2013年11月のコラムのタイトルは「4回目のバヌアツ共和国訪問」でしたが、このコラムの終わりに「5回目があるかどうか分からないが、私の人生での貴重な体験となっている4回のバヌアツ訪問である。」と書いていました。
しかし今年の春頃、過去4回ともバヌアツに一緒に出かけ、7月から富山みらいロータリークラブ会長を務めることになっていた西尾さんが、姉妹クラブであるケントホーストロータリークラブへ、来年6月に行う当クラブ創立20周年記念式典への参加を要請しに10月頃にオーストラリアを訪れ、その足でバヌアツ訪問を考えているとのうわさを耳にしました。そこで7月中旬に行われたロータリークラブのバーベキュー大会に参加したときに、一緒のテーブルに座った西尾さんに「本当ですか?」と尋ねたところ、「本当です。林さんも行きましょう」と誘われました。5度目のバヌアツは無いと自分なりに言い聞かせていたのでしたが、過去4回のバヌアツ訪問をすべて段取りし同行もしてくださり、今は転居したためにケントホーストクラブから転居先の町のクラブに所属変更されているネイビルさん(78歳)が、今回も新たな小学校訪問の手配に尽力し同行もしていただけると聞き、生ビールでよい気分になっていた私は、「ネイビルさんが行くのに私が行かないわけには行かないかな」と思い、「じゃあ、行こうか!」と言ってしまいました。
11月19日(土)の夜、羽田空港を発ち、20日はシドニーでネイビルさん夫婦と息子さんと一緒に夕食会。翌21日の夜、ケントホーストクラブのクリスマス例会(写真1)でわが当クラブの20周年式典への参加を依頼しました。22日の早朝シドニー空港を発ちブリスベン空港経由で夕方バヌアツのサント空港に着きました。
今回のバヌアツ行きは、西尾さんの「もの(物)からこと(事)へ」の方針で、これまでのパソコンやプロジェクター、衣服や文房具の寄贈、ソーラーパネルやバッテリーの設置など物の支援に加えて、2009年の2回目のバヌアツ訪問の時から支援を続けているサント島の端っこにあるホグハーバーの小学校の児童と富山市立堀川小学校6年生の児童との交流という「こと」の第一歩を踏み出すことでした。
23日(水)の午前中にホグハーバー小学校(写真2)に到着し、集会室に集まった全校児童に、最初に英語で説明の入った富山県紹介ビデオを上映し、続いて堀川小学校の6年生男児の起床、朝食から通学、学校での授業や給食、そして帰宅し寝るまでの1日の様子を収録したビデオを西尾さんが英語で説明しながら上映しました。その後6年生だけ残り、英語で書いた5つの質問をスライドに写しながら西尾さんが1問ずつ尋ね、児童が真剣に紙に答えを書いていきました。質問は、①あなたの夢は何ですか? ②大きくなったら何をしたいですか? ③あなたにとって一番大切なものは何ですか? ④学校は好きですか? ⑤今幸せですか?の5つでしたが、私のそばの女の子は、大切なものは神様と学校と、きれいな英語で書いていました。午後からは、6年生は堀川小学校の6年生の児童が書いた手紙に対する返事を暗い教室で書き、他の学年の児童は、西尾さんや私と同じく5回目のバヌアツ訪問となった戸田さんが共感し、バヌアツの小学校でも行うことにしたSORAプロジェクト(A4サイズの紙に自由に塗り絵をしてもらい、出来た絵をつなげると下絵の線が繋がって一つの作品になるという参加型のアートワーク)(写真3)に参加して、思い思いに塗り絵を楽しみました。
翌24日は午前中に、前回2013年に日本人として初めて訪れたナタワ小学校(写真4)に2度目の訪問をし、午後はこれまた日本人が初めて訪れるというサラ小学校(写真5)を訪問して、同じくビデオ上映やSORAプロジェクトを行いました。
25日、私は前日から痛みを感じ始めた肩が動かすことも出来ないほどになったため、これも今回初めて訪れることになったビビ小学校訪問を断念し、当社の東日本大震災の現状視察の2回の慰安旅行を企画し添乗してくれたエヌトラベルの中井社長と二人、オイスターアイランド(写真6)の宿泊ホテルでビールを飲みながらお互いの人生を語り合いました。
26日の午前中にサント空港(写真7)を発ちポートビラ空港、シドニー空港経由で27日の早朝に羽田空港に帰り着き、富山空港から日曜日も診察してくれる整形外科病院に直行しました。
