3人目の師匠

2013.02.26

2月10日(日)に京都大学の教室で行われた「考える大人になるー教育のためのTOC」シンポジウムに参加した。参加したきっかけは、1月中旬に届いた岸良裕司(きしらゆうじ)さんからのメール「2月10日 第2回 考える大人になるTOCのコンファレンス@京都大学 やります!」である。
 私が岸良さんに初めて出会ったのは2007年11月15日、富山県建設業協会経営改革推進委員長として協会員に対して行った経営改革セミナーであった。セミナーの講師や内容は建設業協会の担当者が全て段取りしてくれていて、富山県土木部建設技術企画課の担当者から「富山県におけるワンデーレスポンスの取組み」の紹介があり、その後に岸良さんを講師としての「三方良しの公共事業改革」〜利益を生み出し人材を育成する経営セミナー〜という講演が組まれていた。
 私は、ワンデーレスポンスという言葉は知っていたが、「三方良しの公共事業改革」については全く知識が無かった。ワンデーレスポンスという言葉自体に反発するものを感じていた私は、セミナーの始まる前に控室で岸良さんに「ワンデーレスポンスと言うけれど、これまでの経験から、役人が一日で返事するわけがありませんよ」と挑発的に言った。私のこの発言に対して岸良さんは「業者が変われば役所も変わります」と言う。岸良さんに初めて会っての印象から、失礼ながら講演にはあまり期待していなかったのだが、「面白い、それならどんな講演か聴いてやろうではないか」と思った。
 講演は、私の先入観とは全く逆であった。CCPM(クリティカル・チェーン・プロジェクト・マネジメント)を使って、発注者である役所と施工者である建設業者が一体になって工事を進めることで、地域住民のためになる「三方良しの公共事業」が実現できると語る熱くて面白い講演には説得力があり、実現できたらどんなに建設業界が楽しいものになるかと思うとワクワクした。
 セミナー終了後、岸良さんにも入ってもらって私の委員会を開催し、CCPMやワンデーレスポンスについて意見交換した。さらに、岸良さんもジャズが好きということで、私の行きつけのジャズを聴かせてくれるバーを3軒ハシゴし、帰宅は午前様になった。
 この出会いで、元は京セラの社員で建設業とは縁もゆかりも無かった岸良さんが、こんなにも真剣に建設業のことを想い「三方良しの公共事業改革」の実現に情熱を傾けて講演しているが、肝心の建設業者が傍観者であっては岸良さんの独り相撲となり、岸良さんはドンキホーテになってしまうと思った。
