2005年(平成17年)4月の市町村合併に伴い、それまで、富山市と大山町、大沢野町、婦中町、細入村、八尾町に個別にあった建設業協会が、翌2006年4月に新たな富山市建設業協会を設立し、旧富山市建設業協会は新しい富山市建設業協会の富山支部となりました。私はその2代目支部長を2008年から2012年まで2期4年間務めました。そして2012年5月に各支部が解散して富山市建設業協会(以降、協会と記します)に一本化され、その初代会長に私が就任し3期6年間会長を務めてきましたが、このたび5月21日開催の通常総会において会長を退きました。支部長時代と会長時代を通算すると、協会のトップを10年間務めてきたことになりますが、文字通りあっという間でした。
この10年間を振り返ると、支部長時代では、1960年(昭和35年)に設立された旧協会の創立50周年記念式典を2010年に行ったことが唯一記憶に残っているくらいですが、会長時代の6年間には思い出が一杯あります。それは、協会員の意識を統一し新しい協会として富山市当局との折衝や事業を行っていこうという思いが根底にあったからだと思います。
会長に就任してから創刊した協会の会報「ひまわり」に掲載された「会長コラム」で、6年間を振り返ってみます。
創刊号では「今や瀕死の状態にある日本の建設産業において、様々な関連団体の存在意義は何なのでしょうか?富山市建設業協会の存在意義は何だとお考えになりますか?富山市建設業協会のあり方を、会員の皆さんとご一緒に考えていきたいと思っています。」と最後に記し、この考えに基づき毎号の会長コラムで私の思いを述べ、また活動について記してきました。
3号(2013.3)では、地域住民のことをシッカリ考えて仕事をしようという考えから、当社が取り組んでいる「三方良しの公共事業改革」について説明し、「富山県でも、富山市でも「三方良し」の理念で公共事業を改革し、より良い郷土をつくりましょう。」と訴えました。
5号(2013.10)では、協会の平成25年度予算に初めて社会貢献活動費を計上して、災害時に簡易トイレを囲うための簡易テント50張を富山市に寄贈したこと、そして、建設業の姿を市民やマスコミに積極的に発信しなければいけないと書きました。
7号(2014.3)では「防災と経済」のタイトルで、朝日新聞の社説「国土強靭化:防災と経済を分けよ」に、評論家の中野剛志さんが「防災と経済を分けてはならない」と真っ向から明快に反論していることを紹介し、「公共事業が日本の景気回復、デフレ脱却に重要な役割を果たしていることを自覚し、「三方良しの公共事業改革」の実現を目指して、自社の経営、そして富山市建設業協会の運営に携わりたいと考えます」と結んでいます。
8号(2014.7)「東北と広島を旅して」では、最後に「廃墟の街の復旧・復興を担うのは地元の建設業者であり、その重い使命を自覚して経営に当たらなければいけないと自分に言い聞かせた」と記して、地元建設業の使命を協会員に考えてもらおうとしました。
9号(2014.10)では、富山市に対しての簡易テント50張の寄贈に加え、建設産業の担い手確保・育成は、一朝一夕にできるものではなく、その王道は、土木技術は人間が人間らしく生活していくために無くてはならない大事な技術なのだということを、子どもたちに学校や家庭でしっかり伝えることだと信じ、絵本「ふたつの国の物語―土木のおはなしー」を富山市内の全中学校、特別支援学校と図書館に合計238冊贈ることを伝えました。
16号(2016.10)では、合併設立10周年事業として8月7日(日)にグランドプラザで開催した「建設フェスティバル」の目的は、建設業界の喫緊の課題である担い手の確保のために、男の子にも女の子にも建設に関心を持ってもらい、将来建設業に飛び込んできてほしいということであり、サブタイトルも「~けんせつって、おもしろい!~」としたことを紹介しました。
