再び東北を旅しよう

2014.03.29

3年前の2011年3月11日(金)午後2時46分に東日本大震災が発生した。国難と言えるこの災害を復旧するために当社としても何らかの支援を行おうと、週明けの3月14日(月)に臨時役員会を開いた。まず義援金を北日本新聞社を通じて日本赤十字社に贈ることを決め、昼には50万円を新聞社に届けた。また、前日の日曜日に国土交通省からあった緊急 要請に基づき、救援隊の一員として当社から社員を被災地に派遣することも決め、第一陣としてTさん、さらに第二陣としてSさんが向かってくれた。
 しかし、会社としての行動はこれにとどまり、その後は時間が過ぎるだけであった。被災地に救援物資を運んだり、被災地で炊き出しをしたり、瓦礫の撤去を手伝ったりするなど、もっと直接的な支援をすればよいのだろうけれど、経営を考えると会社としても個人としても出来ないと後ろ向きに思い、一歩を踏み出せないことに恥ずかしさともどかしさを感じていた。
 そんな時、以前聞いたニュースが頭に浮かんだ。それは、東北地方には良い温泉がたくさんあるが、今回の大震災ですっかり客が来なくなった。ぜひそこに行って飲食したり土産を買ったりしてお金を使ってほしい、そして、宴会だけでなく、被災地の様子も見ていってほしい、という内容であった。
 そこで5月13日の経営戦略会議の席で、「今年の経営環境は昨年よりさらに厳しく、12月決算では赤字も予測される。しかし、東北地方に同僚や家族と旅をし、温泉などでお金を 落とし、被災地を自分の目で見てきた社員に対して、会社から家族も含めて経費の補助をしようと思う」と提案したところ反対意見は無く、私の提案に触発されて、止めて久しい会社の慰安旅行を被災地にすればよいのではないかという意見が出た。結果は、私の思いに反して東北旅行を計画する社員も実行した社員も出なかった。それならばと、思い切って慰安旅行をしようと決めた。それが2001年の中国旅行以来10年ぶりとなった7月7日〜8日の慰安旅行であった。
 被災地には災害救援隊であることの腕章・ステッカーを交付されていなければ立ち入れないので、この慰安旅行は“原発問題で観光客激減!!「会津地方」震災支援ツアー”という企画で、福島第一原発事故で 退去を強いられた、福島第2原発がある楢葉町の住民が当初180名避難していた会津若松の芦ノ牧温泉丸峰観光ホテルに宿泊し、近辺の観光をすることにした。
 この旅行には当時の全社員74名の内56名が参加し、避難住民への義援品のTシャツ 200枚、高岡の銘菓“とこなつ”240個、清酒“立山”の1升ビン12本を2台の大型バスに積み込んで出発した。1泊2日の短い旅行であったが、旅行を終えてから書いたこのコラム「フクシマ会津若松に旅して」の終わりに以下のように書いている。
 大内宿の中の一軒で、和紙に書かれた言葉が私の目に飛び込んできた。店主の女性が自ら書いた言葉「笑って過せる時がきっと来る。2011.3.11.14.46」である。来年は宮城県、再来年は岩手県に行こう、そして、笑顔を探そう…と、帰路のバスの中で思った。
 しかし、一昨年も昨年もこの慰安旅行は実現しなかった。でも、震災復興が遅れ、避難生活している人々が26万人を超えているのに、ソチオリンピックや2020年の東京オリンピックの明るい話題に隠れて、あるいは安穏とした日常に埋没して、被災地のことや被災された人のことを忘れがちになっている自分や自分の周りの人々のことを思うとき、実際に被災地に出かけ、自分の足で被災地に立って災害の傷跡を確認することが、この大震災のことを少しでも強く記憶にとどめるために必要だと思った。そこで出来上がったのが5月30日(金)〜6月1日(日)の“貸し切り  バスで行く 東北震災支援2泊3日 岩手県/「陸前高田」と宮城県/「気仙沼」「南三陸町」「松島海岸」「仙台」”である。被災地を訪れるだけではなく、初日のバスの中でボランティアガイドによる現状説明を聞き、2日目の南三陸町では「語り部による学びのプログラム」の受講も盛り込んである。
 政府主催の東日本大震災3周年追悼式で、天皇陛下は「被災した人々の上には、今もさまざまな苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなくこれからを過していかれるよう、長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。」と述べられている。日本国民として、このお言葉をしっかり受け止め、実際の行動に移さなければいけないと強く思う。当社としてのその第一歩が今度の慰安旅行だととらえており、多くの社員の参加を期待している。