 セミナーの後しばらくして岸良さんから電話があった。今回と同じようなセミナーを、朝日建設が実際やっている工事を事例にして、12月21日に朝日建設でやりましょうと言う。多忙な岸良さんだが12月21日は空いているので、この日にやろうというのだった。富山県土木部建設技術企画課にも職員の参加を呼びかけ、当社社員十数名に富山県庁の土木部と農地林務部の職員も交えて、富山大橋下部工A2橋台工事を題材にしてのCCPM社内セミナーが4階会議室で実現した。
「三方良しの公共事業改革」に共感した私は、このセミナーの後すぐにCCPMのソフトを購入し当社でもCCPMに取り組むことにした。そして、翌2008年に全国組織「三方良しの公共事業推進研究会」を発起人の一人として立ち上げた。また、岸良さんの誘いで、2009年4月には、CCPMの基になる理論体系TOC(theory of constraints制約理論)を提唱したイスラエルのゴールドラット博士の東京での3日間の来日セミナーに参加し、その年の7月7日には、富山県建設業協会主催の「三方良しの公共事業推進セミナー」を、今度は私が企画してボルファートとやまで行った。このセミナーでは、研究会で知り合った高知県の宮内さんと宮崎さんを講師とし、また、当社が施工した県発注の富山大橋右岸函渠工におけるCCPMとワンデーレスポンスの取り組み事例を、工事担当した稲葉さんがパワーポイントを使って説明した。
 研究会が主催するカンファレンスにも社員と一緒にほぼ毎年参加し、先日2月15日に大阪で開催された第6回カンファレンスには、社員4人と参加した。岸良さんは毎回パネルディスカッションのコーディネーターを務めているが、今回は「建設業には現場がある。現場は住民の近くに、本当の顧客の近くにある。現場を活用し、場をつくり、住民の方々と工事の目的について、子供でもわかるようにわかりやすく伝える。これが大事」とまとめてくださった。
 このように、2007年11月からの岸良さんとの付き合いではあるが、ゴールドラット博士の講演を直接聴いたといってもTOCについて不勉強だと感じていた私は、冒頭の岸良さんからのメールに飛びつき、開催日が三連休の中日の日曜日であったが内容をよく読まないままに即申し込みした。前泊して参加したシンポジウムは、父親が小学生の娘と一緒に行ったプレゼン「新体操で銅メダル獲得!」や中学1年の男子生徒のプレゼン「TOCを使って中学校生活を充実させよう!!!」を交え11の事例発表がなされたが、それぞれに素晴らしかった。帰りの列車の中では、「時間がない」と言わないで、TOCを基礎からしっかり学び、会社で、そして家庭で、課題解決に役立てたいと思った。
 私はこれまで、多くの素晴らしい人たちに出会い教えられてきたが、私の師匠だと勝手に思っている人が2人いる。今回の京都のシンポジウムに参加して、日本中を「考える大人」だらけにしていくために精力的に活動している岸良さんを3人目の師匠にしようと思った。岸良さんは、ドンキホーテではないのだった。

