広島平和記念資料館を訪れて

2014.07.30

6月27日、「三方良しの公共事業推進カンファレンス 2014 in 広島」にOさん、Dさんと参加し、翌日、3人で広島平和記念資料館を訪れた。私はこれまで広島を数回訪れているが、この資料館を訪れる機会がなかった。何か忘れ物をしている感じがしていて、一度は訪れるべきだと思っていたので、今回はぜひとも足を運びたかったのだ。

 ホテルでの朝食時、ウエイトレスさんに資料館の見学にはどれくらいの時間がかかるかと尋ねたら、30分くらいだとの返事。広島生まれだという20歳過ぎのこのウエイトレスさんに、さらに、何回行ったことがあるかと聞くと、1回だと言う。数回くらいは行っているのではないかと思っていたので、地元の人でもそんなものなのかと拍子抜けした。

 小雨の中をホテルから10分ほど歩いて資料館に着き、東館の入り口から50円の入場料を払って入館したのが8時45分。OさんとDさんは、私より早い列車で帰るために10時半頃に退館したが、私は全ての展示資料を見て、パネルの説明文を読んだ。本館の出口に着いたら11時15分に なっていた。資料館から広島駅まで乗ったタクシーの運転手さんは、小学生の頃と大人になってからの2回資料館に行ったが、昔の方が展示してある被爆人形が、皮膚が垂れ下がっているなどで怖かったと話してくれた。ホテルのウエイトレスさんが小学生の頃に見学した時は、展示物が今よりは生々しく、怖くて足早に通り過ぎ、それで30分ほどだったと記憶していたのだろうと想像した。私のように2時間半はかからなくても、30分で見られるような数の資料ではない。

 昭和20年8月6日午前8時15分に、人類史上最初の原子爆弾が広島に投下され、爆心地では 約3000〜4000度の熱風、爆風、放射線を受け、ほとんどの人が瞬時にその生命を奪われた。被爆当時は約35万の人がいたが、8月から12月の間の被爆死亡者は14万人と推定されるという。

 東館の入り口から入ると、日清・日露戦争から第二次世界大戦、そして原爆投下にいたるまでの歴史的経緯や当時の広島市の状況などが詳しく模型や写真、パネルなどの資料で説明されていた。

南京事件や朝鮮人慰安婦について記述したパネルもあった。東館の2〜3階では核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて紹介されていた。渡り廊下を通って本館に入ると、数多くの遺品や被爆資料、写真が展示されていた。遺品や写真には13歳から15歳くらいの少年、少女の物が多くあったが、説明文には8月6日から2〜3日のうちに皆さん亡くなったと記されていた。亡くなった幼子が愛用していた三輪車(写真1)を焼け跡で見つけ、焼け焦げになったその三輪車を、子どもが寂しくないようにと棺に一緒に入れたというパネルに涙した。

 

写真1:焼け焦げた三輪車

今回の観覧で、戦争体験のない私にも戦争のむごさや悲惨さがひしひしと伝わり、平和な世に生きていることの幸せと、平和な世の中を作り上げ、さらに維持していく努力の必要性を感じた。そのためにも、資料館で買った2冊の写真集、原爆写真「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」(写真2)と写真物語「あの日、広島と長崎で」(写真3)に、時々目を通そうと思っている。

 1ヶ月前には、東日本大震災から3年を経ても復興が遅れていると感じざるを得ない東北の被災地を会社の旅行で訪れ、今回、69年前に原爆で壊滅したものの今や人口が120万人ほどもある近代的な都市となり、平和記念資料館の資料や原爆ドーム(写真4)が辛うじて原爆の悲惨さを想像させる広島市を訪れた。一方は自然災害であり、もう一方は人間が起こした戦争だが、現地を訪れ自分の目で災害の爪あとや遺品を見たことで、いずれにおいても多くの尊い命が奪われ、筆舌に尽くしがたい悲しい別れがあったことを実感させられた。そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。 そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。

