私は出勤日の朝は毎朝5時過ぎから、2匹の犬、まず息子のクロスケ(6歳)、次に母親のハナ(8歳)と、自宅の南側に続く梨畑の中や、北側の県道戸出小矢部線を渡った所にある団地の中を50分から1時間歩いています。
この散歩、最初の頃は英会話のテープを聞きながら歩きましたが挫折し、その後は犬の向かう方向に漫然とついて歩くだけでした。しかし1年ほど前から、NHKラジオ第1で5時から始まる「マイあさラジオ」をイヤホーンで聞きながら歩いています。
この番組は、全国各地からその土地の人がその時々の話題を伝える「マイあさだより」や、リスナーからの葉書やファックス、メールなどでのお便りの紹介、また、懐かしい童謡やポピュラー曲が流れるなどバラエティーに富んだ内容で、ほろっとしたり、ニヤリとしたり、感動したりしながら聞いています。
この番組の月〜金 午前5時37分頃に「健康ライフ」というコーナーがあり、これがまたためになります。今月のコラムでは、9月7日からの再放送「人とのつながりが寿命を延ばす」(予防医学研究者 医学博士 石川善樹さん)の9月10日(木)放送分「 “幸福度”と寿命」を紹介します。この話は、翌11日の経営戦略会議で早速披露しましたが、それは、一週間前のこの会議でH専務が話したことが甦ったからでした。
専務は「最近(私は)、歳のせいかイライラした顔で笑顔が少ないようです。営業職は外で管理職は内で、自分の言い分を通すことに集中するが、なかなか成らないことが次々と重なるからなのかと思います。ネットで「人間関係について」を検索すると多くのことがでていました。そのなかに、他の人の意見を尊重せよ。論争には三つの局面がある、あなたの言い分、相手の言い分、そして正しい言い分。そして、ほほ笑みを忘れない、陰気な顔をしない。とありました。今後、出来るだけほほ笑みを出してきたいと思います。」(議事録)と話しましたが、「ほほ笑みを忘れない、陰気な顔をしない」は、まさに“幸福度”を高めるための行動だと思ったのです。
「マイあさラジオ」をパソコンで聞き返しメモした内容を以下に記します。
幸せだと感じる幸福度が高い人のほうが寿命が延びるが、幸せな人、ポジティブな人は他人の助けを借り易く、視野が広がるので、困難を乗り越えやすくなるからである
幸福度の50%はほぼ遺伝で決まる。ご機嫌な人の家族はだいたいご機嫌で、不機嫌な人の家族は不機嫌な人が多い。しかし、幸福度の残り50%は遺伝以外の環境や行動などの要因で変えられる
昔は考え方を変えるというアプローチだったが、自分の考え方を変えるのは非常に難しいので、最近は環境や行動を変えることで結果として考え方が変わっていくというふうに移っていっている
孤独な人の部屋は散らかっていることが多く友達を呼びにくいが、きれいにすると友達を呼びやすくなり幸福になる可能性が上がっていく(環境を変える)
作り笑いをするとか、下ではなく上を向く、ガッツポーズをするなど嘘でもよいから単純なことをすると、それだけで気分が盛り上がっていくことが知られている(行動を変える)
幸福と繋がりは深い関係があり、幸せな人は友達の数が多い。繋がりの質より繋がりの量のほうが幸福への影響が大きい。アメリカの研究で、自分の友達が一人幸せになると自分の幸福度が9%アップし、自分の友達が不幸になると自分の幸福度が7%下がることが確認された。幸せのほうが不幸せより感染力が強いので、たくさん友達に出会っていたほうが確率的に幸せになれる可能性が高くなるということになる
幸福度を上げるために何をすればよいかを国家として取り組んでいるのがイギリスで、感謝の訪問(その人に直接面と向かって感謝を述べる)、運動する(脳内に幸せを感じるβ−エンドルフィンが出てくる)、人と繋がる、何か新しいことを学ぶ、人に与える の5つ行動を提唱している
専務が、出来るだけほほ笑むという行動を継続すれば、専務の幸福度は確実にアップすると思います。そして、私はイギリスが提唱する5つの行動を、「家族(特に妻に)や社員に直に『ありがとう』と言う、7月から通い始めた富山市角川介護予防センターでのトレーニングを続ける、異分野の新しい友達を見つける、挫折しているハモニカの練習を再開する、従来から行っている国連UNHCR協会、国境なき医師団、ロータリー米山記念奨学会など各種善意団体への寄付を増強する」として実行し、寿命を延ばそうと思うのです。
私は、今年2015年は朝日建設創業75周年の年だと、昨年から事あるごとに社内でも社外でも話していますが、きっかけは昨年6月に金沢で開催されたタナベ経営の「ファーストコールカンパニーフォーラム 2014」への参加でした。このフォーラムのタイトルが「ファーストコールカンパニーへ挑む〜100年先も一番に選ばれる会社を創る〜」で、「100年先」という言葉が、日本には100年以上続いている長寿企業が2万6千社あるという帝国データバンクの調査数字を思い出させ、そこから当社の創業は1940年(昭和15年)だから100周年は2040年、それなら来年2015年は創業75周年なのだと急に強く意識させられたのです。