「私の教育観」

2013.01.25

私は1月16日に速星公民館で行われた富山市小学校教頭会の全体研修会で講演したが、その演題が「私の教育観」であった。
 今回の講演は富山経済同友会を通じて依頼されたが、これまでも富山経済同友会が行っている課外授業講師派遣事業で、2002年の1月からこれまで「学ぶこと、働くこと」をテーマに県内のあちこちの中学校で13回の課外授業を行ってきた。有磯高校、小杉高校や、富山県中学校校長会の研究大会でも講演したことがあるし、滑川市でも中学校の先生方に講演した覚えがある。
 また、学校関係以外でも、昨年まで三年間毎年9月に、40歳になった富山県の県庁職員が受ける「ステップ2研修」で「経営者講話」の講師を務めた。富山県警察学校で新採用警察官に対する教育、名古屋で「ワーク ライフ バランス」、甲府や東京で介護の講演を行った。その他にも、ロータリーやライオンズクラブの例会、建設会社の安全大会、県会議員の後援会総会などでも講演している。
 振り返ると、あちこちで多くの講演を行ってきたが、それらの講演は、たいていがこれも話したい、あれも話したいとなって、講演を終わって自分なりに「うまく話せた」と思ったことはあまりなかった。
 そこで今回の講演では、最初から終わりまで首尾一貫した流れを作ろうと考えた。最近はパワーポイントでの講演ばかりなので、まずは富山県中学校校長会でのパワーポイントを見返して、スタートは中学校校長会と同じく2001年5月の私のコラム「熱血授業 小島先生の百日」から始め、小島先生のような先生ばかりなら「ゆとり教育」など必要なかったのではないかと問題提起した。続いて、これまでは後半で使っていたスライドで、会社経営においても学校運営においても考え方が大事だということを、「能力は掛け算、能力=才能×経験×意欲×考え方」で説明し、「働く」は漢字ではなく、漢字に倣って日本人が作った和字、国字であり、「働く」とは「端(はた)を楽にする」即ち、世のため人の為に役に立つことであり、英語の土木(Civil engineering)や、社会資本(Infrastructure)の語源に言及してから、当社の経営理念「建設工事を通して世の中の役に立つ(ふるさと富山を発展させる)」と「人は経費ではなく資源」を説明した。
 さらに、経営理念「建設工事を通して世の中の役に立つ」から難工事へのチャレンジという戦略が立てられるとして、当社が施工中の中島大橋橋脚耐震補強工事の現場写真を写して、舗装工事がメインである当社のチャレンジの事例とした。また、経営理念「人は経費ではなく資源」から人材育成という経営方針が生まれ、社員教育という戦略が生まれるとし、1月4日の新年式で発表した今年の経営指針の一番目に「社員教育の徹底」を挙げ、社員教育のひとつを「経営理念の実践」としたこと、そして、新年式に引き続き「私の経営観」と題して早速全社研修を行ったことを紹介した。
次に、Philosophy(哲学)の語源「より良く生きるためによりよく知る」や、gnomon(日時計の指示針)からknow(知る)とname(名前)が生まれたことを説明して、知識の量を増やさないと創造力は生まれないので「読み書き計算」や暗記が必要であると話した。また、Education(教育)の語源が「(能力を)外に導き出す」であり、学校教育や社員教育におけるひとつの考え方であるとした。
講演の最後の部分では、聖路加国際病院の理事長で「新老人の会」の会長である日野原重明先生(現在101歳)が全国各地の小学校でされている「いのちの授業」で、「命とは、自分の使える時間のことです」と話されていることを切り口に、私の母が植物人間状態になっているときに、私が病室で発した「こんな状態になって、何で生きているのだろう」という言葉に対して看護婦さんが「人間が生きているのには、必ず意味があります」と答えたという話、そして、このエピソードを話した呉羽中学校の課外授業での女子生徒の感想文に、「私は未だ中学2年生で、私の生きている意味は分からないけれど、それが分かるようにこれから勉強したい」という感想文を紹介した。
さらに、「いただきます」は“あなたの命をいただいて、私の命にさせていただきます”という意味が込められていて、魚や牛や豚だけでなく野菜にしてもその命をいただくということは、それらが生きてきた時間をいただくということであると言えると話し、それに続けて、大阪の高校でのバスケットボール部顧問の教師による体罰で2年生の男子生徒が自ら命を絶った事件に触れ、自殺した生徒はこれからの時間を失ったということであるという私の想いを語った。
最後は、新年式後の研修でも紹介した「限界なき思考法〜パン屋の話〜」の後に、ロータリーの職業奉仕は英語のVocational serviceの訳で、名詞の職業Vocationは声Voiceからきていて、それは誰の声かというと神様の声であり、私は神様から建設業の朝日建設を、そして老人介護事業の朝日ケアをシッカリやるようにと言われていて、これが天職なのだと思っていると締めくくった。
かなり満足でき、それだけに、有言実行しなければいけないと強く思った今回の講演であった。

