「私の教育観」

2013.01.25

私は1月16日に速星公民館で行われた富山市小学校教頭会の全体研修会で講演したが、その演題が「私の教育観」であった。
 今回の講演は富山経済同友会を通じて依頼されたが、これまでも富山経済同友会が行っている課外授業講師派遣事業で、2002年の1月からこれまで「学ぶこと、働くこと」をテーマに県内のあちこちの中学校で13回の課外授業を行ってきた。有磯高校、小杉高校や、富山県中学校校長会の研究大会でも講演したことがあるし、滑川市でも中学校の先生方に講演した覚えがある。
 また、学校関係以外でも、昨年まで三年間毎年9月に、40歳になった富山県の県庁職員が受ける「ステップ2研修」で「経営者講話」の講師を務めた。富山県警察学校で新採用警察官に対する教育、名古屋で「ワーク ライフ バランス」、甲府や東京で介護の講演を行った。その他にも、ロータリーやライオンズクラブの例会、建設会社の安全大会、県会議員の後援会総会などでも講演している。
 振り返ると、あちこちで多くの講演を行ってきたが、それらの講演は、たいていがこれも話したい、あれも話したいとなって、講演を終わって自分なりに「うまく話せた」と思ったことはあまりなかった。
 そこで今回の講演では、最初から終わりまで首尾一貫した流れを作ろうと考えた。最近はパワーポイントでの講演ばかりなので、まずは富山県中学校校長会でのパワーポイントを見返して、スタートは中学校校長会と同じく2001年5月の私のコラム「熱血授業 小島先生の百日」から始め、小島先生のような先生ばかりなら「ゆとり教育」など必要なかったのではないかと問題提起した。続いて、これまでは後半で使っていたスライドで、会社経営においても学校運営においても考え方が大事だということを、「能力は掛け算、能力=才能×経験×意欲×考え方」で説明し、「働く」は漢字ではなく、漢字に倣って日本人が作った和字、国字であり、「働く」とは「端(はた)を楽にする」即ち、世のため人の為に役に立つことであり、英語の土木(Civil engineering)や、社会資本(Infrastructure)の語源に言及してから、当社の経営理念「建設工事を通して世の中の役に立つ(ふるさと富山を発展させる)」と「人は経費ではなく資源」を説明した。
 さらに、経営理念「建設工事を通して世の中の役に立つ」から難工事へのチャレンジという戦略が立てられるとして、当社が施工中の中島大橋橋脚耐震補強工事の現場写真を写して、舗装工事がメインである当社のチャレンジの事例とした。また、経営理念「人は経費ではなく資源」から人材育成という経営方針が生まれ、社員教育という戦略が生まれるとし、1月4日の新年式で発表した今年の経営指針の一番目に「社員教育の徹底」を挙げ、社員教育のひとつを「経営理念の実践」としたこと、そして、新年式に引き続き「私の経営観」と題して早速全社研修を行ったことを紹介した。
次に、Philosophy(哲学)の語源「より良く生きるためによりよく知る」や、gnomon(日時計の指示針)からknow(知る)とname(名前)が生まれたことを説明して、知識の量を増やさないと創造力は生まれないので「読み書き計算」や暗記が必要であると話した。また、Education(教育)の語源が「(能力を)外に導き出す」であり、学校教育や社員教育におけるひとつの考え方であるとした。
講演の最後の部分では、聖路加国際病院の理事長で「新老人の会」の会長である日野原重明先生(現在101歳)が全国各地の小学校でされている「いのちの授業」で、「命とは、自分の使える時間のことです」と話されていることを切り口に、私の母が植物人間状態になっているときに、私が病室で発した「こんな状態になって、何で生きているのだろう」という言葉に対して看護婦さんが「人間が生きているのには、必ず意味があります」と答えたという話、そして、このエピソードを話した呉羽中学校の課外授業での女子生徒の感想文に、「私は未だ中学2年生で、私の生きている意味は分からないけれど、それが分かるようにこれから勉強したい」という感想文を紹介した。
さらに、「いただきます」は“あなたの命をいただいて、私の命にさせていただきます”という意味が込められていて、魚や牛や豚だけでなく野菜にしてもその命をいただくということは、それらが生きてきた時間をいただくということであると言えると話し、それに続けて、大阪の高校でのバスケットボール部顧問の教師による体罰で2年生の男子生徒が自ら命を絶った事件に触れ、自殺した生徒はこれからの時間を失ったということであるという私の想いを語った。
最後は、新年式後の研修でも紹介した「限界なき思考法〜パン屋の話〜」の後に、ロータリーの職業奉仕は英語のVocational serviceの訳で、名詞の職業Vocationは声Voiceからきていて、それは誰の声かというと神様の声であり、私は神様から建設業の朝日建設を、そして老人介護事業の朝日ケアをシッカリやるようにと言われていて、これが天職なのだと思っていると締めくくった。
かなり満足でき、それだけに、有言実行しなければいけないと強く思った今回の講演であった。