日本とは全く文化も文明も気候風土も違う南太平洋の人口26万人の発展途上国バヌアツへの5回目の訪問は、過去4回の訪問と同様に、本当の奉仕活動とは何か、人間の幸せとは何かと改めて考えさせられましたが、今回は堀川小学校とホグハーバー小学校との交流の第一歩に関わったことで、バヌアツに5回も訪れた者として、今後の2つの小学校の交流に対する責任の一端を担うことになったと感じました。もう6度目の訪問は無いと思いますが、バヌアツと富山市の小学校同士のこれからの交流に、これまでの体験を生かして何らかの貢献が出来たらと考えています。
なお、今回のバヌアツ訪問に、富山テレビのアナウンサーとカメラマンの2人が同行しわれわれを取材しました。来年3月に30分の特集番組として放送されますので、日時が決まったらお知らせします。
10月19日(水)~22日(土)、土木学会土木広報センター主催の台湾土木遺産視察ツアー「烏山頭(うさんとう/台南)・白冷?(はくれいしゅう/台中)・宜蘭(ぎらん/台北)4日間」に参加しました。帰国して1ヶ月たちましたが、それぞれの見学地で土木遺産を見た時の感動、そして説明を聞いた時の感銘が未だに残っています。
生まれてこの方、ずいぶん多くの旅行をしましたが、今回の旅行はこれからもずっと心に残る旅行だと思います。それは、昨年リニューアルした当社の経営理念「朝日建設は、建設事業とその関連事業を通して世の中の役に立つ。そして、ふるさと富山を発展させる。」の意味を、踏み込んで考えることができたと思えるからです。
視察した3ヶ所の土木遺産のそれぞれについて概要を記したいのですが、紙面の関係から、最初の視察地の烏山頭水庫(ダム)についてだけ簡単に説明します。
烏山頭ダムは、八田與一(はった よいち 金沢市出身 1886~1942)の設計と施工監理により、彼が34歳の時に着工し10年の歳月をかけて1930年に竣工した、当時のアジア最大のダムです。堰堤長1273m、高さ56m、貯水量1億5千万トンのこのダムにより、洪水・干ばつ・塩害に喘いでいた嘉南平原15万ha(富山市の面積は12万4千百ha)の60万人の農民に対して、烏山頭と濁水渓のダムに貯水した水を16000?(地球の円周は4万?)の給・排水路に水を引き、15万haの土地すべてに同時給水することは物理的に不可能だったので、三年輪作給水法という灌漑方式で水を分配しました。この事業によって、荒地が3年で沃野に変わり、穀倉地帯に変貌して、地域住民の生活が一変しました。
日本の植民地であった台湾において、ダムが完成するとすぐ、八田は工事に携わった多くの犠牲者のために、日本人、台湾人の区別無く死亡順に名前を刻んだ殉工碑を作りました。八田は嘉南平原の農民から「嘉南大?の父」と慕われ、ダムのほとりには彼の銅像が建てられ、戦後の混乱が収まると、八田の像の前では、命日の5月8日に彼の恩をしのぶ墓前祭が毎年続けられています。
私は初日の烏山頭ダム見学で、22名の研修団の団長として、八田與一の像に花束をささげました。今回の研修を企画した土木学会土木広報センターの緒方英樹さんから、事前に送られてきた緒方さんの著書「台湾の礎を築いた日本人たち」を読み、緒方さんが企画したアニメ映画「パッテンライ(八田が来た、の意味)!南の島の水ものがたり」を観て、八田與一の業績や生涯についてかなりの知識を得ていたので、花束と共に銅像に向かって心からの感謝の祈りをささげることが出来ました。
今回の研修では3ヶ所それぞれで、これらの施設に関わっている現地の方から説明を受けましたが、何度か聞いたのが中国の「飲水思源」ということわざでした。水を飲むたびに、井戸を掘った人のことを思い、感謝するということですが、いかに八田與一、磯田謙雄(白冷?)、西郷菊次郎(宜蘭河の西郷堤防)が、今でも台湾の人たちに敬愛されているかを知りました。そして、土木とは何かを改めて考えるきっかけになり、経営理念の「世の中の役に立つ」とは、単に構造物を造って終わりではなく、このようにいつまでも人々の暮らしを支え、普段は目につかないけれども、記憶され続けることなのだと思ったのでした。
台湾から戻り、経営理念について引き続き考えていた時に思い出したのが、平成8年から13年まで富山県土木部長・公営企業管理者をされていた白井芳樹さんに県庁の土木部長室で伺った青山士(あおやま あきら)の言葉でした。
青山士は、昭和6年に信濃川の大河津分水可動堰を完成させ、流域の洪水から耕地をまもり、民の暮らしを安泰にしましたが、分水路の脇にある完成の碑文に、青山は「人類ノ為メ国ノ為メ」と記しました。この言葉の拓本が額に入れて部長室に掛けられていたのです。