散歩拒否

2014.02.26

私は毎朝5時から1時間ほど、愛犬2匹と散歩している。歩数にして4000歩から5000歩。1匹ずつ、最初は息子のクロスケ(4歳)、次に母親のハナ(6歳)と散歩する。
 このクロスケ、いつもは私が玄関の戸を開けると、玄関の軒の下に置いている犬小屋から、伸びをしながら嬉しそうに出てくる。しかし今年になって、犬小屋から出てこないので無理に引っ張り出して何とか門を出ても、ぐずぐずと10メートルほど進むと踵を返して門に戻り、さっさと階段を上って玄関に 向かったり、犬小屋から全く出てこなかったりという散歩拒否事件が起こった。1月20日(月)、22日(水)、23日(木)、27日(月)、2月6日(木)そして2月10日(月)の6回だ。初めての経験である。
 散歩を拒否され何故だろうと考えたら、どうも寒さの厳しい日に散歩を嫌がっているように思われた。インターネットで富山地方気象台を検索し、富山市の1月からの毎日の最低気温を調べた。散歩拒否された日は、1月20日が-2.7℃、22日が0.2℃、23日が-1.0℃、27日が-3.2℃、2月6日がこの冬最低の-4.1℃、そして10日が-2.5℃だった。1月22日以外はマイナスなので、私の推理が当たっているように思ったが、散歩に出かけた日でも、-3℃以下の厳しい日が見つかった。1月10日が-3.2℃、1月13日が-3.1℃、そして2月5日が-3.9℃だったのに、どの日も散歩に出かけウンチも1回している。その他のマイナスの日にも散歩に出かけている。クロスケも人の子ならぬ犬の子、体調が悪い日や散歩の気分にならない日もあるだろう。そんな日に、寒さが体調や気分に上乗せされ散歩拒否をした、これが私の結論である。
 さてこのクロスケ、体重15キロ超と大きく力も強いのだが、おかしな癖がある。今ではさほどでもないが、3歳ころまでは、道路を横断している側溝にかぶせてあるグレーチングの前に来ると尻込みして渡ろうとせず、引っ張ると四足を踏ん張って抵抗した。また、散歩コースに建つ呉羽梨選果場は通り抜けになっていて、行きがけに駐車場側から入ろうとすると、これまた四足を踏ん張って、頑として通ろうとしない。雨の日や雪の日には少しでも濡れずに散歩したいと思うのだが、そうはさせてくれず、建物の外側の道路を通って次のコースに向かうのである。一方ハナは、何のためらいも無く当然のように通り抜けを進んでいく。
 クロスケのおかしな癖は、この癖に極まる。2匹は月曜日から金曜日まで妻に連れられて、自宅のすぐそばの老人介護施設「あさひホーム吉作」に出かけ、ご利用者さんのお相手(?)をしている。ホームの2階はグループホームになっているのだが、2匹で階段を上がって 2階の出入り口につくと、ハナはすぐに廊下を左に曲がってグループホームのフロアに入っていく。しかしクロスケはすぐには廊下に足を踏み出せない。しばらくして意を決し、後ろ 向きになってバック歩きでフロアに入っていく。私はその姿を目撃したことはないのだが、妻が、携帯電話のカメラで撮った動画を見せてくれた時は、笑った、笑った。廊下をバックしながらフロアに入ると、最初のテーブルの下にお尻から入り、バックで進んでテーブルの反対側からお尻が出てくる。そのまま数歩バックで進みキッチンに近いもう一つのテーブルの下にまたお尻から入り込むところが撮影されていた。クロスケは、階段の出入り口から右に進むことも出来ない。数メートル先で私がパソコンに向かっているのを見つけても、やって来られないのだ。ハナは私を見つけると、尻尾を振って近づいてくるというのに。
