1月6日の新年式で私が発表した4つの今年度経営指針の4番目が「BCP(Business Continuity Plan 事業継続計画)の策定」であった。そして、1月のこのコラムで「事業継続計画(BCP)の策定」と題して、私が今年度の経営指針にBCPの策定をかかげた経緯を書いた。抜粋して以下に再掲する。
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1月6日の新年式で、私は4つの今年度経営指針を発表した。それは、?社員教育の徹底、?CZ(クッションゼロ)式原価管理の徹底、?CCPMの考え方の全工事での展開、そして?BCPの策定であった。そして、今年初めて掲げた?について、次のように説明した。<中略> 今年度の指針として、?や?の「徹底」とか?の「展開」といった期限の定めが明確でない表現ではなくて、「策定」という期限を切った言葉を使ったのは、どうしても今年中に、それも出来るだけ早くBCPを作り上げなければいけないという思いからであった。そのきっかけは、昨年11月に参加した富山県建設業協会主催の建設業経営講習会「建設会社における災害時事業継続計画・BCP」である。<中略>(この)講習会に参加したのは、開催案内に「一昨年の東日本大震災により、建設業経営のポイントの一つに非常時に対応した経営戦略の構築に重点が置かれています。建設企業の皆様も、地方自治体等と防災協定を締結し災害時に備えていることと思われますが、BCPを策定することで災害時に必要な具体的な行動がより明確になります」とあったことだ。<中略> 講演会の講師は、東日本建設業保証?の関連会社である?建設経営サービスのコンサルタントUさんだった <中略> 非常に分かりやすく、具体的にやるべきこともイメージできた講演会だったが、BCPを作成できそうだと思ったのは、「まとめ」での『当初から完璧な仕組みを整えるのではなく、「継続的改善」を意識し、レベルアップしていく』というUさんの言葉であった。気が楽になった。そして、建設業を営むものの使命は、ふるさと富山を発展させるために構築物を造ったり維持修繕したりするだけでなく、ふるさと富山が大災害に見舞われた時すぐに復旧活動できるようBCPを作成することも大事な使命だと思った。<後略>
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このような経緯で、新年式の後すぐに?建設経営サービスとBCP策定に係るコンサルタント契約を結んだが、提案されたコンサル内容のひとつに、朝日建設?版BCP作成のための社員向けキックオフコンサル(対象社員全員参加)があった。全社員が一堂に会する場所でキック宣言することは難しいので2月の社長朝礼で私がこれを行うこととして、2月3日(月)に八尾オフィス、4日(火)に富山オフィス、そして5日(水)に本社で、前述のコラムを読み上げてから、震度6以上の地震を想定し、まずは社員の安否確認から始まるBCPの策定を宣言した。
2月17日にはUコンサルタントが来社し、午前中に、本社の建物が使用不能となった場合に代替拠点として想定される八尾オフィス、次に北代のあさひホームと富山オフィス、そして本社を視察、午後から当社の役員と各部門の代表者に対して、朝日建設?版BCP策定のためのひな形BCPの説明をした。これを受けて、BCP策定作業部会を立ち上げたが、部会の構成メンバーは部会長がD土木本部副本部長で、総務部からH・F部長、S主任(書記)、富山オフィスからO所長とU主任、八尾オフィスからH・M主任、そしてオブザーバーの私の7名である。3月の本社会議室での会議を皮切りに、翌4月から8月まで富山オフィスと八尾オフィスで交互に毎月1回会議を行った。
会議はD部会長のリーダーシップで、ひな形BCPの順を追いながら災害対策本部の人員構成や指揮命令系統の検討、応急対応メンバーのための資機材や各部署での備蓄品のリストアップと必要数量の検討、そして不足物資の購入など、様々な課題の検討を重ねた。また、災害発生時の最優先課題である社員・家族の安否確認の方法として、セコムの緊急連絡網サービスを導入することに決定し、防災の日の9月1日に、セコムの担当者から作業部会メンバーと各部署からの代表者に、各自の携帯電話のメールアドレスをこのサービスへ設定する作業を指導してもらい、テスト送信し安否などの返信をして運用確認をした。9月中には全社員と家族のメールアドレスのこのサービスへの設定を完了したい。