 廃墟の街の復旧・復興を担うのは地元の建設業者であり、その重い使命を自覚して経営に当たらなければいけないが、そのためには何をなすべきかと自問自答しながら、広島を後にした。

 

写真2:「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」
写真3:「あの日、広島と長崎で」
写真4:原爆ドーム

”東北地方を旅しよう!” 報告

2014.06.29

3月のこのコラムは「再び東北を旅しよう」だった。「震災復興が遅れ、避難生活している人々が26万人を超えているのに、ソチオリンピックや2020年の東京オリンピックの明るい話題に隠れて、あるいは安穏とした日常に埋没して、被災地のことや被災された人のことを忘れがちになっている自分や自分の周りの人々のことを思うとき、実際に被災地に出かけ、自分の足で被災地に立って災害の傷跡を確認することが、この大震災のことを少しでも強く記憶にとどめるために必要だ」との思いからであった。

バスでの様子(写真1)
ビデオ(写真2)

5月30日(金)、富山オフィスと八尾オフィスを午前6時半過ぎにそれぞれ出発した観光バス(写真1)2台で、総勢53人が最初の目的地の宮城県気仙沼市に向かった。
私が乗った2号車は、最初カラオケ大会で、その後は、旅行会社の社長が用意してくれた「3.11東日本大震災激震と大津波の記録」というビデオの上映(写真2)。今回訪れる南三陸町の津波(写真3)や、仙台港の石油コンビナートが燃えさかる様子(写真4)、陸上に打ち上げられた大型漁船(写真5)、「震災から10日目石巻市で80歳の祖母と16歳の孫の2人が奇跡的に救出された(写真6)」という映像に写された救助ヘリコプターなど、発生当時の想像を絶する被災状況を、固唾を飲んで見続けた。

南三陸町の津波(写真3)
仙台港(写真4)
大型漁船(写真5)
奇跡的な救出(写真6)

 

午後4時半に気仙沼魚市場に到着。それぞれのバスに語り部ガイドさん(写真7)が乗り込み、気仙沼市を1時間ほど走りながら、ガイドさんの3.11当日やその後の体験を聞いた。市街地に打ち上げられ、解体か保存かで話題になった大型漁船第18共徳丸(写真8)は、解体され更地になっていた。解体される前は観光客がたくさん訪れていたが、解体後はさっぱり来なくなったとガイドさんが話してくれた。私は、保存していたら大変な観光資源となり、津波の力を実感させてくれる歴史的な遺産になっただろうにと、残念に思った。

気仙沼のガイドさん(写真7)
第18共徳丸その1(写真8)
第18共徳丸その2(写真8)

3階まで津波が押し寄せた4階建の気仙沼向洋高校(写真9)の前でバスを停めたとき、1号車から鼻をぐすぐすさせて女性の添乗員が降りてきた(写真10)。「私、こんな話に弱いのです」という。女性社員も涙ぐんでいる。1号車の男性の語り部ガイドさんの話にショックを受けたのだった。後で聞いたら、ガイドのMさんは31歳の息子さんを亡くし、Mさんの弟さんは、奥さんと、就職が決まっていた18歳の娘さんを亡くしたとのこと。

気仙沼向洋高校(写真9)
1号車(写真10)

 

カラオケで盛り上がった気仙沼のホテルでの宴会(写真11)の後、私は旅行会社の社長と添乗員と一緒に外に飲みに出かけた。9時半過ぎだったと思うが、復興商店街にあるスナックや寿司屋はもう閉店時間で、紹介された「ぴんぽん」(写真12)という居酒屋に入った。大きな店で、地元の人でたいそう賑わっていた。店のご主人に富山から来たというと、気仙沼港に、今、富山の漁船が入っていると言う。そうか、気仙沼は観光の町ではなくて、森進一の「港町ブルース」に、♪港、宮古、釜石、気仙沼♪と歌われる港町なのだ。またまた、第18共徳丸の解体撤去が惜しまれた。