父の晩年と最期

2012.12.01

今年も残すところわずかになったが、私にとって今年一番の出来事は、何と言っても5月24日の父の死である。
 私の母は、当社の子会社である有限会社朝日ケアが平成15年4月に富山市北代に開業した老人介護事業所「あさひホーム」のショートステイを2年間利用していたが、平成17年の4月に誤嚥から富山大学附属病院に入院した。その後富山病院に転院し、翌年1月に85歳で亡くなった。父は、平成16年3月から週2回、母が泊まっている「あさひホーム」のデイサービスの利用を始めた。私も週に1回、車で父を自宅に迎えに行き「あさひホーム」で一緒に食事をしていたが、デイサービスのご利用者に碁の強い男性がおられ、父はその人と真剣な表情で碁を打っていた情景が思い出される。
 母が亡くなった年の平成18年7月に、自宅から歩いて2分もかからない場所に「あさひホーム吉作」が開業してからは、こちらのデイサービスを利用することになった。北代の時と同様、私は週に1回父と「あさひホーム吉作」で昼食をとった。最初の頃は、父は杖をつきながら私と一緒に歩いてホームに出かけていたが、だんだん脚が弱ってきて、ここ2、3年は数歩歩いては休むということを繰り返して10分以上かけてホームにたどり着くようになっていた。夏の暑い日、雨風や雪の日には、わずかな距離だが車で行くということも度々であった。
 夕食は、父が渡り廊下続きの私の家に、ご飯茶碗と湯飲み茶碗、それに好物の松茸昆布と胡桃の佃煮を入れた二皿をお盆にのせ、杖をついたりレンタルの手すりを伝ったりしながらやってきて、私の家族と一緒に夕食をとり、朝食は妻が作って父の家に運んでいた。しかし、一昨年頃から朝11時を過ぎても起きなくなり、朝食もとらないことが多くなったので、昨年の夏から「あさひホーム吉作」のグループホームで暮らすようになった。私は毎週月曜日にホームに出かけ父と一緒に昼食をとっていたが、今年の春先から義歯を上下とも紛失したことも手伝ってか、父の食欲がめっきり衰え、食事を残すことが多くなってきた。あまりにも食べなくどんどん痩せ細ってきたので点滴をするようになり、ゴールデンウイーク後は、朝7時過ぎにホームで父の様子を観察してから出勤するようにした。
 そして5月19日の土曜日、本社で業務推進会議をしていたところ、12時前に妻から携帯に電話があったが、「会議中だから終わってから」と電話を切った。会議を終えて妻に電話したら、救急車の音が聞こえる。「家のそばに救急車が来ているの?」と聞くと、「昼前にホームに行ったら、お父さんがひどくお腹を痛がっていて、往診してもらったお医者さんの判断で、今お父さんと一緒に救急車に乗って済生会富山病院に向かっているところです」とのこと。書類を片付けて3時に病院に着いたら、父は救急処置室に、妻と弟は処置室の横の待合室にいた。担当の外科医から説明を受けると、胃潰瘍で出血していて、手術をして出血を止めるか、そのままにしておいて潰瘍の穴がふさがるかもしれないのを待つかの選択を夕方までにするようにとのこと。手術するならスタッフがそろっている今日しかできないと言われ迷ったが、母が植物人間状態で9ヶ月あまり入院していたことを思うと、父が手術を受けても母と同じような状態になる可能性が大きいように思われ、手術しないことにした。その後父は処置室から一人部屋に移ったが、点滴の管をはずそうとするので両手にグローブをはめさせられた。しきりに「(手袋を)はずしてくれ」と私に頼むのを、何だかんだと言って誤魔化し、はずさずに見守るしかなかった。
 翌日の日曜日、朝から行事が続き、夜のパーティーを途中で抜けてようやく8時過ぎに病院に行った。父は肩で息をしながら眠っていた。月曜日には病院から病室に誰か泊り込むように勧められ、その晩と翌日は弟が泊り込んだ。水曜日の昼、病院の看護師さんから血圧が60に下がったと電話があり、午後2時半頃には、富山市建設業協会の次年度役員会議中に、血圧が測れないので家族を呼んだほうがよいとの電話。弟、妻、3人の子ども達、従兄弟が次々に病室に入って父を見守った。夕方の血圧は68。その晩は私が泊まった。翌朝の看護師さんの巡視で、脈が落ちてきたので家族に連絡するようにと言われる。4時40分だった。すぐに弟や妻に電話し、じっと心電図のモニターを見ていたら、5時5分頃に心拍数がゼロになり、その後チョット持ち直すもまたゼロに戻りそのまま脈が打たなくなってしまった。主治医が病室にやって来て死亡を確認した時刻が5時29分。享年92歳であった。
 私が昭和50年に朝日建設に入って間もなくの頃、父が新年式の年頭挨拶で「強く、明るく、そして、少しは世の中の役に立つように生きてもらいたい」と話したことを記憶している。父を亡くして7ヶ月、新しい年を迎えようとしているこの時期、そして日本が社会、経済、政治、また外交の面でたいへん厳しい状況にある時に、二つの会社の社長として、20年、30年後を予想しながら、旺盛な好奇心とチャレンジ精神を持って、「少しは」ではなく「大いに」世のため人のために働こうと、心を新たにしている。