そんな思いから、今年の5月15日(金)16日(土)に、通常の業務を休んで社員全員参加で行った「目標管理と人事考課の効果的な進め方」研修会も、当社の創業75周年記念研修会と自分で勝手に名付けてひとり悦にいっていました。
創業75周年が気になりだしたら、今年は私が朝日建設に入社して40年だということにも気付きました。そして、この間に行った周年行事を思い出してみました。
1990年の創業50周年には、記念事業として、当時の社長であった父の反対を押し切ってレモンイエローの表紙の50年記念誌を発刊(1991年)し、八尾町桐谷に研修所兼保養所「アサヒツインドームズ」を建てました(1993年竣工)。60周年には会社のホームページを作成しましたが、この年に記憶に残る事業は特に何もしなかったことから、後付で60周年記念事業はホームページ作成だったと言っています。5年前の創業70周年には、10月23日、当社の社員とアサヒ会会員が一緒に、富山電気ビルで「創業70周年記念 感謝の集い」を楽しみました。役員はタキシード姿で入場者を出迎え、照明を落とした会場で、70年間の出来事やパーティーに参加している社員の入社時の写真などをまとめたDVDを上映した後、スタンダードジャズ「朝日のようにさわやかに」の生演奏が流れる中、暗いステージにスポットライトが当たり、その光の中で私が開会の挨拶をしたというお洒落な演出が思い出されます。また、90歳になっていた会長である父が出席してくれたことも、良い思い出です。
さて、今年は戦後70年の節目の年ということで、7月頃から新聞紙上では、例年より多くの第二次世界大戦の関連記事が掲載されていました。8月2日未明の富山大空襲、6日の広島原爆、9日の長崎原爆、15日の終戦、さらに14日に発表になった安倍首相の戦後70年談話などです。おかげで、富山大空襲では51万7千発の焼夷弾が落とされ、2737人が亡くなり、当時の市街地の焼失率99.5%は地方都市の中で最大であったことなどを知りました。
そして、母から聞いた、シンガーミシンを背負って焼夷弾の降る中を逃げ回ったという話が甦り、今生きて自分がいるのは、当時24歳の母が富山大空襲を生き延びてくれたからだと思うのでした。
しかし私は、自分の節目の年齢の時に何かをしたとか、何かを意識したということはありません。42歳の厄年には、地元の貴船社に出かけてお祓いを受けましたが、これは自治会から案内があったからで、自発的ではありませんでした。60歳の還暦にも何もしませんでした。普段から自分の年齢を意識することは少なく、それが節目の歳であってもほとんど意識しない性分のようですが、前述のように、会社の創立や終戦というような出来事は、かなり強く意識してきたと言えます。
出来事といえば、結婚も人生における大きな出来事です。でも、結婚25年目の銀婚式は、「銀婚式っていつかな?」と思ったときには過ぎてしまっていました。30年目は、この原稿を書くために調べたところ真珠婚式というそうですが、これも意識してはいませんでした。しかしなぜか35年目だった一昨年は「何かしよう」と思い、結婚記念日の10月10日に、家族で自宅近くのイタリアンレストランで食事をすることにしました。しかしこのレストランにはたびたび家族で出かけているので、私なりのパフォーマンスをしてみようと、妻には内緒で事前にレストランに35本の真紅の薔薇を届けておき、デザートが出される頃を見計らってオーナーシェフの奥さんに薔薇の花束を持って来てもらい、妻に「これまで35年間ありがとう」(この言葉通りであったかどうかは定かではありませんが)と言って渡しました。結婚してからの35年の歳月の重さがそうさせたのだと思います。
私が節目の年を、自分の年齢より、私と関わってきた人たちが体験し、関わってきた人たちと共有した出来事を通して意識するのは、もともと人が好きだからなのだと思います。それが創業75周年そして戦後70年の今年、そして一昨年の結婚35年目に節目を感じることになったと思うのです。さらには、この節目の年を未来へのステップにしたいという潜在意識もあるのだと思います。
これからは今年を起点に、私自身も会社も5年ごとにステップアップしていきたいと思っています。25年後の2040年がとても楽しみです。
私はこれまで悩みごとにぶつかっても、どんなことでも何とか解決してきましたが、この数年間悩みの種になっているのに未解決のままなのが、ひどく背中が曲がっていることです。
