4月14日(土)9時40分、富山空港(正式名称は「富山きときと空港」ですが、何とも安直な名付け方で私は嫌いです)発の飛行機で羽田空港へ。12時5分発の飛行機に乗り継ぎ、15分遅れで14時10分に鹿児島空港に到着し、空港からノンストップバスで15時過ぎに鹿児島市内に入りました。鹿児島には1979年(昭和54年)に日本青年会議所の全国大会で行ったことがありますが、桜島を観ながらの錦江湾観光クルーズ船上で、日本青年会議所会頭が当時発売されたばかりのソニーのウォークマンでイヤホンから音楽を聴いていたことと、城山観光ホテルという立派なホテルで大懇親会が行われたことくらいしか記憶に残っていません。
今回の2度目の鹿児島行きは、「新老人の会」富山支部の世話人代表(支部長のような職務)としての第11回「新老人の会」ジャンボリー鹿児島大会参加が目的でしたが、40年近く前のような記憶にほとんど残らない旅行にはしたくないと思っていました。しかし、ジャンボリーは4月15日(日)の午後1時から始まり、懇親会終了が午後8時で、翌日の月曜日には仕事の関係で、飛行機と北陸新幹線を使って午後2時過ぎに富山に戻るという日程から、自由行動できる時間は、大会前日に鹿児島に着いてから寝るまでの間と、大会当日の午前中だけでした。こんなタイトな日程でしたが、何か記憶に残ったことがあるかと問われたら、「あった」と答えます。
まずは、この4月に鹿児島支社に転勤になった、D生命富山支社時代に取引と交流があったYさんとの再会です。鹿児島に一緒に行った「新老人の会」富山支部の会員のOさん(女性)も交えての夕食会をYさんが段取りしてくれていましたが、かなり激しい雨の中を午後6時にホテルに迎えに来てくれたYさんの腕には3本の雨傘。私たち2人のために、自分が持っていた雨傘を準備してくれていたのでした。鹿児島は雨という予報を聞いていたのですが、傘を忘れてきた私は大助かりでした。
昨年末に、会社でD生命と生命保険を1本契約しましたが、その前にR社を通して生命保険を1本契約したばかりだったので、最初は聞くだけ聞いて断るつもりでした。しかし、R社と契約した生保との違いを説明したYさんの説得力に、それまでの付き合いで感じていた「面白い人」の印象は「出来る男」に変わりました。そして雨傘で「気配り出来る人」が加わったのでした。
鹿児島の芋焼酎「島美人」を飲み、鹿児島の黒豚のしゃぶしゃぶや黒牛のステーキをほお張りながら聞いた、Yさんが社会に出てからの4社での勤務体験は興味深いものでしたが、中でも、D生命の前のA損保時代に、堪能な英語力を買われて米軍の座間基地で米兵の保険手続きの仕事をしていたときに知った米軍の組織に関する話題、特に海兵隊隊員の戦闘地域や出身地、給料については知らないことばかりでした。Yさんはまだ44歳ですが、色んな人生経験を積んできたことを改めて知り、知り合ってよかったと思いました。
翌日の午前中はOさんとタクシーで、万治元年(1658年)に築かれた島津家別邸である敷地面積5万平方メートルの仙巌園(せんがんえん)に出かけました。このタクシーの運転手さん、運転中ずっとNHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」で観光客があふれている鹿児島市内を案内しながら、幕末の名君島津斉彬(なりあきら)を輩出した島津家の家系について、養女篤姫の話も交えながら詳しく話してくれたのです。そして「島津家が好きで、今、この本で勉強している」と、助手席の横にはさんである「島津一族~無敵を誇った南九州の雄」という本を示してくれましたが、大変分かりやすく書かれていました。この運転手さんの話のおかげで、錦江湾や桜島を庭園の景観にとりいれた雄大な仙巌園をより興味深く散策できたように思います。
