若手社員パワーアップ研修会を終えて

2017.06.02

4月に入社した新入社員4名と、3年生社員2名、 4年生社員2名、そして5年生社員1名の9名を対象に、4月に3日間、5月に1日、6月に2日間の延べ6日間にわたり実施した「若手社員パワーアップ研修会」が、6月17日(土)に終了しました。

 私は、毎回30分間の「トップ講義」を行いましたが、講義内容は、第1回「生まれてから高校卒業まで」、第2回「大学時代」、第3回「サラリーマン時代」、第4回「朝日建設に入社してから」、第5回「重大ニュース」、第6回「創業100周年に向かって」でした。

 第1回「生まれてから高校卒業まで」では、幼いときに母に毎晩童話を読んでもらったことで読書好きになり、高校時代に宮沢賢治の詩や童話から東北地方に惹かれ、東北大学への進学を決めたことを話し、第2回「大学時代」では、5年間の学生時代はほとんど勉強せず柔道に明け暮れていたが、卒業時に5人しか残らなかった同期生とは生涯の友人として今でも付き合っていること、また、その中の一人読書家の和田君から10年ほど前に宇野千代著「天風先生座談」を薦められ中村天風を知り 天風の「成功の実現」を読んだが、今年の3月に、中村天風「いのちの力を強くする」一日セミナーに参加して、その頃どうしようもないほど落ち込んでいた私の精神状態が救われたことを話し、一生の友人を持つよう勧めました。

 第3回「サラリーマン時代」では、A組の社員の公私混同振りや派閥争いのことなどを話し、最後に、私が営業を担当して、中卒で不動産会社を立ち上げた社長が初めてのマンション建設計画をA組の設計施工で進めていたときの話をしました。オイルショック後の資材価格高騰で予算が合わなくなったので、A組の設計担当者が依頼主に相談無く杭の本数を減らすことで予算を下げたことに社長が激怒し、社長と用心棒の前で打合せしていた私は、非常に怖い思いをしました。しかし、私が誠実に対応してきたことをこの社長が気に入り、私にA組を辞めて自社に来るように誘われたことも懐かしい思い出として話しました。

 そして第4回「朝日建設に入社してから」は、昭和50年に当社に入社してから今日までの42年間に私が行ってきたことを話したのですが、多岐にわたりよくもこれだけ多くのことをやってきたものだと我ながら感心しました。しかし、経営者としては当たり前のことで、自慢することではないと思っています。とにかくとても30分間では語りつくせるものではありませんでした。社長になるまでの16年間と、社長になってからの26年間に分けるべきでした。

 第5回「重大ニュース」では、最初に平成5年の前田道路との共同企業体「とやまエコン」(現「ほくりくエコン」)設立の経緯を話しました。その後、印象に残っている出来事について話しました。翌日の第6回「創業100周年に向かって」では、昨年から始めた3年間の中期経営計画を8回繰り返すと2039年になり、その翌年が創業100周年となると話してから、吉田松陰の言葉「夢なき者に成功なし」を例に挙げ、100周年のときの朝日建設の理想の姿を描き、その理想を実現するための毎年の経営方針や中期計画を立案し、その計画を確実に実行することで、創業100周年を成功のうちに迎えることができるのだということ、また、詩人のまどみちおさんの「朝がくると」という詩をスクリーンに映して、ものづくりについて考えてもらいました。

 さらに、研修プログラムの最後に設けられたトップコメントでは、2日前の6月15日にタナベ経営のFCCフォーラムで聴いた坂村真民の詩「すべては光る」を紹介し、今回の研修会参加者全員が光ることができるよう、この研修終了後も学んだことを実行して欲しいし、会社としても光を当てていく、そして、私も経営方針の一番目に掲げている「人財育成」にさらに力を入れたいと締めくくりました。

 今回の研修会は、毎回「トップ講義」をしたことで、過去を振り返りながら創業100周年に向かっての想いやなすべきことを確かなものにでき、9人の若手社員、8人の社内講師とともに、私も成長できた良い機会でありました。

新入社員レポートから

2017.05.02

当社では20年ほど前から、新卒の新入社員は入社してから3ヶ月間、仕事日は毎日「新入社員レポート」を書くことを義務付けられています。

 当社業務のコンピュータ基幹ソフトウェアであるロータスノーツ上で作成する「新入社員レポート」のフォームは、曜日ごとに、上段に「主な行動予定/結果」を一時間ごとの区切りで本人が記入し、下段にはその日の「仕事の感想/コメント」を、本人、係長、課長、部長、本部長、社長の欄に分けて記入できるようになっています。

