射水市大島絵本館主催の「おおしま国際手づくり絵本コンクール2014」において、老人介護事業所あさひホームの利用者の方々が協力して作り一般の部に応募した「すてられ すてられん」が、315点の応募作品の中から見事に金賞を獲得した(写真1)。平成17年から毎年応募し、昨年までの9回で入選4回、入賞4回(銅賞1回、奨励賞3回)で受賞を逃したのは1回だけ。そして10回目の今年が金賞・富山県知事賞。金賞の上は最優秀賞・文部科学大臣賞と優秀賞・井口文秀賞だが、最優秀賞が一般の部から、優秀賞がしかけの部からそれぞれ1作品が選ばれ、金賞には一般の部としかけの部から1作品ずつ選ばれているので、「すてられ すてられん」は一般の部では 第2位ということになる。これを快挙と言わずして何と言おうか。
7月26日に行われた表彰式に(写真2、写真3)、私も指導者のIさんと絵本の制作に携わった利用者さんの代表3人(写真4)と一緒に出席した。今回の作品は各場面の文字が刺繍されているが、会場に向かう車の中で利用者さんのお一人から、「要支援1に介護度が下がり、これまで週2回ホームに来ていたのが土曜日1回だけになったので、自分の分担の仕事を家で夜なべして仕上げた」と聞き、「夜なべ」という懐かしい言葉と共に作品の制作過程を垣間見た思いがした。そこで、このコラムを書くための参考として、指導者のIさんにこれまでの手づくり絵本制作の道のりを書いていただいたので紹介したい。
■あさひホームデイサービスご利用者と絵本づくりの出会い
平成17年、呉羽小学校5年生との交流会で戦争体験を絵本で表現することから始まった。戦争体験はつらく悲しい思い出ばかりで、家族にも体験を話されなかった男性ご利用者が、ご自分の思いを孫に代筆してもらったと原稿用紙を持参された。ご利用者自身で文章を書いたり、スタッフが代筆したりして、体験記「それはまるで悪夢だった」(写真5)が完成。おおしま国際手づくり絵本コンクールに応募し、初応募で入選(写真6)。
■平成18年「だら坊主たろ吉」銅賞
全くオリジナルのストーリーと絵で物語を作ろうという声が上がり、物語の各場面、登場人物など役割分担して絵を描いて頂いた。ご利用者にキーワードを決めてもらい、そのキーワードをバトンして月曜日から金曜日まで文章をつなぎ合わせて作り上げた(写真7)。
■平成19年「五、七、五でひとり言」選外
俳句、短歌のお好きなご利用者がおられたことから、頭の体操の時間帯に多くの俳句を作っていただき、その中からご利用者たち自身が選ばれた句を1冊の絵本にまとめた。絵は、和紙のちぎり絵。
■平成20年「昔むかし呉羽の里で」(写真5)北日本新聞社賞、
平成21年「姉倉比売物語」NHK富山放送局局長賞、
平成22年「おろちやぞぉ」(写真6、写真7)入選
呉羽に伝わる昔話を基にしたオリジナル性のある絵本。「昔むかし呉羽の里で」は、牛ヶ首用水の物語の登場人物善左衛門の末裔に当たる人と偶然お会いし、「私の先祖の話を絵本にしてもらい大変嬉しい。これからも地域のお話を絵本にして欲しい」と喜んでいただいた。
■平成23年「獅子頭のなみだ」入選、
平成24年「こられ こられ」入選
「獅子頭のなみだ」は全ページ和紙ちぎり絵で富山の伝統芸能をテーマにし、「こられ こられ」は色鉛筆画で、郷土料理をテーマにした、全文おばあちゃんとひ孫の会話。
■平成25年「雀の長者」読売新聞北陸支社賞
全ページ和紙で、紙版画。和綴じという手法で制作。「生れて初めて版画するわ」というご利用者さんたちは、刷り上り具合に息を飲みながら制作されていた。
■平成26年「すてられ すてられん」金賞・富山県知事賞(写真8)
昨年10月、李湯社さんから、平成26年度の絵本のテーマを、物を大切にする心、人と人とのつながり、命の大切さの3点に重点を置こうという意見が出された。
11月、ベースになる言葉を決めて文章づくりを開始。他の人から見て不要なもの、どう見ても汚れて捨てるしかないようなものでも、自分にとっては捨て切れないものがある。“もの”は“品物”としての存在だけではなく、かけがえのない思い出として心の中に深く刻み込まれている。捨てようかな?と思いながら捨てられないものを、ご利用者たちが子供のころに遊んでいたお手玉に決定。お手玉の思い出をさかのぼっていくと、お姉さんのカバン、かあさんの防空頭巾、標準服、かあさんの着物と思い出がよみがえってくる。
