60周年

2011.12.01

先月のコラムは、「65歳」と題して11月に行った中学校の同期会のことを書いたが、今月は、「60周年」と題して、私の出身校である東北大学の柔道部創部60周年記念納会、記念式典、祝賀会、それが終わってからの合同同期会の話を書いてみたい。
 12月10日(土)13:00からの、現役部員とOB部員による紅白対抗の記念納会試合を最初から見学すべく、7:08富山駅発の特急はくたかで仙台に向かった。仙台駅に着いてタクシーで柔道場がある川内キャンパスに直行した。
私が学んだ頃の川内は、広々とした芝生のキャンパスに中層の建物は教職員宿舎くらいで、教室や図書館などほとんどの建物が木造の平屋だったと思う。運動部の部室は駐留米軍のかまぼこ型兵舎だった。「川内に着きました」とタクシーの運転手さんに言われても、コンクリートのしゃれた建物が立ち並ぶ光景に、どこがどこだか見当がつかない。
 柔道場がある川内サブアリーナは3階建てで、柔道場はその3階にあった。50畳の試合場が2面取れ、さらに余裕のある道場は、私が稽古していた頃の剣道場と柔道場が一つ屋根の下にあった瓦屋根の木造の平屋とは大違い。天井を見れば何とエアコンが付いている。冬の稽古では、道場の梁にかけておいた汗に濡れた柔道着が翌日は凍っていたし、冷たい畳での稽古でかじかんだ足は、稽古が終わっても冷たいままだったことを思い出した。何とも贅沢な環境だ。
送られてくる部誌で女子部員がいることを知ってはいたが、実際に柔道着を着て高音のかけ声を発して稽古している姿を目の当たりにすると、後輩の女子学生ということで、テレビで観る女子柔道の試合と違った親近感を覚えたが、隔世の感もまた抱かざるを得なかった。
 我々の時代と同じく高専柔道(旧制高等学校・旧制専門学校の柔道大会で行われた寝技中心の柔道)ルールでの試合は、寝技の攻防、特に締め技や関節技が決まった時の手での「参った」の合図に、40数年前の学生時代の稽古や試合のことが思い出された。よくぞこのような過激な稽古を、入学時はどちらかというと虚弱だった私が5年間(1年留年したので)も続けられたものだと感心すると同時に、現役の男子学生の盛り上がった胸の筋肉を見ると、見る影も無くぶよぶよになった現在の自分の体に歳月を感じ、また、酒と美食を追い求める怠惰な日々を恥じるのであった。
 来賓と卒業生117名と部員27名が参加しての記念式典、祝賀会では、私が主務(マネージャー)の時、米国に留学していた先輩に手紙で柔道部への寄付をお願いしたところ、ドルの小切手を送ってくださったその先輩も来ておられ、当時の話をしたら「そんなこともあったけか?」と懐かしがられた。また、「七大学戦優勝主将に聞く」ということで、昭和27年の第1回大会で優勝した時の先輩に始まり、優勝した歴代の主将が、試合の経過報告の後それぞれ当時の思い出を話した。
