私は、今年2015年は朝日建設創業75周年の年だと、昨年から事あるごとに社内でも社外でも話していますが、きっかけは昨年6月に金沢で開催されたタナベ経営の「ファーストコールカンパニーフォーラム 2014」への参加でした。このフォーラムのタイトルが「ファーストコールカンパニーへ挑む〜100年先も一番に選ばれる会社を創る〜」で、「100年先」という言葉が、日本には100年以上続いている長寿企業が2万6千社あるという帝国データバンクの調査数字を思い出させ、そこから当社の創業は1940年(昭和15年)だから100周年は2040年、それなら来年2015年は創業75周年なのだと急に強く意識させられたのです。
そんな思いから、今年の5月15日(金)16日(土)に、通常の業務を休んで社員全員参加で行った「目標管理と人事考課の効果的な進め方」研修会も、当社の創業75周年記念研修会と自分で勝手に名付けてひとり悦にいっていました。
創業75周年が気になりだしたら、今年は私が朝日建設に入社して40年だということにも気付きました。そして、この間に行った周年行事を思い出してみました。
1990年の創業50周年には、記念事業として、当時の社長であった父の反対を押し切ってレモンイエローの表紙の50年記念誌を発刊(1991年)し、八尾町桐谷に研修所兼保養所「アサヒツインドームズ」を建てました(1993年竣工)。60周年には会社のホームページを作成しましたが、この年に記憶に残る事業は特に何もしなかったことから、後付で60周年記念事業はホームページ作成だったと言っています。5年前の創業70周年には、10月23日、当社の社員とアサヒ会会員が一緒に、富山電気ビルで「創業70周年記念 感謝の集い」を楽しみました。役員はタキシード姿で入場者を出迎え、照明を落とした会場で、70年間の出来事やパーティーに参加している社員の入社時の写真などをまとめたDVDを上映した後、スタンダードジャズ「朝日のようにさわやかに」の生演奏が流れる中、暗いステージにスポットライトが当たり、その光の中で私が開会の挨拶をしたというお洒落な演出が思い出されます。また、90歳になっていた会長である父が出席してくれたことも、良い思い出です。
さて、今年は戦後70年の節目の年ということで、7月頃から新聞紙上では、例年より多くの第二次世界大戦の関連記事が掲載されていました。8月2日未明の富山大空襲、6日の広島原爆、9日の長崎原爆、15日の終戦、さらに14日に発表になった安倍首相の戦後70年談話などです。おかげで、富山大空襲では51万7千発の焼夷弾が落とされ、2737人が亡くなり、当時の市街地の焼失率99.5%は地方都市の中で最大であったことなどを知りました。
そして、母から聞いた、シンガーミシンを背負って焼夷弾の降る中を逃げ回ったという話が甦り、今生きて自分がいるのは、当時24歳の母が富山大空襲を生き延びてくれたからだと思うのでした。
しかし私は、自分の節目の年齢の時に何かをしたとか、何かを意識したということはありません。42歳の厄年には、地元の貴船社に出かけてお祓いを受けましたが、これは自治会から案内があったからで、自発的ではありませんでした。60歳の還暦にも何もしませんでした。普段から自分の年齢を意識することは少なく、それが節目の歳であってもほとんど意識しない性分のようですが、前述のように、会社の創立や終戦というような出来事は、かなり強く意識してきたと言えます。
出来事といえば、結婚も人生における大きな出来事です。でも、結婚25年目の銀婚式は、「銀婚式っていつかな?」と思ったときには過ぎてしまっていました。30年目は、この原稿を書くために調べたところ真珠婚式というそうですが、これも意識してはいませんでした。しかしなぜか35年目だった一昨年は「何かしよう」と思い、結婚記念日の10月10日に、家族で自宅近くのイタリアンレストランで食事をすることにしました。しかしこのレストランにはたびたび家族で出かけているので、私なりのパフォーマンスをしてみようと、妻には内緒で事前にレストランに35本の真紅の薔薇を届けておき、デザートが出される頃を見計らってオーナーシェフの奥さんに薔薇の花束を持って来てもらい、妻に「これまで35年間ありがとう」(この言葉通りであったかどうかは定かではありませんが)と言って渡しました。結婚してからの35年の歳月の重さがそうさせたのだと思います。
