事業継続計画(BCP)の策定

2014.01.19

1月6日の新年式で、私は4つの今年度経営指針を発表した。それは、(1)社員教育の徹底、(2)CZ(クッションゼロ)式原価管理の徹底、(3)CCPMの考え方の全工事での展開、そして(4)BCP(Business Continuity Plan事業継続計画)の策定であった。そして、今年初めて掲げた(4)について、次のように説明した。
 BCPとは、企業が大きな火災、テロなどの緊急事態に遭遇した場合、損害を最小限にとどめ、事業の継続や早期復旧を可能とするために、平常時の備えとして、事業継続のための方法、手段などを取り決めておく計画である。他産業のBCPは、主に取引先の要請など、経済的合理性によって、取り組むべきかどうかの基準が判断されることが多いが、建設業のBCPは地域の安全・安心や人命そのものに深くかかわっている。当社は、このことを強く意識し、企業責任としてBCPを策定する。
 今年度の指針として、(1)や(2)の「徹底」とか(3)の「展開」といった期限の定めが明確でない表現ではなくて、「策定」という期限を切った言葉を使ったのは、どうしても今年中に、それも出来るだけ早くBCPを作り上げなければいけないという思いからであった。そのきっかけは、昨年11月に参加した富山県建設業協会主催の建設業経営講習会「建設会社における災害時事業継続計画・BCP」である。
私は、一昨年の7月と8月に、午後半日ずつ3日間にわたっての「BCP事業継続計画作成セミナー」に参加した。BCPという言葉を耳にし始めたので、勉強方々参加しようと思ったのだが、参加者はほとんどがBCP作成の担当者か責任者で、社長の立場の人も建設業者からの参加も私だけだった。
このセミナーでは、BCPを作成するには、「1.事業継続計画の方針」から始まって「2.役員・従業員の安否確認」と続き、「4.災害対策本部を置く拠点」とか、「8.財務上の手当て」、「12.防災に必要な教育と訓練」、「13.点検、見直し、是正処置の実施」など盛り沢山のことを決めかつ実行しなければいけないと知って、気が重くなった。そして、宿題も良い加減になり、セミナー終了後も役員会や経営戦略会議で話題に挙げることもなかった。
 しかし、1年以上経ってから前述の「建設会社に おける災害時事業継続計画・BCP」講習会に参加したのは、開催案内に「一昨年の東日本大震災により、建設業経営のポイントの一つに非常時に対応した 経営戦略の構築に重点が置かれています。建設企業の 皆様も、地方自治体等と防災協定を締結し災害時に 備えていることと思われますが、BCPを策定することで災害時に必要な具体的な行動がより明確になります」とあったことだ。当社は災害協定に従って東日本大震災時に2人、昨年7月に発生した石川県小松市の梯(かけはし)川氾濫危機の時にも4人の社員が出動したが、富山県が大災害に見舞われた時は、災害協定を結んでいても果たして当社から出動できるのだろうかとかねがね思っていたので、何かの参考になりそうに思い参加することにしたのである。この講習会には、BCPを作成するとなるとその時に中心的に働いてもらうことになるであろう出戸土木本部副本部長と林冬子総務部長も 参加させたが、今思えば、良い判断だったと思う。
 また、一昨年の2月に「三方良しの公共事業改革」カンファレンスin仙台に参加し、仙台の建設会社深松組の社長から東日本大震災時の事例発表を聞いたことも、この講習会への参加の動機になっている。事例発表での啓開(けいかい:あまりにひどい被災で道が瓦礫などでふさがってしまったとき、その瓦礫を取り除き最低限度のルートを確保すること)作業の話では、大震災の翌日の3月12日から、残った社員と重機を使って、瓦礫に埋まっている被災者の遺体を傷つけないようにしながら道を復活させ、それがあって自衛隊、警察、消防がその後救助活動できたという話、復旧に当たった社員が、震災直後はある意味興奮状態で作業に当たったが、その後数ヶ月経ってうつ症状が出てきたという話、ひとりの社員が震災の数日後、「社長、明日休ませてください」と言ってきたが、震災で亡くなった息子さんの葬儀を執り行うためであったという話など今でも記憶に残っている。
 昨年11月の講演会の講師は、東日本建設業保証?の関連会社である?建設経営サービスのコンサルタント 植草さんだったが、彼は以前富山県建設業協会が富山県建設業改革推進プランを策定する時、私と一緒に作業に当たった人であった。顔見知りということで、「電気が止まったときに、非常用電源で何日間持ちこたえられますか?」という 質問を「朝日建設さん、どうですか?」と当社に振ってきて、出戸副本部長は八尾オフィスを念頭に「3日間」と答えたが、「本社はダメだね」と私は横でつぶやいた。
 非常に分かりやすく、具体的にやるべきこともイメージできた講演会だったが、BCPを作成できそうだと思ったのは、「まとめ」での『当初から完璧な仕組みを整えるのではなく、「継続的改善」を意識し、レベルアップしていく』という植草さんの言葉であった。気が楽になった。そして、建設業を営むものの使命は、ふるさと富山を発展させるために構築物を造ったり維持修繕したりするだけでなく、ふるさと富山が大災害に見舞われた時すぐに復旧活動できるようBCPを作成することも大事な使命だと思った。
 当社が老人介護事業も営んでいることを知っている植草さんは、「介護事業では、災害が発生した時にどのようにして利用者さんの生命の安全を守り、スタッフやご家族と連絡を取るのかなどを考えれば、BCP作成は非常に重要」と話された。「全くその通りだな。朝日ケアでもBCPを作成しなければいけない!」と思った。1月23日のケア経営会議で説明するので、高田総務部長、高野総務課長、向野介護部長、よろしく。
(1月19日記)

