15日までに約520万円まで集まり、2月10日には目標の1千万円に達し寄付プロジェクトが成立し、私もホッとしました。石原園長からは、最終的にはCFで2,627万1,264円、FPでの現金受付が55万8,680円で募金総額2,682万9,944円だったとお聞きしました。
 さて、5月26日(土)と27日(日)にクラウドファンディングのギフトとして、立山室堂でのライチョウ見学ツアーを行うという案内が来ましたので、私と次女とで27日に参加しました。当日は電鉄富山駅発7:08分の列車に乗り、立山駅からケーブルカーで美女平、そして高原バスで車窓から称名滝や高山植物を眺めながら10時頃に室堂に着きました。参加者は、埼玉県から中年のご夫婦と30歳後半くらいの男性、名古屋から40歳前後の女性、そして富山からは、小学生と保育園児の子ども連れのご夫婦と私たち親子の総勢10名(写真2、3)でした。

写真2:担当者の説明を聴く参加者
写真3:ライチョウ探しに出発する参加者

FPからは石原園長、動物課の課長、そして企画事業課の担当者の3名が案内をしてくださり、好天の下、室堂平からみくりが池に向かいました。最初にライチョウを見たのは、遊歩道に人だかりがしている先のハイ松の中でした。しかし、赤緑色盲の私には見つけられませんでした。次に見たライチョウはいささか遠くの岩の上に立っていて、双眼鏡で確認しました。石原園長によると、あれは雄で縄張りを見張っていて、ほとんど動かずにじっとしているとのこと。3羽目、4羽目、5羽目は、みくりが池温泉近くの雪渓を歩いているライチョウでした。この先の遊歩道では、石原園長から、岩の上に残っていたライチョウの糞(写真4)を取ってきての説明や、ハイ松の枝の先の方には芽が出ていなくて途中から芽が出ているのは、冬に、積もった雪から出ているハイ松の枝の葉をライチョウが食べたからだという興味深い説明を受けました。

写真4:ライチョウの糞

そして6羽目が我々の数メートル先のハイ松の中を歩いていて(写真5)、そのうちにハイ松から出てきて岩の上に止まって周りを警戒する雄のライチョウ(写真6)でした。この時、大きな望遠レンズの付いたカメラを持っていた名古屋の女性が、私の隣で「飛んでくれないかな」と言うのを聞いたので、私は「念力で飛ばせて見せましょう」と言って、目をつぶり「飛べ!」と心の中で唱えたところ、何と目を開けたとたんにこのライチョウが飛び立ったのでした。この女性は、飛び立つのが早すぎて上手く写せなかったと言いました。最後の7羽目は、この岩の先の、くぼんだ雪渓のかなり遠くにスマホを持った人が集まっている所にいたライチョウで、先ほど飛び立ったライチョウが警戒していた別の雄でした。この女性は私に、「もう一度念力で飛び立たせてもらえませんか」と言うので、「遠いから念力が届くかな?」と笑いながら言いつつ念力を送りました。しかし目を開けても飛び立ちはせず、「やはり遠かったかな?」と言った2、3秒後に飛び立ったのでした。この女性、望遠レンズで捕らえた飛び立つ瞬間のライチョウの姿をカメラのモニターで見せてくれましたが、見事に撮れていました。この光景を見て石原園長は、日本のライチョウは、人間に慣れていて、カメラを持って近づいても逃げないが、北欧のライチョウは逃げる。それは、ライチョウを食用にしていたから。そして、日本人でも最近はスマホで撮影(写真7)するので、カメラとは写す姿勢が違いライチョウも戸惑っているという愉快な話も聞きました。 

 写真5:ハイ松の中を歩くライチョウ 
写真6:周囲を警戒するライチョウ
写真7:スマホで撮影する観光客

みくりが池山荘で昼食をとってから、そこで解散しましたが、名古屋の女性は朝3時に車で名古屋を出てこのツアーに参加し、室堂にもう2泊するとのこと。また埼玉の男性は、自然が好きで、年中、山に登ったり海にもぐったりしているとのことで、やはりダイビングもする名古屋の女性と話が弾んでいました。
 食事中に、石原園長がiPadに保存されているいろんなライチョウの写真を見せてくれましたが、雪をかぶったハイ松の中にいるライチョウは、指でなぞられるまで全くどこに写っているのか分かりませんでした。また、自然界では7個くらいの卵を順に産み、7個になったところで温め始めるが、これは孵化する日を一緒にするためだと聞き、感心しました。
 室堂までの帰りはかなりへばっていて、途中のベンチで休み、娘からチョコレートをもらって何とか再度歩き出すという有様でしたが、室堂ターミナル駅の売店で、ここにしか売っていないという、成政酒造が作っている日本酒「佐々成政の隠し酒」など4種類全部を買い込み、元気を回復しました。もちろん重いので、宅急便です。
 7羽ものライチョウが見られ、ライチョウについて学び、自然を愛する県外の人たちと交流し、お土産もゲットできた充実した日曜日となりました。来年も実施されるなら、参加したいと思っています。社員の皆さんにも案内しましょう。