私が節目の年を、自分の年齢より、私と関わってきた人たちが体験し、関わってきた人たちと共有した出来事を通して意識するのは、もともと人が好きだからなのだと思います。それが創業75周年そして戦後70年の今年、そして一昨年の結婚35年目に節目を感じることになったと思うのです。さらには、この節目の年を未来へのステップにしたいという潜在意識もあるのだと思います。
これからは今年を起点に、私自身も会社も5年ごとにステップアップしていきたいと思っています。25年後の2040年がとても楽しみです。
私はこれまで悩みごとにぶつかっても、どんなことでも何とか解決してきましたが、この数年間悩みの種になっているのに未解決のままなのが、ひどく背中が曲がっていることです。
色んな機会に、「林さん、どうしたが(どうしたのですか)?年寄りみたいに背中曲げて」と言われるようになったのは、60歳を過ぎたくらいからだったでしょうか。尊敬する人や友人から言われれば、素直に聞き入れて「ありがとうございます。みっともないですね。腹筋を鍛えなければいけないのですが」などと応えますが、そんなに好きではない、あるいは嫌な印象を持っている人に言われると、ムッとして「仕方ないが(仕方が無いのです)。背骨がガタガタ(実際、レントゲン写真を見て、整形外科医はガタガタだと言います)ながだから(なのですから)」とか、「脊柱管狭窄症の手術をしたからね」などと不機嫌に応えてしまいます。
街を歩いていて、ショーウインドウに映る、頭を下げ背中を丸めて歩いている自分の姿に、我ながら「これはひどい」と思いピンとするのですが、次のガラスドアには元に戻った姿が映っています。
私のことが掲載されている表彰式や課外授業の新聞記事では、自分の姿勢の悪さに恥ずかしくなってしまい、自己嫌悪に陥ります。
姿勢の悪さが気になりだしてから、色んなグッズを買いました。背中サ
ポーターなるものは2種類買いましたが、夏には着ける気分にならないこともあって、2つとも長続きしませんでした。また、椅子の座面に置いてそれに座れば自然に姿勢がよくなるというオレンジ色の硬めのクッションも買いましたが、座り心地が悪くてこれも挫折しました。
根本的に姿勢をよくするには、腹筋や背筋を鍛えることだろうと思って、入浴時に両脚を伸ばしたまま湯船から持ち上げて腹筋運動まがいのことをしたこともありますが、2週間くらいでいつの間にかやらなくなりました。
今年は朝日建設の創業75周年ということで、「あと25年で創業100周年、その時私は93歳。祝賀パーティーに出席して、立派なスピーチをするんだ」と自分自身に言い聞かせ、外でも公言しているのに、こんなに悪い姿勢では健康にも影響して、「93歳で元気一杯」が怪しくなると思うようになってきました。そんな時に再会したのが、富山市の初代介護保険課長を務め、朝日ケアも何かとお世話になった濱谷京子さんです。
7月8日、富山国際会議場で行われた会議が終わった時、濱谷さんが近づいてこられ、「今こんなことをしています」と差し出された名刺には富山市角川介護予防センター館長とありました。このセンターが2011年にオープンした当時、ロータリークラブの職場訪問で見学したことはありましたが、行こうという気にはなりませんでした。それは、結婚した頃、ボル
ファートとやまの水泳教室に入会したものの、妻の言葉を借りれば息も絶え絶えに疲れ果てて帰宅し、2、3回で行かなくなったことや、40歳代の頃、市民プラザにできたスポーツクラブに入会した時も、いつの間にか足が遠のいてしまった経験からです。しかし、知り合いの濱谷さんが館長であり熱心に見学を勧められるので、何とか姿勢を良くしたいという思いから、2日後の7月10日の昼、会社を3時間ほど休み、水着、バスタオル、ビーチサンダルと運動靴を持ってセンターに出かけました。体力測定と医者の診断を受けた後、多機能温泉プールへと出かけました。プールには水着に着替えた濱谷館長が待っていて、私と一緒にプールを歩き、一つひとつの機能を試しながら説明してくださいました。途中、10年ぶりくらいに会ったMさんが腰にジェット水流を当てながら、「社長、いいのー(イイネ)。館長が付きっ切りなんて無いがやぜ(無いですよ)。」と言いました。Mさんはオープン以来毎日来ていると言い、とても私より年上の72歳には見えません。
サウナに入り、シャワーを浴び、お風呂にも入り、着替えてからロビーで濱谷さんに迎えられました。濱谷さんに言われるままに入会手続き書類に記入し、7月10日からの日割りの会費5,040円、8月分の会費7,200円、そして、会員証交付手数料510円の合計12,750円を支払って、晴れて角川温泉運動会員になりました。