同期会

2012.11.01

私は今年1月の誕生日で65歳の前期高齢者に仲間入りし、日本年金機構から老齢基礎年金が振り込まれるようになった。
 今年3月に同じ高校の同期生S i君に会った時、彼から「65歳(女性は60歳)になるとJRのジパング倶楽部に入会でき、運賃が3割も割引になる。(僕は)昨年65歳になってすぐ入会した」と聞いて、早速年会費3670円を払い、誕生日から2ヶ月遅れで入会した。出張旅費でずいぶん経費節減に貢献している。
そのS i君と話しているうちに、高校の同期会は8、9年前に行ったきりなので、65歳になったのを区切りに久しぶりに同期会を行おうではないかということになった。そこで、私とS i君のほか男性2人と女性3人合わせて7人の世話人を決め、世話人代表には成り行きで私がなった。そして、同期会の開催日は、11月10日の土曜日、会場をパレブラン高志会館に決めた。
 8月末に男性世話人のS u君と高校の中にある同窓会事務局に出かけ、同期生の宛名シールをもらい、9月初めに女性世話人のM iさんに案内状の文面を考え往復ハガキに印刷することや当日のネームプレートの作成をお願いした。彼女はポスターやパンフレットの企画、デザイン、編集の仕事をしていて、打って付けだった。S u君は当日に向けての会場との打合せ、酒屋のS i君は会場に持ち込みのワインの手配、M a君は出欠状況を見ながらより多くの出席者を募る役目を担当することにしたが、私の役目は、返信ハガキの宛名が世話人代表の私になっているので、出欠の集計をしてM a君に連絡することだけだった。
予定通り9月末に案内状が発送され10月にはいると返信ハガキが届き始めた。しかし私は脊柱管狭窄症の手術のため10月8日から18日まで入院していたので、入院中、妻が毎日届けてくれる返信ハガキを見て、入院前にエクセルで作った集計表に、病室に持ち込んだパソコンで出欠を入力し、手術の翌日の10日からほとんど毎日M a君にメールで集計表を送った。同期生は9クラスで480名を超えていたが、亡くなった方が40数名、住所が不明の方もいて、実際に発送したはがきは380枚ほどであった。返信の期限を10月27日としていたが、10月18日の退院の日で出席者は27名。80名を目標にしていたので心配だったが、声を掛け合った結果、最終的には69名の参加者となった。
 