仙巌園からジャンボリーの会場に行くのに乗った運転手さんも良い感じだったので、ついつい富山のタクシー運転手さんと比べてしまいました。富山市内には観る場所が少なく、かつ点在していて、タクシーで回るには愛想もない町ではあります。しかし、説明する場所が少ないと思って他の話題をもちかけても、待遇や給料に対する不満は聞かされることはあっても、楽しく会話を続けてくれる運転手さんに巡り合った記憶がほとんどありません。運転手さんに限らず、鹿児島で言葉を交わした人はみなさん、明るかったです。鹿児島空港の土産物屋の女性店員さんの笑顔と親切も忘れられません。明るい日差しの中で育ち生活している鹿児島県の人々と、どんよりとした天候の下でじっと風雪に耐えながら生活している我々富山県人との違いが、こんなところに出ているのかと思いました。
物よりも人が記憶に残った、今回の鹿児島「ふれあいの旅」でした。
2月13日に富山市民病院に入院し、両眼の白内障の手術をうけました。
私の目には、色々な欠陥があります。まず、近眼。中学生の頃、祖父に総曲輪通りのウスヰ時計店で眼鏡を買ってもらって以来、2、3年ごとに、度数のより強いレンズに変えてきました。
次が赤緑色盲。大学受験の高校3年生の夏休みに、美術クラブのキャプテンとして、富山市の美術展に出展する油絵を描いていました。オレンジ色の食べ頃のカボチャを描いたつもりが、母に「いい色合いの緑ね」と言われ、それで絵を描くことを止めたのでした。
そして緑内障。大学で柔道部に入りましたが、20人くらいで合宿した1年生のときに、柔道部のOBで医学部の眼科医局に勤務していた先輩に夜中に起こされて、麻酔の目薬をさされ眼に重りを載せて眼圧を測られました。そして私だけに「このまま放っておくと緑内障で失明するぞ」と言われたのです。そこで大学病院で視野検査を受け目薬をもらい、卒業後のサラリーマン時代も、先輩に紹介状を書いてもらった大阪大学附属病院で定期的に検査を受け目薬をもらっていました。富山に戻って直ぐに診てもらった町医者に目薬は必要ないと言われたので、ずっとささずにいました。しかし20年ほど前に、県立中央病院での勤務を経て眼科医院を開業していた高校の同級生に、目が痒くて診てもらったところもう少し検査したいと言われ、その結果、緑内障が進行しないように再び目薬をさすことになり、今日に至っています。
4番目が乱視で、これもかなりひどく、最近の私は、乱視の入った遠近両用と、パソコンと新聞が読み易くなる乱視の入った近々両用の眼鏡を、会社と自宅に2個ずつ持っていました。
こんな私の目ですが、数年前から新聞や書類が読み辛くなり、データ印の日付を合わせるのに虫眼鏡を使っても数字がハッキリ見えなくなってきました。そこで一昨年、前述の同級生の医師に白内障ではないかと尋ねたところ、まだ手術はしなくてもよいだろうとのこと。しかし、緑内障の検診で視力を測る度に見え難くなってきたので、富山市民病院に紹介状を書いてもらい、昨年の11月8日に受診しました。その結果3ヵ月後の今年の2月13日の朝入院して午後に右眼を手術し、1日置いて15日の午後に左眼を手術して翌日16日の午前中に退院することに決まりました。1月29日に、妻も一緒に手術の説明を受けました。濁った水晶体の代わりに白内障手術で眼の中に挿入する人工のレンズの焦点距離をどうするかということで、 眼鏡無しで新聞や本を読みたいと思い30cmに決めました。
雪が激しく降る2月13日、長男に1時間以上かけて車で病院まで送ってもらい、午前中は検査をし、午後4時半過ぎに、当日の5人の手術の最後の患者として手術室に入りました。世の中には手術を怖がる人もいますが、私はむしろ興味津々で手術室に向かいました。6年前に、脊柱管狭窄症の手術を全身麻酔で受けたときもそうでした。今まで経験したことが無い新しい経験ができることに、ワクワクするのです。今回もそうでした。ベッドに寝かされて手術されるとばかり思っていたのに、歯医者さんにあるような椅子に座らせられたのが最初の驚きでした。そして麻酔液が点眼されいよいよ手術。ブルー色が目の前に浮かび、それがピンク色に変化していくのを観察し、メスで切っているのだなと感じたりしているうちに、40分ほどで手術が終わりました。左眼のときは今度は何色が見えるだろうかと楽しみになりました。
