父の晩年と最期

2012.12.01

今年も残すところわずかになったが、私にとって今年一番の出来事は、何と言っても5月24日の父の死である。
 私の母は、当社の子会社である有限会社朝日ケアが平成15年4月に富山市北代に開業した老人介護事業所「あさひホーム」のショートステイを2年間利用していたが、平成17年の4月に誤嚥から富山大学附属病院に入院した。その後富山病院に転院し、翌年1月に85歳で亡くなった。父は、平成16年3月から週2回、母が泊まっている「あさひホーム」のデイサービスの利用を始めた。私も週に1回、車で父を自宅に迎えに行き「あさひホーム」で一緒に食事をしていたが、デイサービスのご利用者に碁の強い男性がおられ、父はその人と真剣な表情で碁を打っていた情景が思い出される。
 母が亡くなった年の平成18年7月に、自宅から歩いて2分もかからない場所に「あさひホーム吉作」が開業してからは、こちらのデイサービスを利用することになった。北代の時と同様、私は週に1回父と「あさひホーム吉作」で昼食をとった。最初の頃は、父は杖をつきながら私と一緒に歩いてホームに出かけていたが、だんだん脚が弱ってきて、ここ2、3年は数歩歩いては休むということを繰り返して10分以上かけてホームにたどり着くようになっていた。夏の暑い日、雨風や雪の日には、わずかな距離だが車で行くということも度々であった。
 夕食は、父が渡り廊下続きの私の家に、ご飯茶碗と湯飲み茶碗、それに好物の松茸昆布と胡桃の佃煮を入れた二皿をお盆にのせ、杖をついたりレンタルの手すりを伝ったりしながらやってきて、私の家族と一緒に夕食をとり、朝食は妻が作って父の家に運んでいた。しかし、一昨年頃から朝11時を過ぎても起きなくなり、朝食もとらないことが多くなったので、昨年の夏から「あさひホーム吉作」のグループホームで暮らすようになった。私は毎週月曜日にホームに出かけ父と一緒に昼食をとっていたが、今年の春先から義歯を上下とも紛失したことも手伝ってか、父の食欲がめっきり衰え、食事を残すことが多くなってきた。あまりにも食べなくどんどん痩せ細ってきたので点滴をするようになり、ゴールデンウイーク後は、朝7時過ぎにホームで父の様子を観察してから出勤するようにした。
 そして5月19日の土曜日、本社で業務推進会議をしていたところ、12時前に妻から携帯に電話があったが、「会議中だから終わってから」と電話を切った。会議を終えて妻に電話したら、救急車の音が聞こえる。「家のそばに救急車が来ているの?」と聞くと、「昼前にホームに行ったら、お父さんがひどくお腹を痛がっていて、往診してもらったお医者さんの判断で、今お父さんと一緒に救急車に乗って済生会富山病院に向かっているところです」とのこと。書類を片付けて3時に病院に着いたら、父は救急処置室に、妻と弟は処置室の横の待合室にいた。担当の外科医から説明を受けると、胃潰瘍で出血していて、手術をして出血を止めるか、そのままにしておいて潰瘍の穴がふさがるかもしれないのを待つかの選択を夕方までにするようにとのこと。手術するならスタッフがそろっている今日しかできないと言われ迷ったが、母が植物人間状態で9ヶ月あまり入院していたことを思うと、父が手術を受けても母と同じような状態になる可能性が大きいように思われ、手術しないことにした。その後父は処置室から一人部屋に移ったが、点滴の管をはずそうとするので両手にグローブをはめさせられた。しきりに「(手袋を)はずしてくれ」と私に頼むのを、何だかんだと言って誤魔化し、はずさずに見守るしかなかった。
 翌日の日曜日、朝から行事が続き、夜のパーティーを途中で抜けてようやく8時過ぎに病院に行った。父は肩で息をしながら眠っていた。月曜日には病院から病室に誰か泊り込むように勧められ、その晩と翌日は弟が泊り込んだ。水曜日の昼、病院の看護師さんから血圧が60に下がったと電話があり、午後2時半頃には、富山市建設業協会の次年度役員会議中に、血圧が測れないので家族を呼んだほうがよいとの電話。弟、妻、3人の子ども達、従兄弟が次々に病室に入って父を見守った。夕方の血圧は68。その晩は私が泊まった。翌朝の看護師さんの巡視で、脈が落ちてきたので家族に連絡するようにと言われる。4時40分だった。すぐに弟や妻に電話し、じっと心電図のモニターを見ていたら、5時5分頃に心拍数がゼロになり、その後チョット持ち直すもまたゼロに戻りそのまま脈が打たなくなってしまった。主治医が病室にやって来て死亡を確認した時刻が5時29分。享年92歳であった。
 私が昭和50年に朝日建設に入って間もなくの頃、父が新年式の年頭挨拶で「強く、明るく、そして、少しは世の中の役に立つように生きてもらいたい」と話したことを記憶している。父を亡くして7ヶ月、新しい年を迎えようとしているこの時期、そして日本が社会、経済、政治、また外交の面でたいへん厳しい状況にある時に、二つの会社の社長として、20年、30年後を予想しながら、旺盛な好奇心とチャレンジ精神を持って、「少しは」ではなく「大いに」世のため人のために働こうと、心を新たにしている。