文章も、詩のような韻を含んだリズミカルなもの、前場面の単語をしりとりのように読み進めていく、の2点を基本にして展開していった。
今年2月、台布、各場面のお手玉、カバンなどの材料を選び縫っていただき、各場面の文字も刺繍していただく(写真9)。
4月、表紙を藍染していただく。男性のご利用者も積極的に参加された。
5月、製本(完成)し、「おおしま国際手づくり絵本コンクール2014」に応募。
今年度の手づくり絵本「すてられ すてられん」は、針と糸を使う細かな作業だったが、利用者の皆さんは、お手玉(写真10)、カバン・・・と大変根気強く縫い進めていかれました。
一場面一場面、熱く語り合いながら文章づくりを完成された方、デイサービス利用の短い時間で小さな着物(写真11)を完成された方、皆さんのパワーに敬意を表し、感謝の気持ちでいっぱいです。
素晴らしい利用者の皆さんと共に絵本づくりを進めていくことは、私たちの誇りであり大きな喜びであると確信しました。
木曜日のご利用者の方から「年老いて介護施設に通っている私たちは、できないことが多いだろうと思われがちだけど、小さな力でも大勢の力を合わせればできることは一杯ある。そして、その力を認められ受賞することもできた。『まだまだ大丈夫、頑張ろう』という心を、あさひホームから発信していきましょう」と、力強い言葉を頂きました。
多くのご利用者の意見を一つにまとめる難しさはありますが、一冊の絵本が完成した時の喜びは格別です。
これからも多くの利用者さんと共に、楽しく絵本づくりをして、利用者さんたちに「絵本づくりっ ちゃ、おもしろいね」と笑顔の花が開くことを願っています。
私の仕事のウエイトは、朝日建設に90%、朝日ケアに10%といったところだが、介護事業には建設業と違った課題が多くあり、毎月の運営会議や経営会議での議論で介護事業経営の難しさを痛感させられている。
しかし、今回の手づくり絵本コンクールでの金賞受賞を機に、Iさんにこれまでの経過をまとめてもらい、こうしてコラムに書き写しながら思ったこと、それは、朝日ケアの経営理念「私達の仕事は、お年寄りに満足してもらうこと。満足を測る物差しのひとつに心からの笑顔がある。この笑顔とは、お年寄りだけではなく、家族も介護スタッフも地域住民も含んだ皆の笑顔である。」が、確かに実践されているということだ。創業者としてこんなに嬉しいことはない。
6月27日、「三方良しの公共事業推進カンファレンス 2014 in 広島」にOさん、Dさんと参加し、翌日、3人で広島平和記念資料館を訪れた。私はこれまで広島を数回訪れているが、この資料館を訪れる機会がなかった。何か忘れ物をしている感じがしていて、一度は訪れるべきだと思っていたので、今回はぜひとも足を運びたかったのだ。
ホテルでの朝食時、ウエイトレスさんに資料館の見学にはどれくらいの時間がかかるかと尋ねたら、30分くらいだとの返事。広島生まれだという20歳過ぎのこのウエイトレスさんに、さらに、何回行ったことがあるかと聞くと、1回だと言う。数回くらいは行っているのではないかと思っていたので、地元の人でもそんなものなのかと拍子抜けした。
小雨の中をホテルから10分ほど歩いて資料館に着き、東館の入り口から50円の入場料を払って入館したのが8時45分。OさんとDさんは、私より早い列車で帰るために10時半頃に退館したが、私は全ての展示資料を見て、パネルの説明文を読んだ。本館の出口に着いたら11時15分に なっていた。資料館から広島駅まで乗ったタクシーの運転手さんは、小学生の頃と大人になってからの2回資料館に行ったが、昔の方が展示してある被爆人形が、皮膚が垂れ下がっているなどで怖かったと話してくれた。ホテルのウエイトレスさんが小学生の頃に見学した時は、展示物が今よりは生々しく、怖くて足早に通り過ぎ、それで30分ほどだったと記憶していたのだろうと想像した。私のように2時間半はかからなくても、30分で見られるような数の資料ではない。
昭和20年8月6日午前8時15分に、人類史上最初の原子爆弾が広島に投下され、爆心地では 約3000〜4000度の熱風、爆風、放射線を受け、ほとんどの人が瞬時にその生命を奪われた。被爆当時は約35万の人がいたが、8月から12月の間の被爆死亡者は14万人と推定されるという。
東館の入り口から入ると、日清・日露戦争から第二次世界大戦、そして原爆投下にいたるまでの歴史的経緯や当時の広島市の状況などが詳しく模型や写真、パネルなどの資料で説明されていた。