私が柔道部に籍をおいたのは昭和40年から5年間だったが、入学した年は東北学生チャンピオンを主将に擁していて13年ぶりの優勝が確実視されていたのにまさかの敗退。仙台に帰ってきた先輩方のうつろな表情と次期主将の丸坊主にした頭を今でも思い出せる。その後の我々の時代は1回戦で勝っても2回戦で敗退か、1回戦で敗れて敗者復活戦に回ってまた敗れることが多かった。私の優勝経験は、4年生の時に我々から持ちかけて始めた北大との定期戦で勝ったことだけ。それでも、その時の感激と道場の畳をはぐって行われたジンギスカン鍋の懇親会を覚えている。
 卒業後、自宅に送られてくる部誌で2回目の優勝を知ったのが、京大で行われた昭和61年の第35回大会。引き分けのまま代表戦でも勝負がつかず京大との2校優勝だったが、第1回大会の優勝以来、実に34年ぶりの優勝であった。翌年も京大と優勝を分け合い、その後は平成10年、15年、18年、そして20年と優勝している。大したものだ。七大学戦優勝を体験できた部員は、さぞかし嬉しかったことだろう。
 祝賀会の後は、昭和44年卒から48年卒までの5代の合同同期会を、仙台市の郊外の秋保温泉で行った。福岡県や三重県、神奈川県など全国各地から29人集まったが、私は留年したおかげで48年卒の顔も知っていて、若くても61歳だから頭髪や体型はすっかり変わっているが表情は変わらないもので、飲むほどに酔うほどに心は学生時代に戻り、楽しい時間を過した。
 さて、私には1回目の4年生の時の名古屋での名大との試合を忘れられない。7大学戦は15人の選手による1本勝ちのみの勝ち抜き戦で、私は14人目の副将で出たが13人目まですべて引き分け。引き分け役の私は、相手も引き分け役の選手とお互いに攻めることなく8分間の試合を終え予定通り引き分けて、同じ昭和40年の経済学部入学で仲がよく、柔道部の同期で残った5人の中でただ一人の柔道経験者であった主将を務める大野君に勝敗を託した。名大の大将の須崎君は7大学有数の選手であり、大野君は一度は横四方固めで抑え込まれたものの何とか逃れたが、再度抑え込まれ万事休した。あの時、引き分け役であってもなぜ攻めなかったのか、勝てたら、次の試合では負けたとしても須崎選手を疲れさて大野君にまわせたのではないかと、卒業後もずいぶん長い間、何かの拍子に思い出し悔やんでいた。
 しかし、卒業して40年以上経った今日、柔道部のおかげで良き友に出会い、今回も創部60周年を機に旧交を温め、学生時代の数々の思い出を蘇らせることが出来たことを実にありがたく思う。決して自慢にはならないが、やはり私は、経済学部卒というよりは柔道部卒である。両方とも、決して優秀ではなかったが。