9月16日には再度Uコンサルタントに来社してもらい、6時間余りかけて当社がこれまでに形作ってきた朝日建設?版BCPのチェック、最新情報の提供などをしてもらった。最終修正作業の後、10月1日付でBCPを発行する予定(写真1)である。
9月15日に「新老人の会」ジャンボリー宮城大会に参加した後、被災地訪問ツアーで名取市の閑上(ゆりあげ)地区に出かけたが、現地ガイドさんの話で、事前の訓練がいかに生死を分けるかを知らされた。石巻市立大川小学校では、校庭に残っていた児童のうちの74人(全校児童108人の7割)と、校内にいた教職員11人のうち10人が亡くなったが、津波が来るまでの50分間、校庭にいた児童と先生は動かず避難しなかったという。一方、他の小学校では、「津波が来たらとにかく逃げろ」と教えられていて、津波が来ると分かるとすぐに、児童は先生の指示を待つことなく避難し、途中で「津波が来るから逃げて!」とお年寄りに声をかけたりしながら逃げたので、亡くなったのは当日学校を休んで家にいた児童ひとりだったというのだ。
大震災は明日にも起こるかもしれない。繰り返しBCPに基づいた訓練を行い、社員の頭と身体に災害時に具体的に自分がとるべき行動を染み込ませることも社長の仕事であると思っている。
射水市大島絵本館主催の「おおしま国際手づくり絵本コンクール2014」において、老人介護事業所あさひホームの利用者の方々が協力して作り一般の部に応募した「すてられ すてられん」が、315点の応募作品の中から見事に金賞を獲得した(写真1)。平成17年から毎年応募し、昨年までの9回で入選4回、入賞4回(銅賞1回、奨励賞3回)で受賞を逃したのは1回だけ。そして10回目の今年が金賞・富山県知事賞。金賞の上は最優秀賞・文部科学大臣賞と優秀賞・井口文秀賞だが、最優秀賞が一般の部から、優秀賞がしかけの部からそれぞれ1作品が選ばれ、金賞には一般の部としかけの部から1作品ずつ選ばれているので、「すてられ すてられん」は一般の部では 第2位ということになる。これを快挙と言わずして何と言おうか。
7月26日に行われた表彰式に(写真2、写真3)、私も指導者のIさんと絵本の制作に携わった利用者さんの代表3人(写真4)と一緒に出席した。今回の作品は各場面の文字が刺繍されているが、会場に向かう車の中で利用者さんのお一人から、「要支援1に介護度が下がり、これまで週2回ホームに来ていたのが土曜日1回だけになったので、自分の分担の仕事を家で夜なべして仕上げた」と聞き、「夜なべ」という懐かしい言葉と共に作品の制作過程を垣間見た思いがした。そこで、このコラムを書くための参考として、指導者のIさんにこれまでの手づくり絵本制作の道のりを書いていただいたので紹介したい。
■あさひホームデイサービスご利用者と絵本づくりの出会い
平成17年、呉羽小学校5年生との交流会で戦争体験を絵本で表現することから始まった。戦争体験はつらく悲しい思い出ばかりで、家族にも体験を話されなかった男性ご利用者が、ご自分の思いを孫に代筆してもらったと原稿用紙を持参された。ご利用者自身で文章を書いたり、スタッフが代筆したりして、体験記「それはまるで悪夢だった」(写真5)が完成。おおしま国際手づくり絵本コンクールに応募し、初応募で入選(写真6)。
■平成18年「だら坊主たろ吉」銅賞
全くオリジナルのストーリーと絵で物語を作ろうという声が上がり、物語の各場面、登場人物など役割分担して絵を描いて頂いた。ご利用者にキーワードを決めてもらい、そのキーワードをバトンして月曜日から金曜日まで文章をつなぎ合わせて作り上げた(写真7)。
■平成19年「五、七、五でひとり言」選外
俳句、短歌のお好きなご利用者がおられたことから、頭の体操の時間帯に多くの俳句を作っていただき、その中からご利用者たち自身が選ばれた句を1冊の絵本にまとめた。絵は、和紙のちぎり絵。
■平成20年「昔むかし呉羽の里で」(写真5)北日本新聞社賞、