 私は手書きのときから、新入社員一人ひとりの毎日のレポートに、何かしらのコメントを書いてきました。私のコメントが一日でも書かれていなかった新入社員は、一人もいないと思います。

 さて、今年はTさん、Nさん、Y.Kさん、Y.Yさんの4人の新入社員を迎えました。

昨年は新卒採用がゼロでしたので、2年ぶりに「新入社員レポート」を読んでいます。

 このレポートでは、記入の仕方について、毎年同じような指摘をします。例えば、上司からの指摘やコメントに対して返事を書くときには、返事のコメントの頭に月/日と日付を記入すること、それは、1週間ごとのスケジュール表が一覧できるビュー画面で、更新されたことを示す未読の★がついていたら、その週のスケジュール表を開いたときに、更新日と同じ日付が頭に記された追加記入のコメントを探しやすいからだということ、また、返事の文字の色はコメントした人の文字の色と違った色に変えることで、一目で返事があったと分かるということ、あるいは、説明は5W1Hを意識して書くと抜けの無い内容になるということなどです。

 私がこんな指摘をするのは、読み手である相手の立場に立って書くこと、工夫することは、文章だけではなく、他の言動でも言えることなのだという思いからです。当社の社員は、相手の立場や状況を考え、相手に対する思いやり、共感を常にもつ人であって欲しいのです。

 今年の新入社員4人にも、毎日いろんな感想やコメント、質問を書いていますが、最近のとても面白かったやり取りを以下に紹介します。Y.Yさんの5月1日の「主な行動予定/結果」を翌2日に読み、1日の「仕事の感想/コメント」欄に

 

5/2 

道路舗装(K工業)に、場所(地名)を加えればよいですね。地名を覚えることは、舗装工事をする人には大切なことであり、地名を書くことにより、早く場所を覚えることができると思うのです。

とコメントしたところ、その日のうちに

5/2  

Y.Y・地名を追記しました。地名を早く覚えれるように頑張りたいと思います。

と、返事がありました。その後、しばらくチェックができず、14日の指摘と返事が次の通りです。

5/14 

地名、路線名が入ったのを確認しましたが、驚きました。

「たかのうべんだせん」笑ってしまいました。そして、どうしてこのような漢字を書いたのか、大変疑問に思いました。

正しい漢字で路線名を書き直すと共に、なぜこのような漢字を使うことになったのか、原因も書くことを命じます。

これから、あなたが成長できるかどうかに関わる重要な考察です。

5/18 

Y.Y・すみません。再度直しました。

(原因)・ 作業振り分けのホワイトボードに書いてあった「高野弁田線」を地名と勘違いして記入してしまいました。

 この返事に対して、2日の「主な行動予定/結果」での、道路舗装(K工業 高能弁田線)を確認して、また次のコメントをしました。

5/21 

5月2日も「高熊井田線」だったのですね。

私が「道路舗装(K工業)に、場所(地名)を加えればよいですね。地名を覚えることは、舗装工事をする人には大切なことであり、地名を書くことにより、早く場所を覚えることができると思うのです。」とアドバイスしたのは、現場リーダーが工事場所の地名を言っても、そこがどこだか分からないのでは、仕事に差し支えるし、今後、自分が指示する立場になったときに、地名が分からなくては仕事にならないと考えるからです。

道路事業の場合は、路線名を覚えることも大切です。一つの路線がいくつもの地名にまたがっているのですから、(路線名、地名)と記すのが、自分にとっても読み手にとっても良い記載方法です。

 

 私は、Y.Yさんが5月18日に書いた原因についてのコメントを読まないままに、20日の本社での経営戦略会議で、「高熊井田線」が「高能弁田線」になっていた話をしたところ、Y.Yさんが所属する八尾オフィスのM課長が、「それは、(1週間分の現場名と配属人員の名前が書かれている)ホワイトボードを見て、書かれていた工事名が、(熊が能、井が弁に見え、)高能弁田線に見えたのだろうと思います」との発言に「なるほど、そうだったのか」と思い、漢字の間違いに対する疑念が晴れ、M課長には、間違えられないように文字を書くようにと注意しました。翌21日に、上述したY.Yさんの5月18日付けのコメントを読み、M課長の想像通りであったと分かりましたが、新たな疑問がわきました。

 Y.Yさんの5月1日の「主な行動予定/結果」欄には、5月2日付けの追記として、「道路舗装(K工業、上新町)」と「上新町」という地名が書き加えられていましたが、5月18日の原因についてのコメント「「高野(能)弁田線」を地名と勘違いして記入してしまいました」を読むと、「上新町」と地名を書かなければいけないのに「高能弁田線」と路線名を書いたことが原因だったと言っている訳で、翌2日の「主な行動予定/結果」には、道路舗装(K工業 高能弁田線)と書かれたままになっていることからしても、漢字が間違っていて、それで笑われてしまったとは思っていないのではないかということです。