宴会の様子その1(写真11)
宴会の様子その2(写真11)
ぴんぽん(昼間)(写真12)

翌朝、ボランティアガイドさんの案内で気仙沼魚市場(写真13)を見学した。波穏やかな気仙沼湾が一面の火の海になったと知る。次に復興商店街の南町紫市場(写真14)に出かけた。「揚げたてコロッケ屋」に入り、コロッケで生ビールを飲み、カウンターに並べてあった地元の高校生が考案したという「なまり節ラー油」と岩手県一関市の酒屋が造っている焼酎を土産に買った。被災地同士で助け合っているのだという。店を出たところでHさんから、お店のお母さんが「立ち寄って話をしてくださるだけでいいんです。遠いところから、お金と時間を使って来てもらえた。私たちもがんばろうと思えるから、私たちの励みになる」と言われたと聞く。やはり実際に現地に来ないと分からないことがあるだろうという私の思いの、ひとつの証左だと思った。

気仙沼魚市場(写真13)
気仙沼魚市場(写真14)

その後、陸前高田市の「奇跡の一本松」(写真15)を見学。一本松よりも、土地造成のために山を切り崩し、その土砂を運搬するために縦横に走っている巨大なベルトコンベア(写真16)の威容が印象に残った。
 そしていよいよ南三陸町へ。さんさん商店街で具沢山の海鮮丼を食べてから、ポータルセンター(写真17)で78歳の語り部ボランティアAさん(写真18)から、「南三陸まなび旅」(写真19)のスライドを使っての自然豊かな南三陸町と大震災の爪あとを説明していただいた。引き続きバスに同乗したAさん(写真20)(1号車は別のボランティアガイドさん)から、3月11日当日のAさんの避難の様子などを伺いながら町内を巡った。結婚式を秋に控えた防災庁舎の職員遠藤未希さん(当時24歳)が何回も無線で避難をするようアナウンスしたおかげで多くの住民が助かったが遠藤さんは亡くなってしまったという、当時何度も報道された悲劇を改めて聞き、骨組みだけ残った庁舎(写真21)を目の当たりにして、遠藤さんのご冥福を祈らずにはおられなかった。そしてAさんが、自宅にたどり着き、胸まで津波の水につかりながら近所の人3人を助けたが、嫁を待っているといってAさんと逃げるのを拒んだ隣のおばあちゃんが亡くなった、あの時無理やり手を引っ張って逃げるのだった、とにかく生き残ることが一番という話に、生きることの意味を考えさせられた。このことが、6月10日に石動中学校で行った課外授業の演題を、それまでの「学ぶこと、働くこと」から「生きること、学ぶこと、働くこと」(写真22)に変えさせた。

奇跡の一本松(写真15)
巨大なベルトコンベア(写真16)
ポータルセンター(写真17)
語り部のAさん(写真18)
スライドを使っての説明(写真19)
バスの中でのAさん(写真20)
防災庁舎(写真21)
生きること、学ぶこと、働くこと(写真22)

2泊目の松島海岸のホテルのロビーでは朝市が開かれていた。気仙沼産のふかひれスープやサンマの蒲焼などを買ったお店のおばさんは、「大震災後はお客さんがたくさん来て、よく買ってもらったが、最近は少なくなって、今朝はお客さん(私)が2人目です」と言う。こんな話も、現地にこなければなかなか分からないことだと思った。このふかひれスープは、仙台の青葉城址(写真23)の土産店でも扱っていたが、宮城県内や、岩手、宮城、福島の3県で助け合っているのだろうと思った。
 旅行後、週間スケジュール表で、Mさんは「被災地の見学では涙しました。心苦しかったですが、自分の中で何か変りました。」と書いているし、Hさんは「最近は報道で取り上げられることが少なくなったので、(東北の物を)目にする機会が減ってしまいました。買い物時に東北の物を見かけたら、買うようにしようと思いました。」と書いているが、今回の旅に参加した社員一人ひとりが、それぞれの感慨を抱いたことだろう。今回の旅行の目的は達せられたと思うと同時に、今後も3.11東日本大震災を忘れてはいけないし、何らかの支援活動を続けなければいけないと強く思った。