65歳

2011.11.01

11月12日の土曜日、中学校の同期会に出席した。出席者は、男性が12人、女性が9人の全部で21人。
 私は、富山に戻った昭和50年、28歳の年からずっと同窓会の学年幹事をしていて、同期会も私が段取りして2、3年に一度くらいのペースでお盆前に行ってきた。40歳を過ぎたころから、会場は同期の女性のIさんがお姉さんと一緒に営む料亭で行うようになっていたが、50歳になった年のこの席で、これからは毎年ここで行おうということになり、3年前まではその通りに実施していた。しかし、一昨年の6月にIさんが病気で亡くなり、同期会も中止した。その代わり、彼女と親しかった同期生が11月に同じ会場に集まり、彼女を偲ぶ会を行った。その席で、お盆よりもこの時期のほうが集まりやすいのではないかという意見が出て、今後は秋に同期会を行おうということになった。
 ここ数年間、同期会の案内は亡くなったIさんの親友のUさんが行ってくれていたが、昨年はUさんの家庭事情と私の怠慢で行えず、2年ぶりの今年の開催となったのである。
 東京、神奈川、名古屋、金沢と、県外からも8人が来てくれたが、久しぶりに参加した人にはお互いに誰だか分からないということで、自己紹介になった。
 私が一人ひとり指名して、最初に女性、次に男性が自己紹介したが、男性の自己紹介では、私ともう一人がオーナー経営者、もう一人がそれに近い立場、また二人が開業医で、この5人が現役で毎日働いていた。しかし残りの7人は、会社を定年退職した後、同じ会社か関連会社で再雇用や嘱託として働いていたが、昨年64歳で、あるいは今年65歳になって完全に会社を離れ、年金生活になっていた。たまにアルバイト的に以前の会社を手伝っている人もいたが、「毎日サンデー」のようで、現役のころは精力的でギラギラしていた男性も、とても穏やかになっていたし、他の男性からも、リタイアするとこんな感じになるのかと思わされた。
 県外から参加の同期生には、富山には実家が無くなってしまっていて、お墓参りをしてから同期会に参加した女性、また、実家はあるものの姉が管理していて、墓は自分の住むところに移した男性もいた。
 早生まれの私は、かろうじてまだ64歳だが、今回の同期会ではこれまでのように再会を懐かしむことに加え、一般的に高齢者といわれる65歳から先の生き方を考えさせられてしまった。
 国の財政難から年金も支給開始時期がどんどん遅くなり、支給額も減額される情勢にあって、65歳以降は、更には、75歳以降の後期高齢者(この後期高齢者という言葉を、聖路加国際病院の日野原理事長は老人に対する無礼な言葉であるとして、代わりに「新老人」と名付けられ、「新老人の会」を設立された)になってから、そして、85歳以上の末期高齢者(この用語はインターネットのWikipediaに出ていて、後期高齢者以上に老人を邪魔者扱いする実に心無い言葉だと憤慨した)になったら、どのように生きていきたいかと考えさせられた。
現在喜寿を過ぎている私の知り合いのお医者さんは、「俺は、若い時からずっと人の命を救うことを使命として一生懸命に働いてきた。十分に社会貢献してきたと思う。だから定年以降は仕事はせず、オッカアと旅したり、知人とマージャンを楽しんでいるんだ」と何度か言われた。それも、ひとつの考え方だと思って聞いていたが、今回の同期会での男性たちの話を聞いて、やはり、働いていることの方が私の性分にあっていると思った。
 建設業にとっても介護事業にとっても非常に厳しい経営環境ではあるが、私が参加している勉強会の合言葉“75歳、現役バリバリ”を実践すべく、富山の社会基盤整備や維持のために、また、富山のお年寄りの幸せのために、がんばって仕事をしたい、そのためにも、もっともっと勉強しなければいけないと思った。
 日本が超高齢社会となり大変だと騒いでいるが、考えてみれば、労働力の中核をなす生産年齢人口を15歳以上65歳未満と定義して、65歳以上は高齢者と位置づけ、働かないものと考えるから大問題になるのである。今よりももっと高齢化が進み、年金が当てにならない時代に高齢者になる当社の若手社員には、65歳になっても死ぬまで働き続けることが出来る能力と健康を身につけることを、若いうちから考え実行するように奨めたい。