同期会

2012.11.01

私は今年1月の誕生日で65歳の前期高齢者に仲間入りし、日本年金機構から老齢基礎年金が振り込まれるようになった。
 今年3月に同じ高校の同期生S i君に会った時、彼から「65歳(女性は60歳)になるとJRのジパング倶楽部に入会でき、運賃が3割も割引になる。(僕は)昨年65歳になってすぐ入会した」と聞いて、早速年会費3670円を払い、誕生日から2ヶ月遅れで入会した。出張旅費でずいぶん経費節減に貢献している。
そのS i君と話しているうちに、高校の同期会は8、9年前に行ったきりなので、65歳になったのを区切りに久しぶりに同期会を行おうではないかということになった。そこで、私とS i君のほか男性2人と女性3人合わせて7人の世話人を決め、世話人代表には成り行きで私がなった。そして、同期会の開催日は、11月10日の土曜日、会場をパレブラン高志会館に決めた。
 8月末に男性世話人のS u君と高校の中にある同窓会事務局に出かけ、同期生の宛名シールをもらい、9月初めに女性世話人のM iさんに案内状の文面を考え往復ハガキに印刷することや当日のネームプレートの作成をお願いした。彼女はポスターやパンフレットの企画、デザイン、編集の仕事をしていて、打って付けだった。S u君は当日に向けての会場との打合せ、酒屋のS i君は会場に持ち込みのワインの手配、M a君は出欠状況を見ながらより多くの出席者を募る役目を担当することにしたが、私の役目は、返信ハガキの宛名が世話人代表の私になっているので、出欠の集計をしてM a君に連絡することだけだった。
予定通り9月末に案内状が発送され10月にはいると返信ハガキが届き始めた。しかし私は脊柱管狭窄症の手術のため10月8日から18日まで入院していたので、入院中、妻が毎日届けてくれる返信ハガキを見て、入院前にエクセルで作った集計表に、病室に持ち込んだパソコンで出欠を入力し、手術の翌日の10日からほとんど毎日M a君にメールで集計表を送った。同期生は9クラスで480名を超えていたが、亡くなった方が40数名、住所が不明の方もいて、実際に発送したはがきは380枚ほどであった。返信の期限を10月27日としていたが、10月18日の退院の日で出席者は27名。80名を目標にしていたので心配だったが、声を掛け合った結果、最終的には69名の参加者となった。
 