青葉城址(写真23)

父の3回忌を終えて

2014.05.30

5月17日(土)に、一昨年の5月24日に亡くなった父の3回忌法要を行った。あっと言う間の2年間だったように思う。そして、父が亡くなった時のことを思い出した。
父は、2005年(平成17年)4月に妻(=私の母親)が入院してからは、私の家と渡り廊下でつながった隣の家に一人で住み、2006年(平成18年)7月に、朝日建設の子会社の(有)朝日ケアの2番目の老人介護事業所「あさひホーム吉作」が家から歩いて3分ほどの場所に開設されてからは、そこのデイサービスを利用するようになった。しかし、毎年毎年歩行がおぼつかなくなってきて、家からホームまで10分以上かかるようになり、2011年(平成23年)の夏前には昼を過ぎてもベッドから起きてこなくなったので、確実に食事をとるために「あさひホーム吉作」のアパートに入所した。
そして翌2012年の4月20日に92歳の誕生日を迎えたが、4月はじめに下の入れ歯を紛失したこともあってか食欲がなくなってきていて、しょっちゅう点滴を打つようになっていた。そこで、何とか口に入れてもらおうと、安野屋にあるレストランの“イカのマリネ”が父の好物だったことを思い出し、そのレストランに“イカのマリネ”を注文し、会社の帰りにもらって父に食べさせたことがあった。3切れほど食べてくれた。また、当社の経理課長を務め、あさひホーム(北代)のホーム長を務めてくれてもいたMさんが、父の食欲が全く無くなってきたことを知り、父が生れ故郷の伊勢の絲印煎餅(いといんせんべい)が大好きだったことをよく覚えていて、三重県に嫁いでいる妹さんに頼んで絲印煎餅を送ってもらい、私と一緒にホームに出かけた。残念ながら1枚も食べてくれなかったが、高校卒業以来ずっと朝日建設で働き、会長さんに育ててもらったといつも口にしていた丸田さんの気持ちが嬉しかった。
5月に入ってからは、私は毎朝会社に行く前に父の様子を見にホームに立ち寄ったが、日に日に生気がなくなってきた。そして、5月19日(土)の正午前、業務推進会議中に妻から携帯電話に電話がかかってきたが、会議中だから終わってから電話すると言って電話を切った。会議を終えて妻の携帯電話に電話したら、救急車の音が聞こえる。そばに救急車が来ているのかと尋ねると、今救急車の中にいて、父を当日の救急指定病院である済生会富山病院に搬送しているところだという。父が朝からお腹が痛い痛いと苦しがり、M介護部長が救急車を呼んで救急病院に行ったほうがよいと判断し、ホームの隣の矢後医院で手続きをしてから病院に向かっているところだった。緊急事態を理解し、仕事の区切りを付けて3時過ぎに病院についた。何人もの急患が運ばれていて父の再検査も1時間ほど待たされたが、検査を終わり担当医師から私と弟が結果を聞かされた。胃から出血していて胃潰瘍か胃がんであろうが、手術をするなら救急指定日で医者がそろっている今日の内にしかできない。しかし、手術せずにこのままにしていても回復する可能性が無いではない。家族で相談し結論を出すようにと言われた。
私は、母が亡くなった時のことを思った。母は2003年(平成15年)4月の「あさひホーム(北代)」開所時からショートステイを利用していて、言葉を発することはほとんど無く、車椅子で、食事も全介助だったが、寝たきりではなかった。その母が2005年(平成17年)4月に、自宅で誤嚥から呼吸も心臓も止まり、救急車で富山大学附属病院に運ばれた。命が危ないと思われたのが、心臓が強くて再び動き出した。しかし、自分では呼吸ができないので喉に入れたチューブから空気を送り、栄養は鼻からチューブで送られ、完全な植物人間になってしまった。