平成21年「姉倉比売物語」NHK富山放送局局長賞、
平成22年「おろちやぞぉ」(写真6、写真7)入選
呉羽に伝わる昔話を基にしたオリジナル性のある絵本。「昔むかし呉羽の里で」は、牛ヶ首用水の物語の登場人物善左衛門の末裔に当たる人と偶然お会いし、「私の先祖の話を絵本にしてもらい大変嬉しい。これからも地域のお話を絵本にして欲しい」と喜んでいただいた。
■平成23年「獅子頭のなみだ」入選、
平成24年「こられ こられ」入選
「獅子頭のなみだ」は全ページ和紙ちぎり絵で富山の伝統芸能をテーマにし、「こられ こられ」は色鉛筆画で、郷土料理をテーマにした、全文おばあちゃんとひ孫の会話。
■平成25年「雀の長者」読売新聞北陸支社賞
全ページ和紙で、紙版画。和綴じという手法で制作。「生れて初めて版画するわ」というご利用者さんたちは、刷り上り具合に息を飲みながら制作されていた。
■平成26年「すてられ すてられん」金賞・富山県知事賞(写真8)
昨年10月、李湯社さんから、平成26年度の絵本のテーマを、物を大切にする心、人と人とのつながり、命の大切さの3点に重点を置こうという意見が出された。
11月、ベースになる言葉を決めて文章づくりを開始。他の人から見て不要なもの、どう見ても汚れて捨てるしかないようなものでも、自分にとっては捨て切れないものがある。“もの”は“品物”としての存在だけではなく、かけがえのない思い出として心の中に深く刻み込まれている。捨てようかな?と思いながら捨てられないものを、ご利用者たちが子供のころに遊んでいたお手玉に決定。お手玉の思い出をさかのぼっていくと、お姉さんのカバン、かあさんの防空頭巾、標準服、かあさんの着物と思い出がよみがえってくる。
文章も、詩のような韻を含んだリズミカルなもの、前場面の単語をしりとりのように読み進めていく、の2点を基本にして展開していった。
今年2月、台布、各場面のお手玉、カバンなどの材料を選び縫っていただき、各場面の文字も刺繍していただく(写真9)。
4月、表紙を藍染していただく。男性のご利用者も積極的に参加された。
5月、製本(完成)し、「おおしま国際手づくり絵本コンクール2014」に応募。
今年度の手づくり絵本「すてられ すてられん」は、針と糸を使う細かな作業だったが、利用者の皆さんは、お手玉(写真10)、カバン・・・と大変根気強く縫い進めていかれました。
一場面一場面、熱く語り合いながら文章づくりを完成された方、デイサービス利用の短い時間で小さな着物(写真11)を完成された方、皆さんのパワーに敬意を表し、感謝の気持ちでいっぱいです。
素晴らしい利用者の皆さんと共に絵本づくりを進めていくことは、私たちの誇りであり大きな喜びであると確信しました。
木曜日のご利用者の方から「年老いて介護施設に通っている私たちは、できないことが多いだろうと思われがちだけど、小さな力でも大勢の力を合わせればできることは一杯ある。そして、その力を認められ受賞することもできた。『まだまだ大丈夫、頑張ろう』という心を、あさひホームから発信していきましょう」と、力強い言葉を頂きました。
多くのご利用者の意見を一つにまとめる難しさはありますが、一冊の絵本が完成した時の喜びは格別です。
これからも多くの利用者さんと共に、楽しく絵本づくりをして、利用者さんたちに「絵本づくりっ ちゃ、おもしろいね」と笑顔の花が開くことを願っています。
私の仕事のウエイトは、朝日建設に90%、朝日ケアに10%といったところだが、介護事業には建設業と違った課題が多くあり、毎月の運営会議や経営会議での議論で介護事業経営の難しさを痛感させられている。
しかし、今回の手づくり絵本コンクールでの金賞受賞を機に、Iさんにこれまでの経過をまとめてもらい、こうしてコラムに書き写しながら思ったこと、それは、朝日ケアの経営理念「私達の仕事は、お年寄りに満足してもらうこと。満足を測る物差しのひとつに心からの笑顔がある。この笑顔とは、お年寄りだけではなく、家族も介護スタッフも地域住民も含んだ皆の笑顔である。」が、確かに実践されているということだ。創業者としてこんなに嬉しいことはない。