 入院中の楽しみは、食事と返信ハガキに書かれたメッセージを読むことであった。同期会の開会挨拶でも披露した心に残るメッセージを紹介したい。
・ ウワーイ、ウレシイ、ウレシイ!!もう皆さんにお会いすることはないのかと思ってたので。企画してくださって心からありがとう。杖ついてでも会いに行きます。
・ 富山はあまりにも遠く感じますが、心はキラキラした思い出と共に伊予路より瀬戸内の海を渡り、同じ学び舎で3年間共に過した皆様のもとへおうかがいいたします。(愛媛県松山市の女性)
・ 同窓会へのお誘い、ありがとうございました。体調がもうひとつなので出席できませんが、高2の時、席が林君の近くでした。あなたのお弁当が注目の的で、今でもトンカツ弁当をおいしそうに食べているあなたが思い出せます。いつもおいしそうでした。お元気で。
・ 両親を東京に呼び寄せてからは富山に帰ることはなくなりました。今は富山のニュースを何か聞くたびに、懐かしさに加えて寂しさが心の中でどんどん大きくなる日々です。
・ この案内をいただき、いつの間にか「若きあこがれに瞳はもえて・・・」(注:校歌の出だし)が出てきました。懐かしいですね。震災で床上浸水しましたが、元気にやっています。(宮城県多賀城市の男性)
 前日の9日には、県外からの参加者に「ありがとう」の電話をした。埼玉県上尾市、山梨県北杜市、横浜市、犬山市、名古屋市、奈良県生駒市、神戸市、東京都世田谷区、金沢市、つくば市、千葉県佐倉市、仙台市の方々で、繋がらなかった人には携帯電話にメッセージを送ったりもした。直接話ができた人は、ビックリしながらも喜んでくれたが、私にはほとんどの人の顔が思い出せなかった。
 そして同期会当日となった。5時からの開会であったが、世話人は4時に集合し受付に当たった。受付に次々にやってくる同期生は、誰が誰だかさっぱり分からない。同じクラスだった人さえ分からない。卒業してから47年、卒業以来初めて会ったという人が半数以上だった。
 10のテーブルのそれぞれで話に花が咲き盛り上がっていた。各テーブルを回ると、何人もの同期生から「世話してくれる人がいないとできないこと。林君ありがとう」の感謝の言葉をもらった。たまたま世話人代表と書かれていたからであるが、中には「林君の名前があったので出てきた」という人もいた。皆さんに喜ばれ感謝されて、同期会をやって本当によかったと思った。
 本人が亡くなったと書かれた2通の返信はがきがあった。病気療養中で欠席と記した人が、同期会当日の前に亡くなったとも知った。3人のご冥福を祈ると共に、同じ戦後の時代を過してきた同期生と、3年後の2015年、68歳の時に、卒業後50年の同期会で再び元気で会いたいものだ。

カウラ訪問

2012.10.01

9月20日(写真:1)から27日までの日程で、富山日豪ニュージーランド協会設立30周年記念旅行に参加した。私は当協会が設立された1982年からの会員であり、これまで当協会主催の3度のオーストラリア旅行と1度のニュージーランド旅行のすべてに参加してきた。

(写真:1)成田空港にて


当協会へは、オーストラリアに関心があって入会したわけではなく、富山青年会議所の某先輩から半ば強制的に入会させられた。そんな訳で最初の数年間は協会の行事にはほとんど参加していなかったが、協会の交換留学生の送別会がたまたま会社の近くで行われたので出席したところ、その先輩から「林君、来年オーストラリア建国200年の博覧会に行くぞ」と声をかけられた。こんな機会でもなければオーストラリアに行くこともないだろうと思い参加した。1988年7月、最初のオーストラリア訪問であった。
  この旅行の後、協会の専務理事を務めているその先輩から理事になるように言われ、何人もの理事の内の一人ならよかろうと引き受けた。ところが役員改選の年でもない1991年に、その先輩から今度は自分に代わって専務理事をやるようにという話。ロータリーの地区委員会活動が忙しいという理由だが、その委員会に私も所属していた(引き込まれていた)ので忙しいことは分からないでもなかった。しかし翌年が協会設立10周年に当たり、中部日豪協会の総会を当協会が主催することになっていて気が進まなかったが、結局は引き受けてしまった。
 そして1992年の協会設立10周年記念旅行には専務理事ということで団長として、当時小学5年生だった長女を連れて参加した。メルボルンとシドニーでの当地の豪日協会メンバーとのパーティーでの英語での開会挨拶が印象に残っている。予定通りに笑いを取れたのだ。
 1995年にはやはり小学5年生だった次女と一緒にニュージーランド旅行に参加した。2002年の設立20周年記念旅行には、父と大学3年生になっていた冬子とまたもや小学5年生だった次男の宏建と家族4人で参加した。ダーウィンでのイエロー ウオーター クルーズ(ワニの沼をボートで見学)と、82歳だった父があちこちを元気に観光したことが思い出される。 そして今回の旅行であるが、旅行の最大の目的はシドニーの西方に位置しシドニーからバスで4時間半かかるカウラという小さな町で9月23日(日)に行われる日本人戦没者追悼法要への参列であった。協会に入会したことで、カウラとは第二次世界大戦で捕まった日本人捕虜の収容所(写真:2)があった町であり、集団脱走で殺された日本人兵士の墓を地元の人たちが管理をしていてくださると知ったが、場所も定かではなく日本人があまり行かない所でもあって訪れることはないであろうと思っていた。しかし、今回の旅行の第一目的を戦没者墓地での追悼法要に参加することにしたことでカウラを訪れることができた。