 ハナとクロスケの違いは、他にもある。ハナは何度もホームから脱走し、何時間も梨畑の中を遊びまわり、ようやく捕獲した時には、草の実を身体中にくっつけたり、梨畑にまかれた肥料に体をねじりつけて臭い匂いをつけたりしている。クロスケはハナと一緒にホームから出て行っても、すぐに戻ってきて、出入り口の扉を開けてくれと要求するそうだ。
 えさの食べ方も違う。我が家の犬の食事は、煮干とビーフジャーキー、そして顆粒のドッグフードの3種混合なのだが、クロスケが一目散にあっと言う間に食べてしまうのに対して、ハナは直ぐには食べ出さず、ドッグフードの下に隠れているビーフジャッキーを抜き出し、エサ入れの皿から離れたところに持っていって食べることがある。好物の牛のあばら骨の時には、穴を掘って埋める。その埋めた骨をクロスケが掘り出して食べてしまったこともあるようだ。
 この冬、凍った道を平気で 進んだのがハナで、凍った道の前で進もうとしなくなるのがクロスケ。滑らないところを見つけて進んだクロスケに引っ張られて、凍った道を長靴の私がスケートしたこともあった。
 犬から人間の話になるが、私の4人の子どもは、親子だから4人それぞれ私に似たり妻に似たりしたところがあり、先日も、長男が自分が忙しいのに 何でも引き受けるところは私そっくりだ、と妻に言われた。反対に、ハナとクロスケが親子でもずいぶん違うことを妻と 話していると我が子の話になり、「〇〇は、誰に似たんだろうね」と、お互いに顔を見合わせることがよくある。その最たるものが、どう考えても私にも妻にも似ていない言動をする大学3年生の末っ子だ。彼が帰省するたびにその服装に驚かさせられる。こんな格好でよく平気で外を歩けるものだと思う。髪の毛の染め方も尋常ではない。 服装や髪の毛の色を話題にすると、「学生時代にしか出来ないから」と言う。口のきき方にあれっと思い、ムッとすることもある。しかし、ハナとクロスケの違いを思えば、それもありかと最近は思う。兄弟も同じ。クロスケの兄弟や姉妹も、生まれたときは見分けが付かなかったのに、成長するにつれ外見や 行動から、クロスケ(黒い)、クマコ(黒っぽくて熊のよう)、オビコ(鼻筋に白い帯)、ヤンタロー(やんちゃ)、ウスコ(毛の色が薄い)と名付けられた。クロスケ以外は、もらわれた先で新しい名前が付いたが、ウスコの子犬の時の噛み癖はカナと名前が変わった今も直っていないと、もらい主から噛まれた傷跡を見せられる。他の子犬たちも、それぞれに新しい名前で個性を発揮していることだろう。
 人間も犬も、親子で、兄弟で違って当たり前。一卵性の双子でも性格は違う。それなのにこの当たり前のことを忘れて腹を立てる私がいるが、これからは「違っていて当たり前、だから面白い」と、余裕で考えられるようになろう。これからの人生が、きっと楽しくなるだろう。クロスケの散歩拒否も、また楽しい。
私が75歳の時にクロスケは12歳。お互いに後期高齢者の年恰好だろうが、その時も毎朝2人元気で、お互いに個性を尊重しながら散歩しようね。