6月27日、「三方良しの公共事業推進カンファレンス 2014 in 広島」にOさん、Dさんと参加し、翌日、3人で広島平和記念資料館を訪れた。私はこれまで広島を数回訪れているが、この資料館を訪れる機会がなかった。何か忘れ物をしている感じがしていて、一度は訪れるべきだと思っていたので、今回はぜひとも足を運びたかったのだ。
ホテルでの朝食時、ウエイトレスさんに資料館の見学にはどれくらいの時間がかかるかと尋ねたら、30分くらいだとの返事。広島生まれだという20歳過ぎのこのウエイトレスさんに、さらに、何回行ったことがあるかと聞くと、1回だと言う。数回くらいは行っているのではないかと思っていたので、地元の人でもそんなものなのかと拍子抜けした。
小雨の中をホテルから10分ほど歩いて資料館に着き、東館の入り口から50円の入場料を払って入館したのが8時45分。OさんとDさんは、私より早い列車で帰るために10時半頃に退館したが、私は全ての展示資料を見て、パネルの説明文を読んだ。本館の出口に着いたら11時15分に なっていた。資料館から広島駅まで乗ったタクシーの運転手さんは、小学生の頃と大人になってからの2回資料館に行ったが、昔の方が展示してある被爆人形が、皮膚が垂れ下がっているなどで怖かったと話してくれた。ホテルのウエイトレスさんが小学生の頃に見学した時は、展示物が今よりは生々しく、怖くて足早に通り過ぎ、それで30分ほどだったと記憶していたのだろうと想像した。私のように2時間半はかからなくても、30分で見られるような数の資料ではない。
昭和20年8月6日午前8時15分に、人類史上最初の原子爆弾が広島に投下され、爆心地では 約3000〜4000度の熱風、爆風、放射線を受け、ほとんどの人が瞬時にその生命を奪われた。被爆当時は約35万の人がいたが、8月から12月の間の被爆死亡者は14万人と推定されるという。
東館の入り口から入ると、日清・日露戦争から第二次世界大戦、そして原爆投下にいたるまでの歴史的経緯や当時の広島市の状況などが詳しく模型や写真、パネルなどの資料で説明されていた。
南京事件や朝鮮人慰安婦について記述したパネルもあった。東館の2〜3階では核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて紹介されていた。渡り廊下を通って本館に入ると、数多くの遺品や被爆資料、写真が展示されていた。遺品や写真には13歳から15歳くらいの少年、少女の物が多くあったが、説明文には8月6日から2〜3日のうちに皆さん亡くなったと記されていた。亡くなった幼子が愛用していた三輪車(写真1)を焼け跡で見つけ、焼け焦げになったその三輪車を、子どもが寂しくないようにと棺に一緒に入れたというパネルに涙した。
今回の観覧で、戦争体験のない私にも戦争のむごさや悲惨さがひしひしと伝わり、平和な世に生きていることの幸せと、平和な世の中を作り上げ、さらに維持していく努力の必要性を感じた。そのためにも、資料館で買った2冊の写真集、原爆写真「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」(写真2)と写真物語「あの日、広島と長崎で」(写真3)に、時々目を通そうと思っている。
1ヶ月前には、東日本大震災から3年を経ても復興が遅れていると感じざるを得ない東北の被災地を会社の旅行で訪れ、今回、69年前に原爆で壊滅したものの今や人口が120万人ほどもある近代的な都市となり、平和記念資料館の資料や原爆ドーム(写真4)が辛うじて原爆の悲惨さを想像させる広島市を訪れた。一方は自然災害であり、もう一方は人間が起こした戦争だが、現地を訪れ自分の目で災害の爪あとや遺品を見たことで、いずれにおいても多くの尊い命が奪われ、筆舌に尽くしがたい悲しい別れがあったことを実感させられた。そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。 そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。
廃墟の街の復旧・復興を担うのは地元の建設業者であり、その重い使命を自覚して経営に当たらなければいけないが、そのためには何をなすべきかと自問自答しながら、広島を後にした。