(写真:2)日本人捕虜収容所
(写真:2)日本人捕虜収容所
(写真:2)日本人捕虜収容所
(写真:2)日本人捕虜収容所

 8月下旬に腰痛を再発し旅行から帰って10月に手術することに決まっていたので、バスでの長時間の移動が多い旅行中に同行の参加者に迷惑を掛けないかと心配ではあったが、日本人捕虜が亡くなったカウラでの追悼法要にどうしても参加したい気持ちが強かった。
 オーストラリアに着いた当日の21日にシドニーからカウラに向かい、午後にカウラに造られている日本庭園(写真:3)を散策したが、桜(写真:4)がきれいに咲いていた。そこでは、日本庭園の建設に尽力され、日本を訪れた時には天皇陛下に会われたという元市会議員のドン・キプラーさん(写真:5)にお会いした。また日豪文化交流協会理事長の戸倉勝禮(トクラカツノリ)さん(別添のブログ「カウラについて」と履歴書参照)にもお会いしたが、戸倉さんは「カウラ桜祭り」の提唱者で追悼法要では司会を務めておられた。

(写真:3)日本庭園
(写真:4)桜
(写真:5)
ドン・キプラーさん
(写真:5)
ドン・キプラーさん
(写真:5)
ドン・キプラーさん

 23日9時半からの追悼法要(写真:6)は、最初に日本人捕虜集団脱走事件で亡くなった4人のオーストラリア人兵士が眠る墓地で追悼式(写真:7)が行われ、続いて隣接する日本人墓地で追悼法要が営まれた。この日本人墓地は、集団脱走で亡くなった234人の日本人兵士だけでなく、戦争中にオーストラリア各地で亡くなった日本人の合同墓地(写真:8)である。澄み切った青い空の下、南国の鳥の明るいさえずりが聞こえる中で、岡山県の神社(黒住教)に所属する雅楽奏者による雅楽の演奏(写真:9)と慰霊碑の前での神主さんの祝詞奏上、次に禅宗のお坊さんによる読経が行われた。その後、我々一行と日本からの参列者が慰霊碑の前に進み玉串を奉奠した。追悼式の最後に、我々メンバーは慰霊碑の前(写真:10)で「故郷」と「朧月夜」を歌った。
 追悼法要を通して、この墓地に眠る日本人兵士に限らずアジアの各地で戦死した多くの日本人兵士、そして日本本土への空襲や原爆の投下で亡くなった多くの銃後の人たちの屍(しかばね)の上に戦後日本の繁栄が築かれていったのだと思いが巡った。また、反日感情の強かったオーストラリアにおいて、なぜカウラの日本人墓地がきれいに整備され毎年慰霊祭が行われるようになったのかの経緯を戸倉さんからお聞きしたが、尖閣諸島をめぐっての中国の異常な反日活動を見るにつけ、歴史の事実を正しく学ぶことが平和への道筋だと思った。そして、入院中にカウラの日本庭園の売店で求めた「Blankets on the wire(鉄条網に掛かる毛布)」(スティーブ・ブラード著)を読み、その思いをいっそう強くした。
 「今もなお 一機哀(かな)しく飛び続く 南方沖を26歳のまま」、これは今回ご一緒したご婦人が、知人の弟さんの最期の様子を聞いて作られた和歌であり、バスの中でお聞きした。胸を打たれた。この26歳で戦死した青年の魂が安らかであって欲しい。そのためにも、国の安全について、平和について、日本人はもっともっと関心を持ち、行動しなければいけないと思う。平和ボケしてはいられない。

