グスコーブドリの伝記

2012.07.01

先日、何気なく新聞の映画案内欄を見ていたら、TOHOシネマズファボーレ富山の上映映画の中から「グスコーブドリの伝記」の文字が目に飛び込んできた。私がもっとも尊敬する人物、宮澤賢治の童話で、かつ、私の好きな賢治の作品のひとつではないか。その後新聞で、「グスコーブドリの伝記」の杉井ギサブロー監督と、「おおかみこどもの雨と雪」の上市町出身の細田守監督との対談記事を読み、今回のコラムの題材にしようと、3連休最後の7月16日にファボーレに出かけた。
久しぶりの映画鑑賞で、それも宮澤賢治の作品とあって、始まるとまず映し出された上空から見た森の風景にこの後の展開を期待した。しかし、次の場面に現れたグスコーブドリや妹のネリ、そして両親はネコではないか。童話の「グスコーブドリの伝記」に登場するのは、ネコではなく人間であったはず。これでいささかガックリきたが、その後の展開も、次々に現れるのはネコであり、夢の場面に出てくるのは奇妙にゆがんだ顔のお化けのような人間(?)で、アニメの絵もコントラストが強くどぎつく感じ、私が賢治の作品を読むたびに感じる世界、風景ではなかった。
 また、ストーリーも、こんな話だったかなと思わせられた。もっとも初めてこの童話を読んだのは恐らく私が大学生の時だったから40数年も前のことであり、その後は賢治のほかの作品、例えば「風の又三郎」、「よだかの星」、「注文の多い料理店」、「鹿踊りのはじまり」、「なめとこ山の熊」などのように何度か読み返していた作品ではなかった。この作品が私の心に強く残っているのは、イーハトーヴの人々を冷害から救うために火山を爆発させ、どうしても逃げられない最後の一人として死んでいったグスコーブドリに感動したためであり、その他の部分はほとんど覚えていないというのが実際である。映画を観終えて、これはもう一度原作を読んで、ストーリーを確かめなければいけないと思った。
 帰宅して、「グスコーブドリの伝記」が入っている文庫本があったはずだと探したが見つからない。そこで、買い込んだものの一度も読まないままにほこりがかぶっていた筑摩書房発行の「校本 宮澤賢治全集」全13巻から、「グスコーブドリの伝記」が収められた第10巻(写真あり)を探し出し、クーラーをかけた寝室で読み出した。初版本の発行は昭和49年で、昭和51年に初版2刷を買ったようだ。
ときどき昼寝しながら、映画と重ね合わせて夕方までに読み終えたが、原作にはない場面がずいぶん映画にはあり、特に夢の場面は、原作を読んで私の心に浮かぶような情景では全くなかった。
 実は、この原稿を書き出してから、第10巻の後半の部分の校異(こうい・主に古典などについて、同一作品の写しが二種以上ある場合に、それらの文章の文字や語句の異同を比較すること)を読み、この第10巻に収められていたのは「グスコンブドリの伝記」であり、私が読んだであろう「グスコーブドリの伝記」は第11巻に収められていることを知った。「グスコンブドリの伝記」に手を加えられて、昭和7年3月発表の「児童文学」第2冊に「グスコーブドリの伝記」として掲載されたとのことだ。そこで第11巻を引っ張り出して、この原稿を書きながら「グスコーブドリの伝記」を斜め読みしているが、「グスコンブドリの伝記」より簡素化され短くなっているようだ。以下に抜粋している会話は、「グスコンブドリの伝記」に書かれているが、「グスコーブドリの伝記」には見つからなかったことをお断りしておく。
久しぶりに読んで、私の心に響いた場面は、ブドリとフウフィーボー(クーボー)大博士との会話。
(ブドリ)「仕事を見附けに来たんです」(大博士)「どんな仕事がすきか。」(ブドリ)「どんな仕事でもいゝんです。とにかくほんたうに役に立つ仕事なら命も何もいりませんから働きたいんです。」
 そして、イーハトーヴ火山局のペンネン技師の言葉とブドリ。
「・・・・そこでこれからの仕事はあなたは直感で私は学問と経験で、あなたは命をかけて、わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのためにはたらくものなのです。」ブドリは喜んではね上がりました。
さらに、夏の寒さを防ぐためのたったひとつの道、カルボナード火山島を爆発させることについてのクーボー大博士とブドリとの会話
(大博士)「あれが爆発するときはもう遁げるひまも何もないのだ。」ブドリが云いました。「私にそれをやらせて下さい。私はきっとやります。そして私はその大循環の風になるのです。あお青空のごみになるのです。」
 東日本大震災で、大きな被害をこうむった賢治の生まれ故郷の岩手県(イーハトーヴ)を、福島第一原発事故で人が住めなくなってしまい荒れ果てた地区がある福島県を、賢治は天上からどう思ってみているだろうかと考えた。そして、自分のこれからの生き方を考えた。
『世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない』
(宮澤賢治:農民芸術概論綱要)