創業70周年感謝の集い

2011.10.04

このコラムが社内報LEMONに掲載され、給料日に社員の皆さんの目に触れるのは、10月23日に行われる「朝日建設創業70周年感謝の集い」の2日後です。
そこで今月のコラムは、「創業70周年感謝の集い」で私が行なう挨拶の準備を兼ねて、話す内容を箇条書きしたメモとします。(以下は、その後に修正を加えた実際の原稿です)
・ 朝日建設が創業してからの70年間をDVDで振り返りましたが、いかがでしたでしょうか?
・ 朝日建設の前身の「巴組」が昭和15年10月に創業し、それから35年目の昭和50年4月に私は入社した。それからさらに35年が経ち、今月創業70周年を迎えることになった。だから私は朝日建設の歴史のちょうど半分の35年間を朝日建設で勤務してきたことになる。そう思うと、これまでの会社の歴史と自分の人生が重ね合わさり、これからの80周年、90周年、そして100周年に向かって朝日建設をさらに発展させることが自分のこれからの人生だと思わされる
・ DVDで紹介されたが、祖父林銀蔵が昭和21年10月18日、巴組を組織変更して、株式会社朝日組を設立した。この朝日組の社名は「朝日のごとく社業が上昇するように」との願いと決意を込めて命名したもので、自分の苗字をつけて「林組」としたのではないところが凄い。そして、1年半後の昭和23年4月には現在の社名の朝日建設?式会社に社名変更したが、これまた「組」でないところが凄い。今でも、創業者の苗字と組をくっつけた社名の建設会社が多いことを思うと、終戦直後からの朝日建設の社名に誇りを感じ、ハイカラだった祖父を尊敬する。
・ DVDの後半でバックに流れた曲は、ジャズの名曲「Softly as in a Morning Sunrise」日本語で「朝日のようにさわやかに」である。私は本社の応接室で来客にこの曲を聞いてもらっているが、私はこの曲を勝手に当社のテーマ曲と言っている。それは「朝日のようにさわやかな会社でありたい」との想いからだが、祖父の「朝日のごとく社業が上昇する会社」の想いとどこかでつながっている気がして、「孫なんだなあ」と何だかうれしくなる。
・ 終戦の日からわずか2ヶ月後の昭和20年10月に巴組は富山市庁舎の新築工事を手がけ、?朝日組となった昭和21年秋には、北日本新聞社の木造2階建ての社屋を50万円で請け負うが、翌年夏の完成時までに原価が90万円かかったと「50周年記念誌」の中で先代社長が語っている。また朝日組は、富山市牛島での富山市立神通病院新築工事の1期、2期工事を請け負い、昭和22年8月に完成させているし、市営住宅の建設も行なっている。
朝日建設といえば、業界はもとより世間でも「舗装の会社」のイメージが強いが、設立時は建築がメインであったのである。そしてその後60年あまりの間に舗装工事電気設備工事護岸工事、下水道工事、富山空港滑走路舗装工事嵩上げ工事、カラー舗装やエポキシ樹脂舗装などの特殊舗装工事、さらに近年は、富山北大橋と富山大橋の橋脚や橋台、そして昨年はライトレールの軌道敷工事を手がけるなど、建築工事から離れて、土木・舗装工事や電気工事を手がけてきた。
・ また、平成5年には前田道路と再生アスファルトプラント「とやまエコン」を共同企業体で設立し、平成13年には世紀東急工業、鹿島道路を加えた4社で「ほくりくエコン」を設立している。
・ 新分野にも進出し、老人介護事業を行なうために別会社朝日ケアを作り、平成15年から富山市北代で「あさひホーム」を、平成18年から富山市吉作で「あさひホーム吉作」を運営している。
・ そして今年は定款を変更して、先月から福祉用具の販売・レンタル事業を始めている。
・ 70周年に際して改めて創業から今日までを振り返ると、今述べたような施工する対象工事や新規事業だけではなく、内部的にもいろいろ変化があったことが思い出させられる。
・ 昭和43年の定年60歳の採用、昭和49年の定年65歳への延長、女性技術者の採用、昭和51年からのコンピュータの利用・活用、定昇・ベアの無い賃金制度の導入、新しい工事原価管理や工程管理手法の導入などである
・ 私は当社がそれほど大きく変わってきたとはこれまでは思っていなかったが、このように振り返ると、やはり変わってきた、また変わってきたからこそ、今も存続できているのだと思わざるを得ない。
・ DVDの最後のスライドは、今月の2日に北日本新聞に掲載された「新経済人」であったが、その中で「変わることに抵抗はない」と言っている。そのように言ったかどうか良く覚えていないが、確かに現状維持よりは変えることを選択してきたといえる。
・ しかし、記事の見出しの「改革続けて前進」に、改革とは大袈裟だと感じた。他の産業で行なわれている改革に比べれば、改革といっても高が知れている。保守的、現状維持的な会社が多い建設業界なので他社と違って見える程度だろうと思う。
・ でも折角記事の見出しに「改革続けて前進」とつけてもらったからには、これからは改革という言葉に値する改革を行っていきたい、そのためにも「改革恐れず前進」することを意識して経営に当たりたい。
・ 今日のパーティーを「感謝の集い」としたのは、現在の当社に関わっている社員の皆さん、そして協力いただいているアサヒ会の皆さんの誠実な働きがあってこそ、今日の日を迎えることが出来たとの想いからである。心から感謝の意を表するとともに、実行委員会が企画した今日のパーティーをぞんぶんにお楽しみいただきたい。
・ 創業100周年の時、私は93歳。90歳の父が本日ここに70周年の集いに参加したように、私は93歳で100周年の集いに参加したいと思う。その時のパーティーも、この電気ビルで行なうので、野上支配人さん、よろしくお願いします。