病室に戻り、夕食前に目薬をさすため手術した右眼の眼帯をはずしたときは戸惑いました。右眼を閉じて手術していない左眼で見るシーツや看護婦さんのマスクの白色、そして窓外の民家の屋根に積もった雪の色より、左眼を閉じて手術した右眼だけで見る白色の方が明るく白いのです。私は、白内障の手術をしたら物がハッキリ見えるようになるとだけ思っていましたので、色まで変わって見えるとはおかしいと思ったのです。翌朝、回診にみえた担当の医師にこのことを尋ねたら、白内障は水晶体がただ濁るだけでなく、徐々に黄色がかってきて、進行すると茶色がかってくるとのこと。最初に作った遠近両用眼鏡は、メガネ店の勧めでグレーのレンズを入れたのですが、美術館では本当の色を見たくて眼鏡をはずして鑑賞し、それも不便なので、同じ度数で乱視の入った色のついていない遠近両用の眼鏡を追加で作って美術品を鑑賞していました。しかし、医師の話を聞いて、新しく作った色のついていない眼鏡でも、本当の色は見えていなかったのだと思わされました。もっとも色盲ですので、これでも正常な人の目で見るのとは違って見えているのでしょうが、これは致し方ありません。
左眼の手術も無事に終えて、退院してすぐに近視だけの眼鏡をつくりましたが、手元を見るには眼鏡をはずします。そして感激したのは、自分の手指の皺や指紋が眼鏡無しではっきり見えたことと、データ印の日付を、さっと変えることができたことでした。
退院して1週間後の2月23日の再診で視力検査をしました。いちいち手元を見るのに眼鏡をはずすのはわずらわしいので、遠近両用眼鏡も作ることに医師と話していたからです。検査の結果は、乱視があるので乱視も入った遠近両用の眼鏡を作ることになりました。医師に、「人工レンズを入れたら乱視はなくなると思っていたのに?」と質問したところ、乱視の原因のゆがみは、水晶体にも角膜にも起こり、私の場合は水晶体のゆがみが大きかったので、角膜の小さなゆがみを矯正するだけで良いのだとのこと。3月13日に最後の受診をし、遠近両用で乱視も少し入った眼鏡の処方箋をもらいました。医師に「よく見えるようになりました」と話すと、「女性の方が術後の変化が大きい、自分の肌のしみやそばかすがはっきり見えてしまうから」には、笑わせられました。
今は、もうすぐ出来上がる眼鏡を楽しみに待っていますが、こんなことも思っています。
肉体の目のレンズ(水晶体)と同様に、心の目のレンズも、知らず知らずの内に濁ったり色がついたりして、他人も自分自身も正しく見られないようになってくる、それに気づき、本当の色を見るようにしなければいけないということです。
心身ともに絶大な効果があった、今回の白内障の手術でした。
1月28日の地元新聞の記事に、またまた財務省に腹が立ちました。記事の大見出しは、「企業撤退 広がる波紋」、中見出しが「利用者“難民化”現実味」、「介護運営難100自治体」でした。そして記事の概要を示したリードには、「介護大手の地方からの撤退が波紋を広げている。介護現場では専門業者のノウハウやスタッフに頼ってきただけに、自治体では『企業としての経営判断かもしれないが、やりきれない』と困惑の声も。利用者の受け皿探しが厳しい中、懸念する“介護難民”が現実味を帯びてきた。」とあり、本文では、まず福島県での事例を挙げ、次の節の小見出し「多角化」で、介護大手の多角化の理由を記し、最後の節の小見出し「当て外れ」で、こうなった理由が書かれていました。この「当て外れ」を読み、心の底から腹が立ったのです。
「国が軽度の要介護者向けサービスを市区町村に移行させたのは、介護費の抑制と地方の実情に応じた多様なサービスの提供を期待したからだった。制度改革に関わった財務省幹部は『軽度の介護なら、住民主体による助け合い事業に置き換えても十分カバーできると思った』と振り返る。