これまで健康のため、そして、みっともない姿勢を治そうと色んなことをやってみましたが、長続きしたためしがありませんでした。しかし今度は、「93歳で、背筋を伸ばして元気一杯」というビジュアルな目標があります。今度こそ続けたいと思っていますが、12日(日)と14日(火)に出かけたものの、仕事がつまっていてその後6日間行っておらず、今日21日(火)も懇親会があるので行けません。
しかし、懇親会の無い日は、午後5時を過ぎても9時、10時までだらだらと仕事をしていることが普通の私ですが、このセンターの営業時間が午後9時までなので、午後7時までに仕事を切り上げて出かければちょうどよい温泉運動が出来ると思います。会社と自宅の間の良い気分転換の時間にもなることでしょう。
1年後に、「こんなに姿勢が良くなりました」というコラムが書けたらよいと思いながら、これにて今月のコラムを終了します。
6月19日金曜日午前10時、経営戦略会議の最初の議題であった私の報告を終えると、傍らに置いておいた旅行カバンを手に会社を飛び出し富山駅に向かった。翌日から仙台の宮城県武道館で開催される第64回全国七大学柔道優勝大会(七大学戦)で、母校東北大学の試合を応援するためだ。
私は、昭和40年4月に東北大学経済学部に現役で入学し、4年生の時に留年して昭和45年3月に卒業した。恥ずかしい話だが大学での勉強の思い出がほとんど浮かばない。最近は見ないが、以前は英語の期末試験が翌日なのに、その英語の授業に1度も出席していなく、教科書も開いたことが無く、教科書を読もうとするものの1ページ目を何度も読み返しているばかりで先に進めず、「どうしよう、どうしよう」と焦りがつのる、そこで目が覚め「夢だったのか」と安堵するという悪夢を年に1度は見た。
大学4年生の時、卒業するための単位を1教科わざと残して留年したのは、せっかく大学の経済学部に入ったのに専門の経済学の勉強をしていないと思ったからだったが、留年した年に必死に勉強したという記憶が全く蘇ってこない。それよりも、大学に入学してから始めた柔道の稽古のほうが熱心だった。部員の少なさと寝技での守りの強さで3年生の時から選手として出場していた七大学戦だが、留年して2度目の4年生の時も、北海道大学で行われた第18回七大学戦に選手として出場した。名古屋大学に2対1で勝ったものの東京大学に4対5で敗れたが、私は2試合とも15人の選手の中の三将(大将、副将の前の13番目)として出場し、いずれの試合も寝技で引き分けている。
大学で柔道を始めたのは、入学したものの受験勉強の明け暮れから太っているだけで体力が全く無かったので、せっかく志望大学に入れたのに体力が無くては社会に出てから役に立たないと殊勝にも思ったからだ。運動神経がゼロの自分でも少しは勝つことがあり好きだったのが相撲で、相撲部に入部したいと思ったが部が無かったので柔道部に入った。新入生は30名以上入部したと思う。しかし毎日の稽古や合宿の辛さのため、あるいは大学では柔道より楽しいダンスなどをしたいとの理由で、高校時代にかなりの成績を残した強い同期が次々に辞めていった。卒業まで残った5人(経済学部3人、工学部と理学部各1人)のうち柔道経験者は一人だけで、経済学部の3人が選手として七大学戦に出場した。
当時の東北大学の柔道部は長年低迷していた。私が2年生の昭和41年に部誌作成の担当となり、柔道部の鈴木千賀志部長に原稿を依頼に行ったときに言われた言葉を今でも覚えている。医学部の教授で柔道部の先輩でもある部長は、昭和27年の第1回大会で東北大学が優勝した時のメンバーで大変強い方であったと聞いていた。「七大学の学生は皆同じ条件なのに、第1回大会で優勝して以来毎年下位に喘いでいて十数年間優勝できないとはどういうことか。毎年優勝せよと言うのではない。健康のためなら柔道ではなくラジオ体操をやっていればよい」というようなことを厳しく言われた。しかし初心者で闘争心の弱い私にはただただ怖い先輩であり、鈴木先生の情けなく腹立たしい思いを理解できなかった。
この時から2回目の優勝までには、昭和61年に京都で開催された第35回大会での東北大と京大の両校優勝まで20年の歳月を要したが、翌年も京大との両校優勝を果たし、平成10年についに単独優勝した。その後さらに4回の優勝と5回の準優勝を重ね、昨年は阪大に敗れて連覇を逃し準優勝だった。私の現役時代とは大違いで、東北大学が決勝進出の常連校となって久しいが、今年は初めての地元仙台での優勝を目指していた。