南京事件や朝鮮人慰安婦について記述したパネルもあった。東館の2〜3階では核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて紹介されていた。渡り廊下を通って本館に入ると、数多くの遺品や被爆資料、写真が展示されていた。遺品や写真には13歳から15歳くらいの少年、少女の物が多くあったが、説明文には8月6日から2〜3日のうちに皆さん亡くなったと記されていた。亡くなった幼子が愛用していた三輪車(写真1)を焼け跡で見つけ、焼け焦げになったその三輪車を、子どもが寂しくないようにと棺に一緒に入れたというパネルに涙した。
今回の観覧で、戦争体験のない私にも戦争のむごさや悲惨さがひしひしと伝わり、平和な世に生きていることの幸せと、平和な世の中を作り上げ、さらに維持していく努力の必要性を感じた。そのためにも、資料館で買った2冊の写真集、原爆写真「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」(写真2)と写真物語「あの日、広島と長崎で」(写真3)に、時々目を通そうと思っている。
1ヶ月前には、東日本大震災から3年を経ても復興が遅れていると感じざるを得ない東北の被災地を会社の旅行で訪れ、今回、69年前に原爆で壊滅したものの今や人口が120万人ほどもある近代的な都市となり、平和記念資料館の資料や原爆ドーム(写真4)が辛うじて原爆の悲惨さを想像させる広島市を訪れた。一方は自然災害であり、もう一方は人間が起こした戦争だが、現地を訪れ自分の目で災害の爪あとや遺品を見たことで、いずれにおいても多くの尊い命が奪われ、筆舌に尽くしがたい悲しい別れがあったことを実感させられた。そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。 そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。
廃墟の街の復旧・復興を担うのは地元の建設業者であり、その重い使命を自覚して経営に当たらなければいけないが、そのためには何をなすべきかと自問自答しながら、広島を後にした。
3月のこのコラムは「再び東北を旅しよう」だった。「震災復興が遅れ、避難生活している人々が26万人を超えているのに、ソチオリンピックや2020年の東京オリンピックの明るい話題に隠れて、あるいは安穏とした日常に埋没して、被災地のことや被災された人のことを忘れがちになっている自分や自分の周りの人々のことを思うとき、実際に被災地に出かけ、自分の足で被災地に立って災害の傷跡を確認することが、この大震災のことを少しでも強く記憶にとどめるために必要だ」との思いからであった。
5月30日(金)、富山オフィスと八尾オフィスを午前6時半過ぎにそれぞれ出発した観光バス(写真1)2台で、総勢53人が最初の目的地の宮城県気仙沼市に向かった。
私が乗った2号車は、最初カラオケ大会で、その後は、旅行会社の社長が用意してくれた「3.11東日本大震災激震と大津波の記録」というビデオの上映(写真2)。今回訪れる南三陸町の津波(写真3)や、仙台港の石油コンビナートが燃えさかる様子(写真4)、陸上に打ち上げられた大型漁船(写真5)、「震災から10日目石巻市で80歳の祖母と16歳の孫の2人が奇跡的に救出された(写真6)」という映像に写された救助ヘリコプターなど、発生当時の想像を絶する被災状況を、固唾を飲んで見続けた。
午後4時半に気仙沼魚市場に到着。それぞれのバスに語り部ガイドさん(写真7)が乗り込み、気仙沼市を1時間ほど走りながら、ガイドさんの3.11当日やその後の体験を聞いた。市街地に打ち上げられ、解体か保存かで話題になった大型漁船第18共徳丸(写真8)は、解体され更地になっていた。解体される前は観光客がたくさん訪れていたが、解体後はさっぱり来なくなったとガイドさんが話してくれた。私は、保存していたら大変な観光資源となり、津波の力を実感させてくれる歴史的な遺産になっただろうにと、残念に思った。
3階まで津波が押し寄せた4階建の気仙沼向洋高校(写真9)の前でバスを停めたとき、1号車から鼻をぐすぐすさせて女性の添乗員が降りてきた(写真10)。「私、こんな話に弱いのです」という。女性社員も涙ぐんでいる。1号車の男性の語り部ガイドさんの話にショックを受けたのだった。後で聞いたら、ガイドのMさんは31歳の息子さんを亡くし、Mさんの弟さんは、奥さんと、就職が決まっていた18歳の娘さんを亡くしたとのこと。