 今度Y.Yさんに会ったときに、直接聞いてみましょう。私のコメントの仕方が悪かったのかもしれません。原因はとことん解明しておかないと、お互いのためにも、オフィス全体のためにもなりませんからね。

若手社員パワーアップ研修会初回講義を終えて

2017.04.01

 先月のこのコラムの最後に、「そして私には、毎回30分間の「トップコメント」が割り当てられています。今考えている内容は、私のこれまでの70年の人生と、経営者としての考え方がどのように形成されてきたかを、6回にわたり一代記のようにして語ることです。楽しみながら取り組んでいこうと思っています。乞う、ご期待!!」と書きました。しかし3月中には講義(「トップコメント」が「トップ講義」に変更)資料の作成にとりかかれず、4月3日の入社式が終わってから、第1回研修会2日前の4月5日にようやく取りかかりました。

 6回の講義内容は、第1回1日目「生まれてから高校卒業まで」、2日目「大学時代」、第2回「サラリーマン時代」、第3回「朝日建設に入社してから」、第4回1日目「重大ニュース」、2日目「創業100周年に向かって」と、ざっくりと考えていました。

 そこで4月5日は、第1回の2つの講義用に、生まれてから大学時代までのスナップ写真と、大学時代の柔道部の部誌「東北大学柔道」のバックナンバーを家中あちこち探して付箋をつけ、研修会前日の6日には、使いたい写真をスキャンしそれを使ってスライドを作る作業を行いました。

 4月7日の第1回1日目「生まれてから高校卒業まで」では、私は幼い頃母に毎晩のように本を読んでもらっていて本が好きだったので、小学2年生のときに、先生から大きくなったら何になりたいかと問われ、「作家」と答えたところ「サッカー選手」だと間違われたが訂正できなかったこと、高校では大学受験勉強の合間に宮沢賢治の童話や詩を読み、東北地方にあこがれるようになり、東北大学に行きたいと思うようになったこと、また、小学4年生のとき、担任の先生が1~3年のときの中年の女の先生から若い男の先生に代わり、その先生が私に学芸会の劇に出るように勧めてくださったことをきっかけに、自分から手を挙げることの無かったおとなしい私が積極的な性格に変わりだしたことの二つを柱に講義をしました。

 第1回2日目「大学時代」では、何を学んだか全く覚えていなくて、5年間の柔道部生活が記憶のほとんどを占めること、体力が無かったのに何とか稽古に耐え、勝つことはできなくても寝技では負けないようになり、15人勝ち抜き戦の国立7大学柔道大会には3年生から3年間ずっと正選手として出場し、この間に1度も負けなかったことを話しました。そして今でも忘れられない4年生のときの名古屋大学との試合について話しました。14番目の副将の私の前まで全員が引分け、私の相手も引分け役だったので開始早々に寝技で上になり難なく引分け、勝敗を大将戦にゆだねたのでした。大将は主将であり同じ経済学部の親友である大野良司君で、寝技に引き込んだものの押さえ込まれ、何とか逃れたが再度押さえ込まれて負けたのです。さらに、相手も引分け役だからといってなぜ私が取りに行かなかったのか、もしも勝てていたら、名大の大将には勝ち目は無いものの少しは体力を消耗させて大野君につなぐことができ、大野君の勝ち目が出たかもしれなかった、それがいまだに悔いとして残っていると続けました。

 柔道部の同期4人とは今でも友人として付き合っていますが、同じく経済学部で一緒だった和田清君は非常な読書家であり、彼に太宰治や坂口安吾の小説を読めと言われ、初めて2人の小説を読みましたが、10年ほど前の年賀状で宇野千代の「天風先生座談」を勧めてくれました。この本をきっかけに私は中村天風の「心身統一法」を知り、今年に入ってから仕事上のことで大変苦しんでいたときに、高岡市で開催された「中村天風いのちの力を強くする1日セミナー」に参加して「心身統一法」を基礎から学び、それまでの悩みを解決する道が開けた思いがしたと話し、一生の友人を持つことの大切さを中心とした講義をしました。

 講義の準備は大変ですが、準備を通して自分のこれまでの人生を振り返り、その時々にどんなことを考えていただろうかと思いをめぐらせることは、これからの人生を歩む上での貴重な機会であり、今回の研修会は若手社員よりもむしろ私にとって有意義だと思います。

 このコラムを書き終えたあとは、4月26日の第2回「サラリーマン時代」の準備です。昭和45年から50年までの5年間、いろいろありました。講義の柱は、「サラリーマンを経験しての学び」になると思います。