卒業後七大学戦の応援に出かけたのは今回が初めてだった。入学が私より1年後の昭和41年だが卒業は私と同じ昭和45年の柔道部OBのSさんから、仙台郊外の秋保温泉で卒業45周年の同期会を行い翌日七大学戦の応援をするので昭和44年卒の方も参加しませんかというメールが今年に入って早々にあった。卒業後仙台で行われた柔道部関連の集まりに2、3度参加し、平成23年には創部60周年記念祝賀会に参加していたが、七大学戦を応援することは卒業以来なかったので、優勝の可能性が大いにあるという メールに、今年の大会は見たいと、会社を休んで参加することにした。
夜遅くまで楽しく飲み語らった秋保温泉での懇親会(写真1)の翌日、タクシーで宮城県武道館(写真2)に向かった。会場に入り各大学の名前の
入った柔道着をつけた選手たちを目にした途端、学生時代に立ち戻った感がした。戦前の高専柔道の流れを汲む七大学柔道は、講道館柔道と違って立ち技から直接寝技へ引き込むことが認められ、勝敗は1本勝ちだけで優勢勝ちはないというルールである。七大学柔道優勝大会は15人の勝ち抜き戦であり、大学から柔道を始めて寝技で取り役として活躍した名選手は何人もいる。
大会主管校の東北大学の最初の対戦相手はA会場での1回戦、九州大学対北海道大学の敗者だったが、あえてB会場での1回戦、東大対京大の試合を観戦した。東大には田上(たのうえ)(写真3)という3年生の身長187cm、体重121kgの巨漢選手がいて、彼は高校時代に、昨年の全日本選手権において大学生で優勝した王子谷選手より有望と言われた選手だと教えられたからだ。田上は逃げまわる相手を内股で投げ飛ばしたり、投げで崩してから押さえ込んだりと4(?)人抜きした。しかし後半に逆転されて敗れ名大との敗者復活戦となったが、この試合でも数人抜きして東大の勝利に貢献した。しかし、昨年の東大と東北大の試合では、田上を東北大は2人目で止めた(引き分けた)という。
東北大は、北大に敗れて敗者復活戦に回った九大に3人残して危なげなく勝ち(写真4)、続いて名大に勝った東大との試合となった。田上をどう止めるかがこの試合のポイントだったが、内股で2人抜き、3人目が副将田上との対戦となった4年生の小澤(写真5)は、立って寝てよく守り引き分けるかと思ったが、8分間の試合終了間際に投げで崩され押さえ込まれて負けた。しかし、次の三枝(次期主将)(写真6)がよく守りきって勝利を確実にし6人残して圧勝した。理想的な試合運びに思えた。
翌日2日目の準決勝戦、決勝戦も見たいのは山々だったが、このコラムの執筆期限が月曜日の朝ということもあって、富山に帰った。
さて翌日の日曜日、午後から原稿を書き始めたが、結果が気になって仕方が無い。1時半過ぎに今回の同期会の世話人Sさんに電話すると、声をひそめて「今、北大との決勝戦で中堅まで引き分けてきています」とのこと。すぐに電話を切り、大切に保管している部誌のバックナンバーを読み返しながら執筆を続ける。ずいぶん我慢し、ついに4時過ぎに電話したら、Sさんは「今、林さんにかけようとしていたところです。準決勝戦の阪大とは(15人で決着がつかず)代表戦の2人目で勝って、決勝戦では北大に2人残して勝ち、優勝しました。」と言う。私は「おめでとう」と言ってから、目頭が熱くなった。
柔道を離れて45年、部誌を読む限りこの間に寝技も進化しているようで、戦績に書かれている試合経過には、聞いたことのないテクニックや技の名前が書かれていた。しかし、目の前で展開された寝技の攻防は我々のころと同じだった。
5年間の柔道部生活で悔い無く稽古や試合をしたかと問われたら「No」といわざるを得ない私には、ここで東北大勝利の要因を書く資格は無い。ただ初日に観戦した東北大の試合を他校の試合と比べると、安定感が相当勝っていたと思う。即ち、抜き役は確実に1人、2人抜き、分け役はこれまた確実に引き分けていた。また、気迫や気合においても他校を上回っているように感じた。そして、戦っている選手とそれを見守る選手の一体感を強く感じた。恐らく、北大も阪大も同じような選手を擁していたのではないかと思うし、選手をどういう順に並べるかによって勝敗の行方が逆転することもあろうと思う。しかし、勝利の女神は東北大学に微笑んだのだ。
私のこれまでの人生で、柔道に限らず、仕事でも、青年会議所やロータ
リークラブの活動でも、周りからはそれなりに評価されても、やりきったという達成感を感じたことはほとんど無いように思う。今回、後輩たちの素晴らしい戦いぶりを見させてもらい、今後の人生での戦う姿勢や勝利に対する執念、組織としての一体感などを学んだ。これからの会社経営に活かしたい。
後輩たちに感謝し、このコラムを終える。