富山市建設業協会長を退任

2018.05.02

2005年(平成17年)4月の市町村合併に伴い、それまで、富山市と大山町、大沢野町、婦中町、細入村、八尾町に個別にあった建設業協会が、翌2006年4月に新たな富山市建設業協会を設立し、旧富山市建設業協会は新しい富山市建設業協会の富山支部となりました。私はその2代目支部長を2008年から2012年まで2期4年間務めました。そして2012年5月に各支部が解散して富山市建設業協会(以降、協会と記します)に一本化され、その初代会長に私が就任し3期6年間会長を務めてきましたが、このたび5月21日開催の通常総会において会長を退きました。支部長時代と会長時代を通算すると、協会のトップを10年間務めてきたことになりますが、文字通りあっという間でした。 

 この10年間を振り返ると、支部長時代では、1960年(昭和35年)に設立された旧協会の創立50周年記念式典を2010年に行ったことが唯一記憶に残っているくらいですが、会長時代の6年間には思い出が一杯あります。それは、協会員の意識を統一し新しい協会として富山市当局との折衝や事業を行っていこうという思いが根底にあったからだと思います。  

会長に就任してから創刊した協会の会報「ひまわり」に掲載された「会長コラム」で、6年間を振り返ってみます。  

 創刊号では「今や瀕死の状態にある日本の建設産業において、様々な関連団体の存在意義は何なのでしょうか?富山市建設業協会の存在意義は何だとお考えになりますか?富山市建設業協会のあり方を、会員の皆さんとご一緒に考えていきたいと思っています。」と最後に記し、この考えに基づき毎号の会長コラムで私の思いを述べ、また活動について記してきました。  

 3号(2013.3)では、地域住民のことをシッカリ考えて仕事をしようという考えから、当社が取り組んでいる「三方良しの公共事業改革」について説明し、「富山県でも、富山市でも「三方良し」の理念で公共事業を改革し、より良い郷土をつくりましょう。」と訴えました。  

 5号(2013.10)では、協会の平成25年度予算に初めて社会貢献活動費を計上して、災害時に簡易トイレを囲うための簡易テント50張を富山市に寄贈したこと、そして、建設業の姿を市民やマスコミに積極的に発信しなければいけないと書きました。  

 7号(2014.3)では「防災と経済」のタイトルで、朝日新聞の社説「国土強靭化:防災と経済を分けよ」に、評論家の中野剛志さんが「防災と経済を分けてはならない」と真っ向から明快に反論していることを紹介し、「公共事業が日本の景気回復、デフレ脱却に重要な役割を果たしていることを自覚し、「三方良しの公共事業改革」の実現を目指して、自社の経営、そして富山市建設業協会の運営に携わりたいと考えます」と結んでいます。  

 8号(2014.7)「東北と広島を旅して」では、最後に「廃墟の街の復旧・復興を担うのは地元の建設業者であり、その重い使命を自覚して経営に当たらなければいけないと自分に言い聞かせた」と記して、地元建設業の使命を協会員に考えてもらおうとしました。  

 9号(2014.10)では、富山市に対しての簡易テント50張の寄贈に加え、建設産業の担い手確保・育成は、一朝一夕にできるものではなく、その王道は、土木技術は人間が人間らしく生活していくために無くてはならない大事な技術なのだということを、子どもたちに学校や家庭でしっかり伝えることだと信じ、絵本「ふたつの国の物語―土木のおはなしー」を富山市内の全中学校、特別支援学校と図書館に合計238冊贈ることを伝えました。   

 16号(2016.10)では、合併設立10周年事業として8月7日(日)にグランドプラザで開催した「建設フェスティバル」の目的は、建設業界の喫緊の課題である担い手の確保のために、男の子にも女の子にも建設に関心を持ってもらい、将来建設業に飛び込んできてほしいということであり、サブタイトルも「~けんせつって、おもしろい!~」としたことを紹介しました。  

 17号(2017.6)では、沖縄で開催された「三方良しの公共事業推進カンファレンス」での高知の礒部組宮内技術部長の講演『信頼をつくる「三方よし」のモノづくり』で、私の心に響いた「公共建設工事の利益は、直接的な金品の交換から生まれるものではない。社会資本を造るという行為を迂回して達成される、技術の贈与に対する報酬である」、「三方よしとは、現場から生まれた信頼を現場でストックし、さらにそれを自らの武器とする戦略だった」、そして「インフラをつくるという自利の行為が自らの利他となる。そのことを自覚的か否かが重要」という言葉を紹介しました。  

 「ひまわり」に掲載できていませんが、簡易テントは平成27、28年度も寄贈し延べ170張となり、昨年度は災害時用の毛布230枚を寄贈しました。また、昨年7月には第2回「建設フェスティバル」を、一昨年より進化させて実施しました。  

 こうして振り返ると、私なりに地方建設業の役割を考え、それに基づき私の思いを発信し、また新しい事業を実施してきたことで、創刊号で述べた富山市建設業協会の存在意義を少しは明確に出来たのではないかと自負しています。
 

富山県アスファルト合材協会の会長や、建設関連団体、経済関係団体の役員はまだいくつも残っていますが、重責である富山市建設業協会の会長を退任した今、協会運営を通して学んだものをこれからの社業に活かしていきたいと思っています。