(写真:6)
追悼法要/共同墓地
(写真:7)追悼式
(写真:8)
合同墓地/南忠男(偽名)
(写真:9)雅楽演奏
(写真:9)雅楽演奏
(写真:10)慰霊碑
(写真:10)慰霊碑
(写真:10)慰霊碑

別添のブログ「カウラについて」

2011年6月12日日曜日

Blog-(20) 12-6-2011. 「カウラについて」 

現在の日本は、大震災と原発事故、不況の最中にあり、日本人のすべてがこの大国難を克服しようと懸命に努力している。しかし、永田町に住む「日本人亜種」は、国会という「井戸の中」で、国民そこのけの「共食い」に没頭している。餌は「国家権力」である。  歴史上、日本は現在と同じような「末世現象」と、それを「国民の叡智」で克服した「国家回天、大再生」を経験している。大化の改新=古代国家の成立、建武 の中興=元寇外圧による国政改変、関が原=幕藩体制(国内統一)、徳川末期、政治機能の老化現象=「黒船来航」で明治維新、昭和20年、軍閥末期、戦争で 疲労困憊した国民を差し置いて、大本営という井戸の中で「陸海軍の選良たち」が共食いを始めた結果、「帝国日本」が惨敗=連合軍進駐で「国家再生」を果た した。すべて当時最大の「国難」が契機であった。 さて現在、戦後66年、永田町の「懲りない面々」により、すでに末期症状を示している「政党政治」の危機、今回の大国難が「日本回天と大再生」の契機になるかどうか ?  次回のブログで所見を述べるが、このブログは、初回以来あまりにも「暗い話題」ばかり述べているから、今回は取って置きの「明るい話題」をシドニーから届けたい。 カウラは、シドニーの西方320キロにある人口一万人余りの田舎町である。しかしこの町には、日本人戦没者墓地、日本庭園、日豪親善の 桜並木道、長倉記念公園、日本人捕虜収容所跡、平和の鐘、そして先日完成した「カウラ平和の像」、等々、最も親日的で日本色が溢れている特異な町である。その理由は、前大戦末期、昭和19年8月5日未明、捕虜収容所にいた1千5百人弱の日本軍捕虜の内、9百名余りの捕虜が暴動を起こしてオーストラリア監視 兵の銃撃に遭い、わずか10分余りの銃撃の結果、日本側、230名余りの死者と4百人余りの負傷者、豪軍側4人の犠牲者を出して終焉した暴動事件であっ た。 ほとんどの捕虜たちは、南太平洋戦線で負傷して連合軍に救助された後、治療を受けてカウラに送られた将兵であった。しかし生き残った彼らの 心中には、戦死した戦友たちへの悔悟と「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓への葛藤があり、それが暴動の契機であった。この事件は、大戦の最中であ り、15万人近い連合軍捕虜が日本軍の手中にあったこともあって、連合国当局は報復を恐れて終戦まで事件発生を内密にした。 第二次大戦勃発当初、オーストラリア軍は独伊枢軸軍との対戦のために欧州戦線に送られていた。しかし対日戦争勃発により欧州から太平洋戦線に戻されて、マッカーサーを総司 令官とする米豪連合軍として3年8ヶ月の対日戦に従事した。その間、豪洲人青年男女60万人近くが、兵役、動員等、何らかの形で対日戦争に参加した。当時の人口が7百万人超であったから、国内の青年男女はすべて動員されたことになる。 