座高について

2013.12.16

日経新聞1面に掲載のコラム「春秋」の12月10日の書き出し「あなたの子どもの発育状態を知るために学校で測るデーターが3つある。身長と体重はすぐ思いつく。もう一つが座高である。」に、非常に興味を搔き立てられた。
「座高」という言葉に反応したのは、私は小さい頃から自分の座高が平均より高いこと、胴が長いことにコンプレックスを感じていたからである。
今でも記憶に残っているのが、中学生になるというので制服を買ったときのことである。上着のサイズの方がズボンのサイズよりひとサイズ大きかったのだ。もうひとつ思い出した。大学に入学したばかりの頃、紺のブレザーにグレーのズボンで、我ながらお洒落だと思いながら学校に出かけたところ、同じ柔道部に入っていた学生(同じ経済学部の静岡県出身の学生で、柔道は強かったが途中で退部した)に、ズボンのお尻がブレザーの裾であまり隠れていない私を見て、「格好が悪いな」だったか「脚が短いな」だったか、そのようなことを言われたことである。 12歳と18歳の時のことなのに、シッカリ覚えている。
また、映画館では、私の後ろの席の人がスクリーンを見にくくならないように、背中を丸めて少しでも座高を低くして椅子に座るのが常であったし、今でもそんな傾向がある。
こんな胴長コンプレックスの私は、コラムの中程に、「座高を測り始めたのは昭和12年。戦時体制下である。『胴体が長いと内臓が丈夫で、兵隊に向いていることが分かるから』という理屈だった。」と書かれているのに驚いた。私が子どもだった頃、座高が高いことを気にしていた私に父が、「胴が長いほうが内臓がゆっくり納まるので、体には良いのだ」と話してくれたことを思い出したからだ。その当時は、胴長の父が、何とか私を慰めようと思って自分で作った話だろうと思ったし、それが本当でも、脚は長いほうがよいと思ったものだ。しかしこのコラムで、私への父の説明は、父が17歳の時から学校で座高が測り始められ、その当時「胴体が長いと内臓が丈夫で、兵隊に向いている」と言われていたことが父の頭に残っていての説明だったのだろうと思わされた。そして、胴長でも、母が見立てた洋服やネクタイ、帽子をお洒落に着こなしていた父が久しぶりに思い出された。その父が亡くなり1年7ヶ月経ったが、父が締めていたネクタイの何本かは私が使っている。
このコラムの最後の段落は、「座高の大義名分はもう『机や椅子の高さの調節に活用するため』に変わっている。発育に無関係ならさっさとやめればよかったのに、と思うが、存在理由をひねり出す知恵者がいたのだろう。実際には机や椅子の高さを座高にあわせるきめ細やかな学校はまずないという。無用の惰性かくもしぶとい、と知るばかりである。」である。
来年の1月6日の新年式では、久しぶりに全部門長にも年度方針を発表してもらうことにしているが、各部門長には年度方針を考えるに当たり、自部門に「無用の惰性かくもしぶとい」と思われるような、惰性で行っている仕事が無いかどうか、その仕事の目的は何かを改めてチェックすることからはじめることを、12月21日(土)開催の経営戦略会議で話したいと思った。そして、社員一人ひとりも、惰性で行っている仕事が無いかどうかチェックしていただきたいとも思った。
私のこのコラムの3分の1ほどの長さの「春秋」だが、父のこと思い出させ、仕事のことを考えさせてくれ、そして私の文章が長すぎることを考えさせられた12月10日の「春秋」であった。