 入院中の楽しみは、食事と返信ハガキに書かれたメッセージを読むことであった。同期会の開会挨拶でも披露した心に残るメッセージを紹介したい。
・ ウワーイ、ウレシイ、ウレシイ!!もう皆さんにお会いすることはないのかと思ってたので。企画してくださって心からありがとう。杖ついてでも会いに行きます。
・ 富山はあまりにも遠く感じますが、心はキラキラした思い出と共に伊予路より瀬戸内の海を渡り、同じ学び舎で3年間共に過した皆様のもとへおうかがいいたします。(愛媛県松山市の女性)
・ 同窓会へのお誘い、ありがとうございました。体調がもうひとつなので出席できませんが、高2の時、席が林君の近くでした。あなたのお弁当が注目の的で、今でもトンカツ弁当をおいしそうに食べているあなたが思い出せます。いつもおいしそうでした。お元気で。
・ 両親を東京に呼び寄せてからは富山に帰ることはなくなりました。今は富山のニュースを何か聞くたびに、懐かしさに加えて寂しさが心の中でどんどん大きくなる日々です。
・ この案内をいただき、いつの間にか「若きあこがれに瞳はもえて・・・」(注:校歌の出だし)が出てきました。懐かしいですね。震災で床上浸水しましたが、元気にやっています。(宮城県多賀城市の男性)
 前日の9日には、県外からの参加者に「ありがとう」の電話をした。埼玉県上尾市、山梨県北杜市、横浜市、犬山市、名古屋市、奈良県生駒市、神戸市、東京都世田谷区、金沢市、つくば市、千葉県佐倉市、仙台市の方々で、繋がらなかった人には携帯電話にメッセージを送ったりもした。直接話ができた人は、ビックリしながらも喜んでくれたが、私にはほとんどの人の顔が思い出せなかった。
 そして同期会当日となった。5時からの開会であったが、世話人は4時に集合し受付に当たった。受付に次々にやってくる同期生は、誰が誰だかさっぱり分からない。同じクラスだった人さえ分からない。卒業してから47年、卒業以来初めて会ったという人が半数以上だった。
 10のテーブルのそれぞれで話に花が咲き盛り上がっていた。各テーブルを回ると、何人もの同期生から「世話してくれる人がいないとできないこと。林君ありがとう」の感謝の言葉をもらった。たまたま世話人代表と書かれていたからであるが、中には「林君の名前があったので出てきた」という人もいた。皆さんに喜ばれ感謝されて、同期会をやって本当によかったと思った。
 本人が亡くなったと書かれた2通の返信はがきがあった。病気療養中で欠席と記した人が、同期会当日の前に亡くなったとも知った。3人のご冥福を祈ると共に、同じ戦後の時代を過してきた同期生と、3年後の2015年、68歳の時に、卒業後50年の同期会で再び元気で会いたいものだ。