豪軍戦闘部隊は、マレー半島とシンガポール守備に当たっていた英連邦軍(16万余人)の傘下に入ったが、シンガポール陥落で1万9千人余りが日本軍の捕虜になった。太平洋戦争期間を通じて、日本軍管轄下にあった豪軍捕虜総数は、約2万2千人余り。その内、捕虜期間中の死亡者総数は7.964人であった。欧州戦線での戦死者総数が9.572人であったのに比べて、対日戦の戦死者総数が17.501名(捕虜中の死亡を含む)であったから、対日戦の激しさが想像できる。 昭和17年末、日本軍はバンコックとラングーンを結ぶ415キロの「泰緬鉄道」の建設を開始した。ビルマからインド侵攻への物資輸送のためであった。マレー、ビルマ、ジャバ、シンガポールから民間人労働者18万人近くが集められ、豪軍捕虜13.004人を含む連合軍捕虜61.811人、日本軍の鉄道連隊1万2千余人が従事した大工事であった。完 成まで1年3ヶ月の間に、豪軍捕虜2.802人を含む連合軍捕虜12.619人が死亡し、民間人労働者の死亡は85.400人余りであった。ほとんどの死因は、熱帯性疫病と栄養失調、それに加えた過酷な重労働にあったとされる。 戦後、日本軍の管理下から解放されて帰国した豪軍将兵が、抑留中の非道な扱いと残虐な日本兵の姿を吹聴したために、オーストラリア国内の「反日感情」は燃え上がった。「名誉ある捕虜」を虐待した日本軍のみならず対戦国「日本全体」を憎悪したのだ。その主因は、「死ぬまで戦うのが軍人である」とする日本兵と、銃弾が尽きるまで戦った将兵は「名誉ある捕虜」になる、と考える白人兵の戦争観の相違が、日本軍の「捕虜蔑視」の潜在意識となり、虐待に繋がったのであろう。 燃え上がる反日感情の中、カウラ出身の将兵たちが故郷に帰還してきた。出征兵士269名、戦死者47名であった。全員、南太平洋諸島で日本軍と死闘を繰り返し、辛うじて生き残った将兵たちであった。その中 には、アルバート・オリバー准尉がおり、学徒動員で軍需工場で働いていたバーバラ・ベネットもいた。共に、後年カウラ市長や市議を務め、日本人戦没者墓地建立や日本庭園建設を通じて、日豪融和に貢献した人たちであった。彼らは、カウラの市民墓地の東側の「農地」に集団埋葬されたまま放置されていた「暴動時の死亡者たち」の存在を知り、「土に還った人間に敵味方は無い・・・」との人道的な見地から埋葬地の清掃を始めた。彼らの行動は、カウラ市民のみならずオーストラリア全国民が冷眼視する中で行われた。やがて彼ら帰還兵たちの崇高な人道的な行為が全国民に理解されるにつれて、オーストラリア人の反日感情の嵐も沈静化していった。 「サンフランシスコ講和条約」締結で、日豪両国も平和を回復して、キャンベラの日本大使館も再開された。戦後初の西春彦大使は、カウラに埋葬されている暴動の犠牲者につき、オーストラリア政府と交渉、大戦中3年8ヶ月間にオーストラリア領土内で死亡した、民間人を含むすべ ての日本人の遺骨をカウラに集めて、昭和39年11月に「日本人戦没者墓地」が建立された。埋葬された日本人慰霊は522柱、その慰霊祭の時、戦後初めて日本国旗が墓地内に掲揚された。 以後今日まで、皇太子殿下時代の今上陛下ご夫妻や皇族を含む数多くの日本人慰霊者がカウラを訪れている。戦後もっとも「反日感情」が激しかった時期に、日本人埋葬地の清掃を始めてくれた帰還将兵たちへの「日本人としての恩義」のため、日本庭園建設には、日豪双方の政府、自治体、民間人たちの多くが協力を惜しまずに支援した。