色んな機会に、「林さん、どうしたが(どうしたのですか)?年寄りみたいに背中曲げて」と言われるようになったのは、60歳を過ぎたくらいからだったでしょうか。尊敬する人や友人から言われれば、素直に聞き入れて「ありがとうございます。みっともないですね。腹筋を鍛えなければいけないのですが」などと応えますが、そんなに好きではない、あるいは嫌な印象を持っている人に言われると、ムッとして「仕方ないが(仕方が無いのです)。背骨がガタガタ(実際、レントゲン写真を見て、整形外科医はガタガタだと言います)ながだから(なのですから)」とか、「脊柱管狭窄症の手術をしたからね」などと不機嫌に応えてしまいます。
街を歩いていて、ショーウインドウに映る、頭を下げ背中を丸めて歩いている自分の姿に、我ながら「これはひどい」と思いピンとするのですが、次のガラスドアには元に戻った姿が映っています。
私のことが掲載されている表彰式や課外授業の新聞記事では、自分の姿勢の悪さに恥ずかしくなってしまい、自己嫌悪に陥ります。
姿勢の悪さが気になりだしてから、色んなグッズを買いました。背中サ
ポーターなるものは2種類買いましたが、夏には着ける気分にならないこともあって、2つとも長続きしませんでした。また、椅子の座面に置いてそれに座れば自然に姿勢がよくなるというオレンジ色の硬めのクッションも買いましたが、座り心地が悪くてこれも挫折しました。
根本的に姿勢をよくするには、腹筋や背筋を鍛えることだろうと思って、入浴時に両脚を伸ばしたまま湯船から持ち上げて腹筋運動まがいのことをしたこともありますが、2週間くらいでいつの間にかやらなくなりました。
今年は朝日建設の創業75周年ということで、「あと25年で創業100周年、その時私は93歳。祝賀パーティーに出席して、立派なスピーチをするんだ」と自分自身に言い聞かせ、外でも公言しているのに、こんなに悪い姿勢では健康にも影響して、「93歳で元気一杯」が怪しくなると思うようになってきました。そんな時に再会したのが、富山市の初代介護保険課長を務め、朝日ケアも何かとお世話になった濱谷京子さんです。
7月8日、富山国際会議場で行われた会議が終わった時、濱谷さんが近づいてこられ、「今こんなことをしています」と差し出された名刺には富山市角川介護予防センター館長とありました。このセンターが2011年にオープンした当時、ロータリークラブの職場訪問で見学したことはありましたが、行こうという気にはなりませんでした。それは、結婚した頃、ボル
ファートとやまの水泳教室に入会したものの、妻の言葉を借りれば息も絶え絶えに疲れ果てて帰宅し、2、3回で行かなくなったことや、40歳代の頃、市民プラザにできたスポーツクラブに入会した時も、いつの間にか足が遠のいてしまった経験からです。しかし、知り合いの濱谷さんが館長であり熱心に見学を勧められるので、何とか姿勢を良くしたいという思いから、2日後の7月10日の昼、会社を3時間ほど休み、水着、バスタオル、ビーチサンダルと運動靴を持ってセンターに出かけました。体力測定と医者の診断を受けた後、多機能温泉プールへと出かけました。プールには水着に着替えた濱谷館長が待っていて、私と一緒にプールを歩き、一つひとつの機能を試しながら説明してくださいました。途中、10年ぶりくらいに会ったMさんが腰にジェット水流を当てながら、「社長、いいのー(イイネ)。館長が付きっ切りなんて無いがやぜ(無いですよ)。」と言いました。Mさんはオープン以来毎日来ていると言い、とても私より年上の72歳には見えません。
サウナに入り、シャワーを浴び、お風呂にも入り、着替えてからロビーで濱谷さんに迎えられました。濱谷さんに言われるままに入会手続き書類に記入し、7月10日からの日割りの会費5,040円、8月分の会費7,200円、そして、会員証交付手数料510円の合計12,750円を支払って、晴れて角川温泉運動会員になりました。
これまで健康のため、そして、みっともない姿勢を治そうと色んなことをやってみましたが、長続きしたためしがありませんでした。しかし今度は、「93歳で、背筋を伸ばして元気一杯」というビジュアルな目標があります。今度こそ続けたいと思っていますが、12日(日)と14日(火)に出かけたものの、仕事がつまっていてその後6日間行っておらず、今日21日(火)も懇親会があるので行けません。
しかし、懇親会の無い日は、午後5時を過ぎても9時、10時までだらだらと仕事をしていることが普通の私ですが、このセンターの営業時間が午後9時までなので、午後7時までに仕事を切り上げて出かければちょうどよい温泉運動が出来ると思います。会社と自宅の間の良い気分転換の時間にもなることでしょう。
1年後に、「こんなに姿勢が良くなりました」というコラムが書けたらよいと思いながら、これにて今月のコラムを終了します。