ベッドの横には機械が置かれ、モニターに心拍数のグラフが映し出されていた。夏には富山病院に転院して気管切開し胃ろうを作った。そして年を越して雪のひどい1月10日の夜、85歳の生涯を閉じた。富山病院に駆けつけ母を見て、これでやっと母も楽になれたと思った。
そんな経験をしていたので、済生会富山病院の医師に手術をするかしないかの判断を迫られ、一瞬どうすべきかと迷ったが、すぐに手術はしないとの結論に至った。手術がうまくいったとしても、元のように食欲が戻り、自分で歩けるようになるわけではあるまいし、手術中に亡くなることは無くても、母のようにただ生きているというだけの植物人間になる可能性も大きいだろうと思ったからだ。
病室に移った父は点滴のチューブを嫌がり、しきりに手でチューブをはずそうとするのでミトンをはめることになったが、私に何度もミトンをとってくれと頼む。私は、ミトンを外す振りをして、「難しくて取れない」と嘘を言った。
翌日の日曜日は、私が次年度の財務委員長として出席しなければいけないロータリーの地区協議会が午前中からあり、夕方には他の会合の懇親会があった。懇親会を中座し、午後8時過ぎにようやく父を見舞った。その日の日中に病院から、点滴のチューブを父が手で払って外さないよう、精神安定剤を点滴から注入したいがよろしいかという連絡があり、了承していた。「父は肩で息をしていた」と手帳に書き付けている。
21日の月曜日は、8時前に病院を訪ね30分ほどだけ病室にいてから出社し、業界関係の打合せ、役所との意見交換会、社内会議、そして銀行の講演会に出席した。講演会の後の懇親会を欠席して会社に戻る途中に病院の担当看護師さんから電話があり、病状が厳しいので夜の付き添いをするようにと言われた。弟と打合せし、その日は弟が泊まることになった。
22日(火)は、8時前に病院に行き、弟に夜の様子を聞いた後、10時まで病室にいた。午後は、富山県建設業協会の総会、法人化50周年式典、そしてパーティーと続き、その夜も弟が泊まってくれることになっていたので、酔っていたこともあり、病院には寄らずに帰宅した。
23日(水)、8時前に病院へ。看護師長から、足の指が黒ずんできていて冷たい。尿の出る量が少ないために体がむくんできていると言われる。主治医の回診があり、上の血圧は80。この夜は私が泊まることにしていたので、午後3時に病院に行く。月曜日にも火曜日にも、朝日建設や朝日ケアの社員、職員が何人も見舞いに訪れていたが、当社のOBで車椅子生活している
Fさんが車椅子で病室に現れたのには驚いた。掛け布団の下のやせ細った父の脚を撫でながら、「こんなに細くなってしまって」と涙ぐむ姿に、私もウルッとした。午後6時、上の血圧は68。午後11時20分の上の血圧は75。
24日(木)、午前4時40分の看護師の巡視時に、脈が落ちてきていて心拍数は1分間に30回と弱まっているので、家族に連絡するようにと指示される。確かに、心拍数を測るモニターの数値はどんどん下がってきている。自宅と弟に電話した後、5時5分ころにモニターの数値がゼロに。「心臓が止まった、ついに親父が死んでしまった」と思ったら、またチョットだけ回復したので、家族が到着するまでもつかと思うも、またゼロになりそのまま回復しなくなった。5時29分に主治医が死亡を確認した。
以前、父の代理で父方の伯母の葬儀に伊勢に出かけたとき、久しぶりに会った東京在住の従兄から、「葬式は故人の最後の贈り物と言う。遠くはなれて久しく会っていない親戚や知人に会うことができるから」と言われて、なるほどと思ったが、父の3回忌は、父の最後の日々を思い起こさせてくれ、日記を読み返したり、妻と当時の状況を話し合って確認出来たりした。読者には迷惑かもしれないが、こうして長々とコラムに書き連ね文章で記録に残したことも、故人の贈り物なのかもしれない。そして、父の92年の生涯を想い、合掌。