しかし、実際は『判定上軽度でも認知症や難病の患者、自力の入浴が困難な利用者へのサービスを住民のボランティアでまかなうのは不可能』(中略)
国も各地に展開する大手介護を、全国一律にサービスを提供する『ユニバーサル企業』と暗に位置づけていたが、当てが外れた形だ。
厚生労働省幹部は、『動き出した住民主体の流れを止めるわけにはいかない。しかし、専門的なサービスを受けられない利用者の救済も急務だ』と語り、難しいかじ取りを迫られている。」という記事です。
このどこに腹が立ったのか。まず「介護費の抑制と地方の実情に応じた多様なサービスの提供を期待した」です。とにかく医療や介護などの社会保障費を抑えることしか考えていない財務省ですから、「期待」は「介護費の抑制」にあり、「地方の実情に応じた多様なサービスの提供」は、後付けの理屈に過ぎないと思います。そんなことだから、「制度改革に関わった財務省幹部は『軽度の介護なら、住民主体による助け合い事業に置き換えても十分カバーできると思った』と振り返る。」ことになったのです。介護現場の現実を知らない財務省の役人が、「住民主体による助け合い事業」ときれいごとの言葉を使って軽度の介護をボランティアに委ねようとしても、彼らは介護の中身もボランティアの現実も分かっていないのだから「十分カバー」などそもそもできるはずがなかったのです。全く無責任なものです。
私は先日、富山市の千石町通り商店街振興組合が作った映画「まちむすび」を観ていて、なるほどと思ったシーンがありました。千石町の住民が神通川原で行っている清掃活動を、千石町の住民ではない男性(主人公の相棒)が手伝いながら、「住民の参加を募るには全くの無償ではなく、千石町商店街だけで通用する地域通貨をお礼に渡したら良いのではないか」と提案したシーンです。このようなアイデアなくして、住民主体による助け合い事業が定着するとは思えません。
また、「大手介護を、全国一律にサービスを提供する『ユニバーサル企業』と暗に位置づけていたが、当てが外れた形」と甘い判断だったことを「当てが外れた」と書かれていますが、当てが外れた原因は、前節「多角化」の最初に、「ニチイの17年3月期決算は、介護分野のもうけを示す営業利益が110億円。前年同期比で60%を超えるアップだ。報酬の高い重度の介護保険サービスにシフトした効果とみられる。」にあるとおりです。企業経営者なら「選択と集中」で利益のより多い分野に経営資源を集中するという判断は当たり前なのですが、1円たりとも金をもうけたことの無い財務省の役人には分からなかったのです。
そして記事の最後の部分にまたまた腹が立ちました。「厚生労働省幹部は、『動きだした住民主体の流れを止めるわけにはいかない。しかし、専門的なサービスを受けられない利用者の救済も急務だ』と語り、難しいかじ取りを迫られている」でした。何をもって「動きだした住民主体の流れ」と言うのでしょうか。自分たちの政策を強引に推し進めるために、動き出してはいないのに動き出したとでっち上げることが必要だったのでしょう。
私は2014年12月のコラム「来年の介護保険改定に異議あり」で、「財務省が、介護の全サービスの利益率の加重平均が8%程度で、中小企業の売上高純利益率の平均2.2%より高いという理由で、利益率の高い事業の単価を下げるように主張している」ことに対して、これでは「まるで社会主義経済ではないか」と書き、2016年3月のコラム「厚労省の施策に憤り 〜介護業の定昇導入 助成〜」では、当社の4月の賃金改定に当たっては「厚労省の愚策を反面教師にして、民間企業としての賃金制度、賃金体系は時代の変化に対応し、また会社の経営理念に照らしてどのようにあるべきかを念頭に議論したいと思います。」と書いて、財務省や厚労省の介護行政を批判しました。
私は、財務省と厚労省の役人が、改悪としか思えない制度改革を机上の論理で次々と打ち出す状況が変わらぬ限り、利用者の“難民化”は現実に起きると思います。さあ、それに備えて、どういう経営判断をするのか、朝日ケアの介護事業は正念場を迎えています。