校本 宮澤賢治全集」第10巻
校本 宮澤賢治全集」第10巻

桐谷農園その2

2012.06.01

 2005年7月号のコラムは「桐谷農園」だった。NPO法人アイ・フィール・ファインの会員達が、2005年から桐谷の村のみなさんの協力のもと、手作り・無農薬・天日干しの稲作に挑戦していて、ホームページ桐谷農園(富山市八尾町・桐谷集落 「有機農業の里づくり」モデルプロジェクト)には、以下のように記されている。

桐谷農園

 アイ・フィール・ファインは、「高齢者が健康で自立した生活を送れる環境と仕組みを提供すること」を目標に、2004年10月に富山市の有志で立ち上げたNPO法人です。
 「終(つい)の住処」を考える中で、「自然」と「様々な世代が支え合い協力し合って暮らす」その二つがとても重要なテーマとして浮上してきました。
 そこで、自然溢れる里山・桐谷に農地を借りて体験農園を始めました。
 NPO法人 アイ・フィール・ファインが活動の一環として取り組んでいるのが、越中八尾スロータウン特区を活用して、八尾町桐谷地内での無農薬有機栽培による米作りです。
手植えによる田植えから、人力での除草、手刈りによる稲刈り、はさ掛けによる自然乾燥など昔ながらの農法で、無農薬有機栽培を実践しています。また、米作り以外でも、野菜やそばを栽培しています。

草刈
田植え

米ぬかペレット散布 8年目の今年の田植えは総勢30名で9時から3時間行われたが、高岡にあるパーソナルトレーニングジムの若者たち(4月に桐谷部落の江浚いや苗圃場作りに加勢してくれている)の参加もあり、2005年の田植えよりずいぶん活気があふれていた。田植えが終わってからは食事会。ドームのデッキ下で、(株)シムコが桐谷の近くの小井波にある八尾育種改良センターで生産する旨い豚肉と、どこから手に入れたものかイノシシの肉でのバーベキューを堪能。昨年収穫したもち米を使ってのわさびもちと大根おろしもちも美味しかった。ミツバチの巣箱から蜂蜜を搾る実演も行われ、出来立ての蜂蜜に舌鼓を打った。研修棟では手打ち蕎麦が振舞われ、参加者一同「美味しい!!」の連発だった。

米ぬかペレット散布


 食事が終わりH理事長から、福島の子どもたちを富山に呼んでドームで過させたいと計画している人として紹介されたのが、蜂蜜を搾ってくれた本間さんであった。9年前に脱サラして蜂蜜の販売を始めたが、お客さんに安全な蜂蜜を提供するには、自分でミツバチを育てるところからやらないといけないと思って実践している人だ。昨年の東日本大震災に対して当社がした支援は、すぐに義援金を贈ったことと、原発事故で福島県の楢葉町の住民が避難しているホテルに泊まった会津若松への社員旅行くらいである。他にできることは無いかと思っていたので、原発事故のために福島の小中学校などで屋外活動を制限されたというニュースや、未だに避難解除されていない村があることなどを思い、ドームで子どもたちを受け入れすることはささやかな支援になるだろうと思った。またパーソナルトレーニングジムのアスリートも、八尾で生活基盤を作りたいがなかなか仕事が見つからない、相談に乗って欲しいとfacebookで私にメールしてきた。
新たな課題にチャレンジすることにもなった桐谷での8年ぶりの田植えであった。