17号(2017.6)では、沖縄で開催された「三方良しの公共事業推進カンファレンス」での高知の礒部組宮内技術部長の講演『信頼をつくる「三方よし」のモノづくり』で、私の心に響いた「公共建設工事の利益は、直接的な金品の交換から生まれるものではない。社会資本を造るという行為を迂回して達成される、技術の贈与に対する報酬である」、「三方よしとは、現場から生まれた信頼を現場でストックし、さらにそれを自らの武器とする戦略だった」、そして「インフラをつくるという自利の行為が自らの利他となる。そのことを自覚的か否かが重要」という言葉を紹介しました。
「ひまわり」に掲載できていませんが、簡易テントは平成27、28年度も寄贈し延べ170張となり、昨年度は災害時用の毛布230枚を寄贈しました。また、昨年7月には第2回「建設フェスティバル」を、一昨年より進化させて実施しました。
こうして振り返ると、私なりに地方建設業の役割を考え、それに基づき私の思いを発信し、また新しい事業を実施してきたことで、創刊号で述べた富山市建設業協会の存在意義を少しは明確に出来たのではないかと自負しています。
富山県アスファルト合材協会の会長や、建設関連団体、経済関係団体の役員はまだいくつも残っていますが、重責である富山市建設業協会の会長を退任した今、協会運営を通して学んだものをこれからの社業に活かしていきたいと思っています。
4月14日(土)9時40分、富山空港(正式名称は「富山きときと空港」ですが、何とも安直な名付け方で私は嫌いです)発の飛行機で羽田空港へ。12時5分発の飛行機に乗り継ぎ、15分遅れで14時10分に鹿児島空港に到着し、空港からノンストップバスで15時過ぎに鹿児島市内に入りました。鹿児島には1979年(昭和54年)に日本青年会議所の全国大会で行ったことがありますが、桜島を観ながらの錦江湾観光クルーズ船上で、日本青年会議所会頭が当時発売されたばかりのソニーのウォークマンでイヤホンから音楽を聴いていたことと、城山観光ホテルという立派なホテルで大懇親会が行われたことくらいしか記憶に残っていません。
今回の2度目の鹿児島行きは、「新老人の会」富山支部の世話人代表(支部長のような職務)としての第11回「新老人の会」ジャンボリー鹿児島大会参加が目的でしたが、40年近く前のような記憶にほとんど残らない旅行にはしたくないと思っていました。しかし、ジャンボリーは4月15日(日)の午後1時から始まり、懇親会終了が午後8時で、翌日の月曜日には仕事の関係で、飛行機と北陸新幹線を使って午後2時過ぎに富山に戻るという日程から、自由行動できる時間は、大会前日に鹿児島に着いてから寝るまでの間と、大会当日の午前中だけでした。こんなタイトな日程でしたが、何か記憶に残ったことがあるかと問われたら、「あった」と答えます。
まずは、この4月に鹿児島支社に転勤になった、D生命富山支社時代に取引と交流があったYさんとの再会です。鹿児島に一緒に行った「新老人の会」富山支部の会員のOさん(女性)も交えての夕食会をYさんが段取りしてくれていましたが、かなり激しい雨の中を午後6時にホテルに迎えに来てくれたYさんの腕には3本の雨傘。私たち2人のために、自分が持っていた雨傘を準備してくれていたのでした。鹿児島は雨という予報を聞いていたのですが、傘を忘れてきた私は大助かりでした。
昨年末に、会社でD生命と生命保険を1本契約しましたが、その前にR社を通して生命保険を1本契約したばかりだったので、最初は聞くだけ聞いて断るつもりでした。しかし、R社と契約した生保との違いを説明したYさんの説得力に、それまでの付き合いで感じていた「面白い人」の印象は「出来る男」に変わりました。そして雨傘で「気配り出来る人」が加わったのでした。
鹿児島の芋焼酎「島美人」を飲み、鹿児島の黒豚のしゃぶしゃぶや黒牛のステーキをほお張りながら聞いた、Yさんが社会に出てからの4社での勤務体験は興味深いものでしたが、中でも、D生命の前のA損保時代に、堪能な英語力を買われて米軍の座間基地で米兵の保険手続きの仕事をしていたときに知った米軍の組織に関する話題、特に海兵隊隊員の戦闘地域や出身地、給料については知らないことばかりでした。Yさんはまだ44歳ですが、色んな人生経験を積んできたことを改めて知り、知り合ってよかったと思いました。