カラオケで盛り上がった気仙沼のホテルでの宴会(写真11)の後、私は旅行会社の社長と添乗員と一緒に外に飲みに出かけた。9時半過ぎだったと思うが、復興商店街にあるスナックや寿司屋はもう閉店時間で、紹介された「ぴんぽん」(写真12)という居酒屋に入った。大きな店で、地元の人でたいそう賑わっていた。店のご主人に富山から来たというと、気仙沼港に、今、富山の漁船が入っていると言う。そうか、気仙沼は観光の町ではなくて、森進一の「港町ブルース」に、♪港、宮古、釜石、気仙沼♪と歌われる港町なのだ。またまた、第18共徳丸の解体撤去が惜しまれた。
翌朝、ボランティアガイドさんの案内で気仙沼魚市場(写真13)を見学した。波穏やかな気仙沼湾が一面の火の海になったと知る。次に復興商店街の南町紫市場(写真14)に出かけた。「揚げたてコロッケ屋」に入り、コロッケで生ビールを飲み、カウンターに並べてあった地元の高校生が考案したという「なまり節ラー油」と岩手県一関市の酒屋が造っている焼酎を土産に買った。被災地同士で助け合っているのだという。店を出たところでHさんから、お店のお母さんが「立ち寄って話をしてくださるだけでいいんです。遠いところから、お金と時間を使って来てもらえた。私たちもがんばろうと思えるから、私たちの励みになる」と言われたと聞く。やはり実際に現地に来ないと分からないことがあるだろうという私の思いの、ひとつの証左だと思った。
その後、陸前高田市の「奇跡の一本松」(写真15)を見学。一本松よりも、土地造成のために山を切り崩し、その土砂を運搬するために縦横に走っている巨大なベルトコンベア(写真16)の威容が印象に残った。
そしていよいよ南三陸町へ。さんさん商店街で具沢山の海鮮丼を食べてから、ポータルセンター(写真17)で78歳の語り部ボランティアAさん(写真18)から、「南三陸まなび旅」(写真19)のスライドを使っての自然豊かな南三陸町と大震災の爪あとを説明していただいた。引き続きバスに同乗したAさん(写真20)(1号車は別のボランティアガイドさん)から、3月11日当日のAさんの避難の様子などを伺いながら町内を巡った。結婚式を秋に控えた防災庁舎の職員遠藤未希さん(当時24歳)が何回も無線で避難をするようアナウンスしたおかげで多くの住民が助かったが遠藤さんは亡くなってしまったという、当時何度も報道された悲劇を改めて聞き、骨組みだけ残った庁舎(写真21)を目の当たりにして、遠藤さんのご冥福を祈らずにはおられなかった。そしてAさんが、自宅にたどり着き、胸まで津波の水につかりながら近所の人3人を助けたが、嫁を待っているといってAさんと逃げるのを拒んだ隣のおばあちゃんが亡くなった、あの時無理やり手を引っ張って逃げるのだった、とにかく生き残ることが一番という話に、生きることの意味を考えさせられた。このことが、6月10日に石動中学校で行った課外授業の演題を、それまでの「学ぶこと、働くこと」から「生きること、学ぶこと、働くこと」(写真22)に変えさせた。
2泊目の松島海岸のホテルのロビーでは朝市が開かれていた。気仙沼産のふかひれスープやサンマの蒲焼などを買ったお店のおばさんは、「大震災後はお客さんがたくさん来て、よく買ってもらったが、最近は少なくなって、今朝はお客さん(私)が2人目です」と言う。こんな話も、現地にこなければなかなか分からないことだと思った。このふかひれスープは、仙台の青葉城址(写真23)の土産店でも扱っていたが、宮城県内や、岩手、宮城、福島の3県で助け合っているのだろうと思った。
旅行後、週間スケジュール表で、Mさんは「被災地の見学では涙しました。心苦しかったですが、自分の中で何か変りました。」と書いているし、Hさんは「最近は報道で取り上げられることが少なくなったので、(東北の物を)目にする機会が減ってしまいました。買い物時に東北の物を見かけたら、買うようにしようと思いました。」と書いているが、今回の旅に参加した社員一人ひとりが、それぞれの感慨を抱いたことだろう。今回の旅行の目的は達せられたと思うと同時に、今後も3.11東日本大震災を忘れてはいけないし、何らかの支援活動を続けなければいけないと強く思った。