 

4回目のバヌアツ共和国訪問

2013.11.23

私が所属している富山みらいロータリークラブの事業として、初めてバヌアツ共和国を訪れたのは2006年12月だった。
1999年5月に、私がクラブ会長としてオーストラリアのシドニー近郊の町にあるケントホーストロータリークラブに姉妹クラブ締結の協議に訪れ、2001年に姉妹クラブ締結をしたが、このケントホーストクラブがバヌアツで行っていて、我がクラブも資金援助したベネ・クリニック(授産施設)建設事業を視察するのが目的だった。
その時は2度と訪れることは無いだろうと思っていたのに、2009年8月に娘たちも連れて2度目の訪問をした。別の場所でのクリニック建設工事に実際に参加し、近所のホグハーバー小学校にパソコンなどを贈るためであった。
バヌアツは何しろ遠い南太平洋の島国であり、もう行かないでおこうと思っていた。しかし、2012年6月に我がクラブの15周年記念式典を行うにあたり、ケントホーストクラブへの参加要請と、それにあわせての3度目のバヌアツ行きが計画された。不参加と決めていたのに、過去2回とも一緒に出かけた 3人に宴席で強く誘われ、出かけてしまった。
これでこそ終わりにしようと思っていたところ、今年11月8日に開催されるケントホーストクラブ創立40周年記念式典参加にあわせて、4度目のバヌアツ行きが計画された。姉妹クラブの道筋をつけた者として40周年式典には出席しようと思ったが、最初にバヌアツに行き、その後オーストラリアに行くA班の日程は、2日(土)富山発、10日(日)午前中の富山着であり、オーストラリアだけに行くB班の日程は、6日(水)に富山を発って11日(月)の夜に富山に着くというものだった。2日と9日が土曜日で4日(月)が振替休日なので、会社を休む日数はA班もB班も4日間と同じ。それならば、2度行ったことのあるブルーマウンテンの観光が入ったB班よりバヌアツの方が費用はかかるけれど良いだろうと思った。こうして、思いもかけなかった4回目のバヌアツ行きとなったのである。
今回のバヌアツ行きの目的は、これまでにバッテリーを設置しプロジェクターやパソコンを贈ったホグハーバーの小学校と今回新たにナタワ小学校に、それぞれソーラーパネルを自らの手で3枚設置し、発電した直流の電気をバッテリーに蓄え、インバーターで交流に変換し、今回も贈呈するパソコンなどを動かすというものだ。また、これまでと同様に、古着のT シャツや半ズボン、ノートや 鉛筆などの文具の他に、クラブ会員の子どもが使わなくなったピアニカも贈ることにした。
今回の訪問での大きな問題は、ソーラーパネルの運搬だった。発泡スチロールでくるんだ6枚のパネルを参加者8人の内の 6人が一枚ずつ機内に持ち込んで、富山空港から羽田空港、成田空港からシドニー空港、シドニー空港からバヌアツの 首都のポートビラ空港、そしてポートビラ空港から目的地のサント島のサント空港まで運ぶという段取りだったが、まず富山空港で1辺の長さが長すぎると言われた。でも上司と協議してもらい、機内持ち込みできた。しかし、成田空港のカンタス航空では、機内のロッカーの余裕がないということで、3枚ずつ2つにして厳重に発泡スチロールで梱包し、機内に持ち込まない手荷物として預けることになった。