 

事業継続計画(BCP)の策定

2014.01.19

1月6日の新年式で、私は4つの今年度経営指針を発表した。それは、(1)社員教育の徹底、(2)CZ(クッションゼロ)式原価管理の徹底、(3)CCPMの考え方の全工事での展開、そして(4)BCP(Business Continuity Plan事業継続計画)の策定であった。そして、今年初めて掲げた(4)について、次のように説明した。
 BCPとは、企業が大きな火災、テロなどの緊急事態に遭遇した場合、損害を最小限にとどめ、事業の継続や早期復旧を可能とするために、平常時の備えとして、事業継続のための方法、手段などを取り決めておく計画である。他産業のBCPは、主に取引先の要請など、経済的合理性によって、取り組むべきかどうかの基準が判断されることが多いが、建設業のBCPは地域の安全・安心や人命そのものに深くかかわっている。当社は、このことを強く意識し、企業責任としてBCPを策定する。
 今年度の指針として、(1)や(2)の「徹底」とか(3)の「展開」といった期限の定めが明確でない表現ではなくて、「策定」という期限を切った言葉を使ったのは、どうしても今年中に、それも出来るだけ早くBCPを作り上げなければいけないという思いからであった。そのきっかけは、昨年11月に参加した富山県建設業協会主催の建設業経営講習会「建設会社における災害時事業継続計画・BCP」である。
私は、一昨年の7月と8月に、午後半日ずつ3日間にわたっての「BCP事業継続計画作成セミナー」に参加した。BCPという言葉を耳にし始めたので、勉強方々参加しようと思ったのだが、参加者はほとんどがBCP作成の担当者か責任者で、社長の立場の人も建設業者からの参加も私だけだった。
このセミナーでは、BCPを作成するには、「1.事業継続計画の方針」から始まって「2.役員・従業員の安否確認」と続き、「4.災害対策本部を置く拠点」とか、「8.財務上の手当て」、「12.防災に必要な教育と訓練」、「13.点検、見直し、是正処置の実施」など盛り沢山のことを決めかつ実行しなければいけないと知って、気が重くなった。そして、宿題も良い加減になり、セミナー終了後も役員会や経営戦略会議で話題に挙げることもなかった。
 しかし、1年以上経ってから前述の「建設会社に おける災害時事業継続計画・BCP」講習会に参加したのは、開催案内に「一昨年の東日本大震災により、建設業経営のポイントの一つに非常時に対応した 経営戦略の構築に重点が置かれています。建設企業の 皆様も、地方自治体等と防災協定を締結し災害時に 備えていることと思われますが、BCPを策定することで災害時に必要な具体的な行動がより明確になります」とあったことだ。当社は災害協定に従って東日本大震災時に2人、昨年7月に発生した石川県小松市の梯(かけはし)川氾濫危機の時にも4人の社員が出動したが、富山県が大災害に見舞われた時は、災害協定を結んでいても果たして当社から出動できるのだろうかとかねがね思っていたので、何かの参考になりそうに思い参加することにしたのである。この講習会には、BCPを作成するとなるとその時に中心的に働いてもらうことになるであろう出戸土木本部副本部長と林冬子総務部長も 参加させたが、今思えば、良い判断だったと思う。
 また、一昨年の2月に「三方良しの公共事業改革」カンファレンスin仙台に参加し、仙台の建設会社深松組の社長から東日本大震災時の事例発表を聞いたことも、この講習会への参加の動機になっている。事例発表での啓開(けいかい:あまりにひどい被災で道が瓦礫などでふさがってしまったとき、その瓦礫を取り除き最低限度のルートを確保すること)作業の話では、大震災の翌日の3月12日から、残った社員と重機を使って、瓦礫に埋まっている被災者の遺体を傷つけないようにしながら道を復活させ、それがあって自衛隊、警察、消防がその後救助活動できたという話、復旧に当たった社員が、震災直後はある意味興奮状態で作業に当たったが、その後数ヶ月経ってうつ症状が出てきたという話、ひとりの社員が震災の数日後、「社長、明日休ませてください」と言ってきたが、震災で亡くなった息子さんの葬儀を執り行うためであったという話など今でも記憶に残っている。
 昨年11月の講演会の講師は、東日本建設業保証?の関連会社である?建設経営サービスのコンサルタント 植草さんだったが、彼は以前富山県建設業協会が富山県建設業改革推進プランを策定する時、私と一緒に作業に当たった人であった。顔見知りということで、「電気が止まったときに、非常用電源で何日間持ちこたえられますか?」という 質問を「朝日建設さん、どうですか?」と当社に振ってきて、出戸副本部長は八尾オフィスを念頭に「3日間」と答えたが、「本社はダメだね」と私は横でつぶやいた。
 非常に分かりやすく、具体的にやるべきこともイメージできた講演会だったが、BCPを作成できそうだと思ったのは、「まとめ」での『当初から完璧な仕組みを整えるのではなく、「継続的改善」を意識し、レベルアップしていく』という植草さんの言葉であった。気が楽になった。そして、建設業を営むものの使命は、ふるさと富山を発展させるために構築物を造ったり維持修繕したりするだけでなく、ふるさと富山が大災害に見舞われた時すぐに復旧活動できるようBCPを作成することも大事な使命だと思った。
 当社が老人介護事業も営んでいることを知っている植草さんは、「介護事業では、災害が発生した時にどのようにして利用者さんの生命の安全を守り、スタッフやご家族と連絡を取るのかなどを考えれば、BCP作成は非常に重要」と話された。「全くその通りだな。朝日ケアでもBCPを作成しなければいけない!」と思った。1月23日のケア経営会議で説明するので、高田総務部長、高野総務課長、向野介護部長、よろしく。
(1月19日記)