ドーム下でのバーベキュー
桐谷農園の看板
蜂蜜を搾ってくれた本間さん
蜂蜜搾り
蜂蜜搾り

富山大橋開通

2012.04.01

3月24日(土)、新しく出来上がった都市計画道路呉羽町袋線(県道富山高岡戦)富山大橋開通式に施工業者として出席した。生憎の雨模様であったが、富山大橋の西詰めに張られた大きなテントの中で9時20分から修祓式、10時から開通式が行われた。長女も開通式が見たいとやって来ていたので、テープカットのあとに携帯電話で居場所を探したら、佐藤工業のK部長(2009年12月23日に開業した路面電車環状線化のための富山都心線工事を当社と佐藤工業のJVで施工した時の現場所長で、現在は本社営業部勤務)と一緒にいた。長女は、富山都心線工事の時に何度か現場事務所に書類届けなどしていて、Kさんと顔見知りであったのだ。Kさんは私に、「今回も朝日建設さんには大変お世話になりました」と言われた。当社が佐藤工業・日本道路・富山地鉄建設JVの下請けとして、電車の軌道施設工事に携わってきたからであった。
そのあとすぐに、当社担当者のIさんとSさんが、当該JVの所長の佐藤工業I所長と一緒にいるのを見つけた。当社の二人は作業服姿だったが、Iさんはスーツにネクタイ姿。Iさんは、これまでトンネルなど(山奥の人目につかない現場で)の工事ばかり担当してきていたので、街中のこんなに晴れがましい式典に参加できて嬉しいと語り、さらに「Iさん、Sさんには本当によくやってもらった。二人がいなくても完成はしただろうが、いなかったら(経過は)違っていたでしょう」との言葉に、夜遅くまで現場や現場事務所で仕事をしていた二人、そして作業に当たっていた当社の社員の姿を思い出した。さらに当社が施工した富山大橋架け替えにかかわる数々の工事が思い出された。代表的な工事としての、竹中土木とのJVで施工したP5橋脚、神通川右岸の下部工A2橋台や右岸函渠工、橋面舗装工事などのほか、五福や安野屋で関連の道路改良工事をいくつも行ってきた。それがついに完成したのだ。
その日の夜、家族で食事に出かけたが、開通したばかりの富山大橋を通る時はワクワクした。特に妻が運転(私は酒を飲んでいたので)してくれた帰り、助手席から眺めた橋の中央に建てられた照明柱の光が外国の光景を思わせるようにロマンチックで美しかったことは、未だに記憶に残っている。
この富山大橋架け替え工事の目的の一番目は、これまでの2車線の車道を4車線化することで交通渋滞の緩和を図ることであった。しかし、これまで片側1車線だった五福末広町交差点から安野屋交差点までが片側2車線になっても、安野屋から丸の内までは従来通りの片側1車線であり、それほど渋滞緩和に役立つとは思えないというのが、私も含めもっぱらの意見であった。しかし、この予想は見事に覆された。
私は毎朝7時前後に自宅を出て、戸出小矢部線、富山高岡線経由で会社まで30分近くかかっていた。出発が7時5分を過ぎると、あちこちの渋滞で会社に着くのは7時40分を過ぎるので、そんな時は北代、長岡を経由して富山北大橋を通って何とか7時半のユニバーサルデザイン室の朝礼に間に合うようにしていた。それでも5分や10分遅刻することがあった。そこで、富山大橋が開通しても、最初に新しい富山大橋を通って会社に出かけた日は6時58分に家を出た。しかし7時10分過ぎには会社に着いていた。次の日は、7時2分くらい、次に5分、8分と出発時刻を遅らせても、いつの時も15分〜17分間で会社に着く。そこで今では7時10分過ぎに家を出ることもあるが、会社には7時半までに確実に着ける。
家を出る時刻が10分間ほど遅くなったが、起床はそれまでと同じ4時45分。5時前から2匹の犬と別々に50分間ほど散歩し、家に戻って妻とお茶とお菓子でおしゃべりしながら新聞を読む。そのあと風呂に入り、食事して出かけるというパターンは一緒。おしゃべりと風呂と食事に10分間だけ多く使えるようになったのだが、ずいぶんゆとりができたと感じる。
ゆとりと言えば、橋の歩道幅員も2mから4.5mに広がり、これまですれ違うのが大変だった自転車が悠々と走っている。ジョギングしている人は対向する歩行者や自転車を気にせずに走り過ぎ、歩行者も楽しそうに歩いているのを見かけると、開通した日の外食からの帰り道に橋を走りながら妻が「これなら公共事業の意義が感じられるわね」と言ったのを思いだす。
財政再建の名の下に公共事業のGDP割合は6%台から15年足らずの間に欧米並みの3%台までに減ってしまい、それを小泉改革や民主党の「コンクリートから人へ」の政策の成果だという人もいる。しかしこれはとんでもない間違いだと思う。3.11の東日本大震災を例にとるまでもなく地震王国と言われる日本、毎年のように台風被害が発生し、火山や急峻な河川が多く世界に例の無い積雪寒冷地帯の東北や北陸地方を持つ日本では、3%では足りないのだ。これからは、防災の観点、産業経済の観点、富山大橋のような安全で円滑な交通の確保に加えゆとりを創造する文化的観点から公共事業を増やすべきなのである。これは、私が建設業の経営者だから言うのではない。日本を良い国に、富山を良い県にするために必要なことだと信じるから言うのだ。そのためには、われわれは国民、県民、市民としてどんな公共事業が必要かを自ら考え、政治や行政を通して実現していかなければいけない。公共事業を政治屋の集票の具とさせたり、行政にお任せしているようでは、安心、安全で文化の薫り高く、生まれてよかったと誇りに思えるような国にはならない。