このパネルは、目的地のサント空港まで、途中で我々が一旦受け取り再度預けるということなく、そのままサント空港に着いた。空港の出口 には、これまでも毎回お世話になっているケントホーストクラブのネイビルさんと、ホグハーバー小学校の校長先生が待っている。ところが、最後の最後に出ようとしたところで引っかかり、英語が得意なバヌアツ4回目の西尾さんが係員に対応した。西尾さんが小学校の校長とやり取りしたメールを校長先生が 事前にバヌアツ共和国の教育省に送って、ソーラーパネルは 寄付するもので商売するものではないということを伝えていた。そのメールのコピーが空港に 送られていることを係員に話したら、それで通れそうになったのだが、上司の女性から待ったがかかったのだ。西尾さんと 今回初参加の青山さんが出口の横の事務所に連れ込まれ、コピーが本物かどうか分からないので教育省に確認する、それで本物だと分かれば明日の朝 取りに来るようにと言われた。しかし、2人が着ていたジャンパーのロータリーマークを目にした彼女が、自分もロータリークラブに入っていたことがあるので、ロータリーの活動であるなら持ち込んでよいと言ってくれた。どうなることかと心配したが、最大の関門を通過でき一同ホッとした。
今回の宿泊は、前回1泊したオイスターアイランドリゾートのホテルで、ここに11月3日 から3泊した。まず翌日の4日に2回目と3回目に訪れているホグハーバー小学校、5日には今回初めてのナタワ小学校で、それぞれ校長室の屋根と図書室の屋根の上に3枚のソーラーパネルを針金を使って固定し、パネルからケーブルを校長室 あるいは図書館の事務室に降ろし、バッテリーとインバーターに接続してパソコンを稼動させた。さらに追加要望で、各校に2個ずつ直流LED電球を取り付け点灯させた。この一連の 作業を汗だくになりながらほとんど一人で行ったのが、私や 西尾さんと同じくバヌアツ4回目の戸田さんである。職業分類が制御盤配電盤製造業で電気 工事が専門とは言え、戸田さんの技術と腕に感服した。西尾 さんは戸田さんと一緒に屋根に上がりパネルの設置を手伝い、青山さんはハシゴを上ってパネルを手渡すなどそれぞれに役割分担して働いたが、情けないかな私は、もっぱらスマホで写真を撮るだけだった。
今回のバヌアツ訪問でもうひとつ印象に残るのが、一緒に行った4人の女性の積極的な行動。2人はロータリーの会員で後の2人は戸田さんの奥さんとその友人だが、ナタワ小学校での地元部族の歓迎ダンスの輪に飛び込んで踊り、夕食会では 民族音楽の演奏に合わせて踊ったり1弦の民俗楽器を弾いたりと、歌やダンスが苦手な私には、驚きとうらやましさの連続だった。彼女たちは、小学校では子どもたちと紙風船で遊び一緒に「結んで開いて」を歌っていたが、そんな時私は、子どもたちに少しでも違った世界を知ってもらいたいと思い、スマホに入っている富山の風景写真や、次男が弾くピアノの動画を見せたりしていた。少しは自分なりの貢献ができたかと思う。
4回目のバヌアツ訪問で、日本とは全く違う環境で全く違う文化と文明を持つ国を、より深く肌で知ることができ、その発展の様子を実感し、そして、ボランティアとは何か、人間の幸せとは何かと今回も また考える時間を持てたことはありがたい。5回目があるかどうか分からないが、私の人生での貴重な体験となっている4回のバヌアツ訪問である。

4回目のバヌアツ共和国訪問