翌日の午前中はOさんとタクシーで、万治元年(1658年)に築かれた島津家別邸である敷地面積5万平方メートルの仙巌園(せんがんえん)に出かけました。このタクシーの運転手さん、運転中ずっとNHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」で観光客があふれている鹿児島市内を案内しながら、幕末の名君島津斉彬(なりあきら)を輩出した島津家の家系について、養女篤姫の話も交えながら詳しく話してくれたのです。そして「島津家が好きで、今、この本で勉強している」と、助手席の横にはさんである「島津一族~無敵を誇った南九州の雄」という本を示してくれましたが、大変分かりやすく書かれていました。この運転手さんの話のおかげで、錦江湾や桜島を庭園の景観にとりいれた雄大な仙巌園をより興味深く散策できたように思います。
仙巌園からジャンボリーの会場に行くのに乗った運転手さんも良い感じだったので、ついつい富山のタクシー運転手さんと比べてしまいました。富山市内には観る場所が少なく、かつ点在していて、タクシーで回るには愛想もない町ではあります。しかし、説明する場所が少ないと思って他の話題をもちかけても、待遇や給料に対する不満は聞かされることはあっても、楽しく会話を続けてくれる運転手さんに巡り合った記憶がほとんどありません。運転手さんに限らず、鹿児島で言葉を交わした人はみなさん、明るかったです。鹿児島空港の土産物屋の女性店員さんの笑顔と親切も忘れられません。明るい日差しの中で育ち生活している鹿児島県の人々と、どんよりとした天候の下でじっと風雪に耐えながら生活している我々富山県人との違いが、こんなところに出ているのかと思いました。
物よりも人が記憶に残った、今回の鹿児島「ふれあいの旅」でした。
2月13日に富山市民病院に入院し、両眼の白内障の手術をうけました。
私の目には、色々な欠陥があります。まず、近眼。中学生の頃、祖父に総曲輪通りのウスヰ時計店で眼鏡を買ってもらって以来、2、3年ごとに、度数のより強いレンズに変えてきました。
次が赤緑色盲。大学受験の高校3年生の夏休みに、美術クラブのキャプテンとして、富山市の美術展に出展する油絵を描いていました。オレンジ色の食べ頃のカボチャを描いたつもりが、母に「いい色合いの緑ね」と言われ、それで絵を描くことを止めたのでした。
そして緑内障。大学で柔道部に入りましたが、20人くらいで合宿した1年生のときに、柔道部のOBで医学部の眼科医局に勤務していた先輩に夜中に起こされて、麻酔の目薬をさされ眼に重りを載せて眼圧を測られました。そして私だけに「このまま放っておくと緑内障で失明するぞ」と言われたのです。そこで大学病院で視野検査を受け目薬をもらい、卒業後のサラリーマン時代も、先輩に紹介状を書いてもらった大阪大学附属病院で定期的に検査を受け目薬をもらっていました。富山に戻って直ぐに診てもらった町医者に目薬は必要ないと言われたので、ずっとささずにいました。しかし20年ほど前に、県立中央病院での勤務を経て眼科医院を開業していた高校の同級生に、目が痒くて診てもらったところもう少し検査したいと言われ、その結果、緑内障が進行しないように再び目薬をさすことになり、今日に至っています。
4番目が乱視で、これもかなりひどく、最近の私は、乱視の入った遠近両用と、パソコンと新聞が読み易くなる乱視の入った近々両用の眼鏡を、会社と自宅に2個ずつ持っていました。