日本庭園の竣工時に、戦没者墓地から日本庭園までの一般道路5キロに「日豪親善の桜並木 道」建設が発議されて実行に移され、九州電力長倉会長の名前を記した「長倉公園」が作られ、日本から「平和の鐘」も寄贈された。世田谷区にある成蹊高校と カウラ・ハイスクールは40年余り前から、直江津高校はラファエル・スクールと姉妹校を提携して毎年留学生を交換している。桜並木道建設開始と共に、毎年「桜祭り」が開催されて、日本文化の紹介と市民交流が繰り返されている。それに加え、今回の「カウラの平和像」の完成である。カウラは、世界でも珍しい「日豪親善の聖地」といえる。 シベリアで父を亡くした小筆は、長年、カウラの「日本人戦没者墓地」の存在を知っており、学生の頃から一度は訪問したいと願っていた場所であった。1979年10月、縁あってシドニー定住が決まった翌年正月、念願のカウラを訪問、当時のバーバラ・ベネット市長の案内で墓参を果たした。よく手入れされた緑の墓地には、4、5才と見られる金髪の幼女が母親と訪れており、小さな草花を墓前に供えている姿に感動した。まさに人生観が変わるほどの思いであった。そして、旱魃最中の日本庭園へ、10年近く続いた旱魃で第一期工事が終わったばかりの日本庭園の樹木は、すべて「枯れ死」寸前であった。そこにドン・キブラー市会議員が現れて市長と庭園救済の資金集めの話を始めた。その話を聞いた小筆は、即座にボランティアーでの支援を申し出て受け入れてもらい、以来今日まで31年間、無償の「カウラ奉仕」を続けている。庭園救済の資金募集、桜並木道建設と桜祭り開催の提案と資金募集、10年ごとに開催される「カウラ暴動慰霊祭」、各種PR活動と「桜祭り」での日本文化紹介、そして6年掛かりで完成させた「カウラ平和の像」、半生近くを通じたカウラへの奉仕活動、すべてカウラ市民が「日本人戦没者墓地」を温かく見守ってくれている事への感謝の気持ちが源泉である。 「平和の像」完成の今、日本庭園入り口に立てる「カウラ観音」像の計画に熱中している。身の丈8メートル余りの「観音像」をユーカリの大木に彫刻して、庭園入り口前の 広場に設置する夢を描いている。彫刻には無縁の小筆ではあったが、6メートルの「平和の像」を完成させた自信がある。何年かかるか、小筆が神に召される以前に完成させられるか、どうかも不明であるが、人生最後の「カウラへの奉仕」として全身全霊を捧げたいと思っている。 推定予算、1万ドル(約 90万円)、日本人有志から浄財を集めて、建設資金にしようかとも思っている。有志の寄金は、些少にかかわらずメールでご一報を・・・、折り返し「振込先」を連絡し、像の背中に「寄金者リスト」を残す予定。豪洲太朗、老いて益々意気軒昂な日々である。 今月20日から来月8日まで訪日する。梅雨の最中の訪日は憂鬱ではあるが、小筆の専門である「中小企業の輸出支援体制」を軌道に乗せるためには、どうしても行かねばならない。日本滞在中の緊急連絡 は、090−3008−7549.まで。kentokura@hotmail.com に「Face Book」を開いたので、時折覗いて「豪洲太朗のホラ」も楽しんで欲しい。http://goushutaro.blogspot.com/ ブログをご通覧下さい。