この「人類ノ為メ国ノ為メ」が、経営理念での解説『世の中の役に立つとは、周りを楽にすることである。「働く」=端(周り)を楽にすること』、そして「ふるさと富山を発展させる」と結びついたのです。
経営理念について改めて考え、これから如何に「世のため人のため」を心から願って経営していくかを考えさせられた台湾の旅でした。
「水力発電が日本を救う」は、元国土交通省河川局長の竹村公太郎さんの著書で、9月1日に発行されたばかりです。
私は、竹村さんに一度お会いしたことがあります。それは建設省OBの脇雅史参議院議員の2回目の選挙が近づいたころに、国土交通省を平成14年に退官した竹村さんが来富され、富山県建設業協会員に脇議員の支援を依頼されたときでした。そのとき司会者から竹村さんの経歴を聞き、私の大学の1年先輩であり、大学院修士課程(土木工学)の卒業が、私が経済学部を卒業した昭和45年であると知り、親近感を覚えました。
このとき、竹村さんが書いた「日本文明の謎を解く-21世紀を考えるヒント」が紹介され早速購入し、面白くて一気に読み終えたことを覚えています。
竹村さんは多くの本を著していますが、「水力発電が日本を救う」を知ったのは、先月、朝の犬との散歩中に聞いたNHK第1「マイあさラジオ」での「著者に聞きたい本のツボ」でした。
”序 100年後の日本のために”は、「私はダム建設の専門家で、水力発電を心から愛する人間の一人だ。未来の日本のエネルギーを支えていくのは水力発電、そう考えている。」で始まります。
本を読み進むと、建設省(現国土交通省)の河川局で、川治ダム、大川ダム、宮ヶ瀬ダムと、三つの巨大ダムを造ってきた竹村さんが、将来の日本の電力について真剣に考え、提言していることがひしひしと伝わってきて、憂国の情さえ感じられました。
「日本のエネルギー政策は曲がり角に来ている。石油などの化石燃料は地球温暖化を促進してしまう。さらに50年後、100年後には必ず枯渇してしまう。原子力は、福島第一原発の事故以来、方針が否応なく変更され、安易な拡大は出来ない。そこで、再生可能エネルギーが注目されているが、水力こそ最も古くから開発され、技術的に完成された再生可能エネルギーなのだ。」(93ページ)という状況下で、巨大ダムを造る時代は終わったが、それでも水力発電は増やせると、竹村さんは以下の3つの方法を述べています。
その第一は、半世紀以上前に作られた河川法第一条の目的を改正し、水力エネルギー開発を河川行政の目的そのものにすることで、「治水」と「利水」の矛盾した目的のため、満水の半分くらいしか水を貯めていない時代遅れの運用をしている日本の多目的ダムにもっと貯水し、発電力を格段に増やすことです。
第二は、水力発電の潜在的な力を引き出す重要な手段がダムを嵩上げすることであり、10%の嵩上げで発電能力はほぼ倍増することになるので、ダムをもう一つ造るのと同じになります。実際の嵩上げの例として北海道の夕張シューパロダムがあり、ダムの高さを約1.5倍にすることで、貯められる水が5倍近くまで増えました。
そして第三は、砂防ダムや農業用水ダムなどのように、発電とは別の目的で造られた多数のダムに発電させることです。
どの方法もなるほどと納得させられるものですが、河川法を改正することで、水力発電に対する河川行政の姿勢を大きく変えることができ、ダムに眠っている潜在的な巨大電力をまったくコストをかけずに現実社会に活かすことができるという主張に、建設行政の中心で長らく河川行政にかかわってきた竹村さんの言葉だけに、強く心を打たれました。それは、公共事業を主体とする当社が「建設事業を通して世の中の役に立つ」という経営理念を実現するには、発注者である行政の姿勢に大きくかかってくるという当たり前のことに気づかされたからです。
この本にはダムが壊れない3つの理由も述べられていますが、当社の土木技術者諸君は答えられますか。一つ目の理由は、コンクリートには鉄筋がないからなのです。読んでビックリしましたが、鉄筋がないとなぜ壊れないかが良く理解できました。さて、他の二つの理由は何でしょうか。税抜き1,400円のこの本を買って、土木技術の知識を深めてください。そして、自分が携わる公共工事のあり方についても考えてほしいと思います。
経営理念の二つ目は「社員は成長する資源」です。成長に読書は欠かせません。