こんな私の目ですが、数年前から新聞や書類が読み辛くなり、データ印の日付を合わせるのに虫眼鏡を使っても数字がハッキリ見えなくなってきました。そこで一昨年、前述の同級生の医師に白内障ではないかと尋ねたところ、まだ手術はしなくてもよいだろうとのこと。しかし、緑内障の検診で視力を測る度に見え難くなってきたので、富山市民病院に紹介状を書いてもらい、昨年の11月8日に受診しました。その結果3ヵ月後の今年の2月13日の朝入院して午後に右眼を手術し、1日置いて15日の午後に左眼を手術して翌日16日の午前中に退院することに決まりました。1月29日に、妻も一緒に手術の説明を受けました。濁った水晶体の代わりに白内障手術で眼の中に挿入する人工のレンズの焦点距離をどうするかということで、 眼鏡無しで新聞や本を読みたいと思い30cmに決めました。
雪が激しく降る2月13日、長男に1時間以上かけて車で病院まで送ってもらい、午前中は検査をし、午後4時半過ぎに、当日の5人の手術の最後の患者として手術室に入りました。世の中には手術を怖がる人もいますが、私はむしろ興味津々で手術室に向かいました。6年前に、脊柱管狭窄症の手術を全身麻酔で受けたときもそうでした。今まで経験したことが無い新しい経験ができることに、ワクワクするのです。今回もそうでした。ベッドに寝かされて手術されるとばかり思っていたのに、歯医者さんにあるような椅子に座らせられたのが最初の驚きでした。そして麻酔液が点眼されいよいよ手術。ブルー色が目の前に浮かび、それがピンク色に変化していくのを観察し、メスで切っているのだなと感じたりしているうちに、40分ほどで手術が終わりました。左眼のときは今度は何色が見えるだろうかと楽しみになりました。
病室に戻り、夕食前に目薬をさすため手術した右眼の眼帯をはずしたときは戸惑いました。右眼を閉じて手術していない左眼で見るシーツや看護婦さんのマスクの白色、そして窓外の民家の屋根に積もった雪の色より、左眼を閉じて手術した右眼だけで見る白色の方が明るく白いのです。私は、白内障の手術をしたら物がハッキリ見えるようになるとだけ思っていましたので、色まで変わって見えるとはおかしいと思ったのです。翌朝、回診にみえた担当の医師にこのことを尋ねたら、白内障は水晶体がただ濁るだけでなく、徐々に黄色がかってきて、進行すると茶色がかってくるとのこと。最初に作った遠近両用眼鏡は、メガネ店の勧めでグレーのレンズを入れたのですが、美術館では本当の色を見たくて眼鏡をはずして鑑賞し、それも不便なので、同じ度数で乱視の入った色のついていない遠近両用の眼鏡を追加で作って美術品を鑑賞していました。しかし、医師の話を聞いて、新しく作った色のついていない眼鏡でも、本当の色は見えていなかったのだと思わされました。もっとも色盲ですので、これでも正常な人の目で見るのとは違って見えているのでしょうが、これは致し方ありません。
左眼の手術も無事に終えて、退院してすぐに近視だけの眼鏡をつくりましたが、手元を見るには眼鏡をはずします。そして感激したのは、自分の手指の皺や指紋が眼鏡無しではっきり見えたことと、データ印の日付を、さっと変えることができたことでした。
退院して1週間後の2月23日の再診で視力検査をしました。いちいち手元を見るのに眼鏡をはずすのはわずらわしいので、遠近両用眼鏡も作ることに医師と話していたからです。検査の結果は、乱視があるので乱視も入った遠近両用の眼鏡を作ることになりました。医師に、「人工レンズを入れたら乱視はなくなると思っていたのに?」と質問したところ、乱視の原因のゆがみは、水晶体にも角膜にも起こり、私の場合は水晶体のゆがみが大きかったので、角膜の小さなゆがみを矯正するだけで良いのだとのこと。3月13日に最後の受診をし、遠近両用で乱視も少し入った眼鏡の処方箋をもらいました。医師に「よく見えるようになりました」と話すと、「女性の方が術後の変化が大きい、自分の肌のしみやそばかすがはっきり見えてしまうから」には、笑わせられました。
今は、もうすぐ出来上がる眼鏡を楽しみに待っていますが、こんなことも思っています。
肉体の目のレンズ(水晶体)と同様に、心の目のレンズも、知らず知らずの内に濁ったり色がついたりして、他人も自分自身も正しく見られないようになってくる、それに気づき、本当の色を見るようにしなければいけないということです。
心身ともに絶大な効果があった、今回の白内障の手術でした。