履歴書

戸倉勝禮(トクラカツノリ)左端の方戸倉勝禮「トクラ・カツノリ」略歴書(Kenneth Katsunori Tokura, MAIEx.)  1939年2月7日、旧満州国海城県鞍山市、満鉄病院にて誕生、その後満州国高級官僚であった父の転勤で、吉林、承徳、新京(現長春市)等で生活、45年8月、ソ連軍の満州侵攻により、北朝鮮鎮南浦に疎開、一年間疎開生活を強いられる。46年11月母の郷里、山口県下松市花岡に引揚げ、53年2月東京に移転。

戸倉勝禮(トクラカツノリ)左端の方

62年中央大学法学部卒業、70年4月香港移転まで日清製油(株)勤務、3年間英国系宣伝会社勤務、香港、バンコック、シンガポールを定期的に巡回営業。73年、香港でカナダヒスイ加工工場を設立後、77年12月まで、バンクーバーに現地法人社長として駐在。その間、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、アフリカ、東南アジア諸国等各地で営業活動、毎年最低5回4ケ月間以上の海外出張に従事。79年10月、子供二人の教育のために、シドニーヘ移転。その後、NSW大学にて [Australian Institute of Export] 主宰のディプロマ・コース(夜間部)で二年間「輸出政策論」を学び、オーストラリア連邦政府総督ニーナン・スティーブンス卿より、「ディプロマ」学位と「M.A.I.Ex」(学会員証書)を授与される。卒業後、豪州企業、英国系免税店上席副社長等を歴任。その間、88年より日豪親善促進のため、「日豪文化交流基金」を主宰、後に「日豪文化交流協会」に組織名変更、姉妹都市締結、各種文化、スポーツ交流、ミス・オーストラリア代表選考会(16年間継続)等を主催。姉妹都市青少年日本派遣事業「グリーンリーブス使節団」は、昨年度まで21年間継続、その間に2千人以上のオーストラリアの高校生、引率者を日本へ引率。「キャンベラ国際マーチングバンド・フェスティバル」は、6年間継続し、最大7ケ国から合計五千人以上の学生を動員。「日豪少年サッカー交流」、「日豪水泳交流」、「日本人学生英語研修」等の事業を手掛けて今日に至る。現在は日本の中高一貫校対象に、NSW大と「高卒前に英会話をマスター」のプログラムを推進中。その間、姉妹都市仲介斡旋提携数は、東京都中央区、宮城県白石市等を含め、12都市、2姉妹校に及ぶ。2000年10月、日豪姉妹都市交流への貢献に関して、オーストラリア姉妹都市協会から顕彰、「感謝状」を授与さる。その他、カウラ市を含む各姉妹都市から各種感謝状多数を授与される。 シドニー移転直後、80年1月より「カウラ日本庭園」第二期工事建設の支援を開始、87年11月、二千本の「カウラ桜並木道」 建設を提案、以後今日まで、ボランティアの「ファンドレーザー」及び「コーディネーター」(Fundraiser & Coordinator)を務め、今日までに一千本の桜木を植樹。二千本の桜並木道完成を目指し努力中。            

  (略歴―1)

1988年10月、「カウラ桜祭り」開催を提案、以後今日まで毎年開催。その支援活動により、02年10月、「カウラ日本庭園理事会」から感謝状授与。09 年10月、四年余り掛けてカウラ郊外のユーカリ大樹に彫刻した身の丈5メートルの「平和の像」を完成させた。その間、日豪姉妹都市会議、宮城県市会議員研修会、各地の市議会、ロータリークラブ、高校等教育機関、各種団体、来豪視察団等から日英両国語にての「講演」を多数依頼されると共に、メディア関係各社のインタビュー、掲載記事等多数あり。 著書「朔北の影」(自費出版)、満州で生まれ育ち、満州国建国に邁進、最後にシベリアで非業の死を遂げた父の足跡を現地調査した記録と、自分を取り巻く姫路酒井藩馬廻り役番頭「戸倉家19代」の歴史と家族環境等を調査詳述したもので、現在この拙著を[Shadow of the Wild North]の題名で英訳完了後、社会人になって活躍している子供たち二人に読ませている。現在、カウラの日豪関係史を描いた著作「カウラの桜」を執筆中。息子、常勝(トーマス)は、英国教会の牧師、NSW大、ハーバード大、シドニー大大学院、MBA、現在ボストンの神学校で神学博士課程在籍中、彼の妻,Annは初診医。娘、智子(トネット)は、NSW大、ロンドン大大学院卒、カンボジャ政府、婦人問題担当大臣の政策秘書を二年間勤務後、現在はオーストラリア連邦政府のNGO, [Mission Australia] でNational Coordinatorとして活躍した後、NSW州政府社会福祉関連部門のNew ProjectのHead として担当中。  その他、オーストラリア産品輸出会社「トクラ商事オーストラリア株式会社」社長、特にプロポリス、スクワリン、ロィヤル・ジェリー等、健康補助剤を日本へ輸出している。本人は日本国籍、オーストラリアの永住権を保持。現在「豪洲太朗」の筆名で、月二回ベースでブログを執筆中, http://goushutaro.blogspot.com/ または シドニー通信 で閲覧可能。 連絡先: Ken Tokura. 1/3, Reserve Street, West Ryde, NSW 2114, Australia.       Tel/Fax: +61-2-9874-2778. Mail Address: kentokura@hotmail.com    豪州携帯’ 0417-447-772.   日本の携帯電話:090-3008-7549.(訪日中のみ)                        2011年 2月,  本人 記                   (略歴―2)