父の晩年と最期

2012.12.01

今年も残すところわずかになったが、私にとって今年一番の出来事は、何と言っても5月24日の父の死である。
 私の母は、当社の子会社である有限会社朝日ケアが平成15年4月に富山市北代に開業した老人介護事業所「あさひホーム」のショートステイを2年間利用していたが、平成17年の4月に誤嚥から富山大学附属病院に入院した。その後富山病院に転院し、翌年1月に85歳で亡くなった。父は、平成16年3月から週2回、母が泊まっている「あさひホーム」のデイサービスの利用を始めた。私も週に1回、車で父を自宅に迎えに行き「あさひホーム」で一緒に食事をしていたが、デイサービスのご利用者に碁の強い男性がおられ、父はその人と真剣な表情で碁を打っていた情景が思い出される。
 母が亡くなった年の平成18年7月に、自宅から歩いて2分もかからない場所に「あさひホーム吉作」が開業してからは、こちらのデイサービスを利用することになった。北代の時と同様、私は週に1回父と「あさひホーム吉作」で昼食をとった。最初の頃は、父は杖をつきながら私と一緒に歩いてホームに出かけていたが、だんだん脚が弱ってきて、ここ2、3年は数歩歩いては休むということを繰り返して10分以上かけてホームにたどり着くようになっていた。夏の暑い日、雨風や雪の日には、わずかな距離だが車で行くということも度々であった。
 夕食は、父が渡り廊下続きの私の家に、ご飯茶碗と湯飲み茶碗、それに好物の松茸昆布と胡桃の佃煮を入れた二皿をお盆にのせ、杖をついたりレンタルの手すりを伝ったりしながらやってきて、私の家族と一緒に夕食をとり、朝食は妻が作って父の家に運んでいた。しかし、一昨年頃から朝11時を過ぎても起きなくなり、朝食もとらないことが多くなったので、昨年の夏から「あさひホーム吉作」のグループホームで暮らすようになった。私は毎週月曜日にホームに出かけ父と一緒に昼食をとっていたが、今年の春先から義歯を上下とも紛失したことも手伝ってか、父の食欲がめっきり衰え、食事を残すことが多くなってきた。あまりにも食べなくどんどん痩せ細ってきたので点滴をするようになり、ゴールデンウイーク後は、朝7時過ぎにホームで父の様子を観察してから出勤するようにした。
 そして5月19日の土曜日、本社で業務推進会議をしていたところ、12時前に妻から携帯に電話があったが、「会議中だから終わってから」と電話を切った。会議を終えて妻に電話したら、救急車の音が聞こえる。「家のそばに救急車が来ているの?」と聞くと、「昼前にホームに行ったら、お父さんがひどくお腹を痛がっていて、往診してもらったお医者さんの判断で、今お父さんと一緒に救急車に乗って済生会富山病院に向かっているところです」とのこと。書類を片付けて3時に病院に着いたら、父は救急処置室に、妻と弟は処置室の横の待合室にいた。担当の外科医から説明を受けると、胃潰瘍で出血していて、手術をして出血を止めるか、そのままにしておいて潰瘍の穴がふさがるかもしれないのを待つかの選択を夕方までにするようにとのこと。手術するならスタッフがそろっている今日しかできないと言われ迷ったが、母が植物人間状態で9ヶ月あまり入院していたことを思うと、父が手術を受けても母と同じような状態になる可能性が大きいように思われ、手術しないことにした。その後父は処置室から一人部屋に移ったが、点滴の管をはずそうとするので両手にグローブをはめさせられた。しきりに「(手袋を)はずしてくれ」と私に頼むのを、何だかんだと言って誤魔化し、はずさずに見守るしかなかった。
 翌日の日曜日、朝から行事が続き、夜のパーティーを途中で抜けてようやく8時過ぎに病院に行った。父は肩で息をしながら眠っていた。月曜日には病院から病室に誰か泊り込むように勧められ、その晩と翌日は弟が泊り込んだ。水曜日の昼、病院の看護師さんから血圧が60に下がったと電話があり、午後2時半頃には、富山市建設業協会の次年度役員会議中に、血圧が測れないので家族を呼んだほうがよいとの電話。弟、妻、3人の子ども達、従兄弟が次々に病室に入って父を見守った。夕方の血圧は68。その晩は私が泊まった。翌朝の看護師さんの巡視で、脈が落ちてきたので家族に連絡するようにと言われる。4時40分だった。すぐに弟や妻に電話し、じっと心電図のモニターを見ていたら、5時5分頃に心拍数がゼロになり、その後チョット持ち直すもまたゼロに戻りそのまま脈が打たなくなってしまった。主治医が病室にやって来て死亡を確認した時刻が5時29分。享年92歳であった。
 私が昭和50年に朝日建設に入って間もなくの頃、父が新年式の年頭挨拶で「強く、明るく、そして、少しは世の中の役に立つように生きてもらいたい」と話したことを記憶している。父を亡くして7ヶ月、新しい年を迎えようとしているこの時期、そして日本が社会、経済、政治、また外交の面でたいへん厳しい状況にある時に、二つの会社の社長として、20年、30年後を予想しながら、旺盛な好奇心とチャレンジ精神を持って、「少しは」ではなく「大いに」世のため人のために働こうと、心を新たにしている。