「新老人の会」拡大世話人会

2011.10.01

私は「新老人の会」富山支部の世話人代表として、10月17日(月)に、三重県志摩市のリゾートホテル賢島宝生苑で開催された拡大世話人会に出席した。拡大世話人会は例年3月下旬に行われるのだが、今年は3.11の大震災のため開催時期を遅らせ、10月の全国大会に合わせての開催となった。
「新老人の会」は、老人介護事業の朝日ケアとは少しは関係があると言えるが、建設業の朝日建設とはほとんど接点は無い。その「新老人の会」富山支部が先月9日に、「新老人の会」会長であり当時99歳で今月4日に100歳を迎えられた聖路加国際病院理事長の日野原重明先生の講演会を、高岡文化ホールで開催した。昨年7月に日野原先生から、今年9月9日の高岡での講演会を日程も場所も指定で指示され、開催に至るまでのその後のいきさつは先月のコラムに書いたが、その間の準備に要した時間と労力はそれなりのものがあった。
 当社の専務に、「社長は老人でもないのに、なぜ「新老人の会」に入らなければいけないのか?」と何度か尋ねられた。これは、私が建設業界や経済関係の多くの団体に入り役職も務めている上に、ロータリークラブといったいくつかの社交団体にも入っているので、加入団体を減らすようにと常々注文されていて、その延長線上の発言であることは明白である。
 10月16日の早朝、妻にJR呉羽駅に車で送ってもらった時も、「和夫さんで無ければ駄目なの?他の人に行ってもらう訳にはいかないの?」と聞かれ、「全国の支部の世話人代表が集まる会なのだから、本人が出るべきなのだ」と偉そうに返事した。
 専務や妻からこの様に思われている「新老人の会」なので、出席するからには今後の支部活動の参考になる情報を得たいと思って、今回も出かけた。
 近況報告では熊本支部からの、平均年齢73歳の40人の会員が3ヶ月間に35回の稽古をし、当日は日野原先生も60何歳かのジョン万次郎役で出演された“太平洋に架ける虹「ジョン万次郎物語」”の上演報告に驚かされた。
 シンポジウム「いのちの大切さを伝えていくために」では、北東北支部からは先の戦争の間の子どもたちの体験記「われらの日々」の発刊、兵庫支部の「戦争体験を語り継ぐ会」の小学校での活動、熊本支部の「語り継ぐ戦争の記憶」の発刊などの活動報告、そして岡山支部と宮崎支部からは、会員自身による「いのちの授業」の実践活動が報告された。
 初めて拡大世話人会に参加した一昨年は、各支部の報告を聞くにつけ、富山支部の不活発さを思い知らされ、昨年は、会員数が全国で最も少ない富山支部では何をするのも難しいだろうとあきらめの気持ちを抱かされた。しかし、9月9日の講演会の成功を受け、30名以上の新しい会員も加わった状況での今回の参加では、「新老人の会」の3つのモットー「愛し愛されること」、「創(はじ)めること」、「耐えること」の内の「創めること」として、反省会を兼ねた全体会を11月中に行い、今後の活動計画を協議し、次の時代をより健やかにする役割を担う活動を富山支部として心新たに創めよう、と思った。
 新しい出逢いもあった。朝、近鉄賢島駅から会場の宝生苑へ向かうバスには、私の他は私と同年配の女性一人だけであったが、宝生苑で、会議場に向かうエスカレーターに乗りながら「どちらからお越しですか?」と尋ねたら「宮崎です」と答えられた。その方が、シンポジウムでの宮崎支部の発表者であり、会議が終わってからの昼食会では、同じテーブルに隣りあわせで座ることになった。名刺交換したら宮崎市にある医療専門学校の副校長とあるので、私が、建設業の他に老人介護事業もやっていると話すと、彼女の学校の母体も特別養護老人ホームを経営しているが、彼女自身は、民家を利用して、お年寄り5人を看取りまで考えての介護をしている。しかし、役所の制約を受けるのが嫌だから、介護保険の対象事業では行っていないとのこと。そして、良い介護をすればするほど経営は赤字との言葉に同感した。また、巻頭に「丁寧な死の看取りこそ、看護師の社会的役割」と題した文章が載った「新老人の会」宮崎支部の会報第5号を見せられ、「ヘルパーも吸痰などの医療行為ができるようになってくる時代に、看護師が生き残るには、看取りができることだと思う」と話された。
 毎月本部から本部会報と一緒に各支部の会報も送られてくるが、支部会報は読んだことがなかったのに、なぜか宮崎支部のこの会報の巻頭の文章だけは読み、コピーして朝日ケアの介護部長に渡した記憶がよみがえった。これも縁なのだとつくづく思うとともに、本業だけでなく本業以外の活動も、精一杯上手にやろうと思う。これも、私が生きている証なのだから。

 

「新老人の会」講演会を終えて

2011.09.01

                                                     
 私が世話人代表(支部長のようなもの)を務める「新老人の会」富山支部が主催して、9月9日に高岡文化ホールにおいて“「新老人の会」会長 日野原重明先生 百歳記念講演会”を開催した。今月号では、この講演会の開催経過を振り返ってみたい。
 
 私は、平成21年4月に「新老人の会」富山支部の2代目世話人代表に就いたが、昨年7月14日に七尾市の小学校で行われた日野原先生(以下 先生と言う)の「いのちの授業」を、勉強のためにと思って参観した。参観を終えて関係者控室に戻ったところ、先生が私に、「来年の9月9日に高岡で講演会をやってください」とおっしゃるではないか。先生が会長を務める音楽療法学会の総会が翌日に富山市であるので、それに合わせて「新老人の会」の講演会を富山市ではなく高岡市で行えば効率的かつ効果的だと思われたのだろう。しかし、よく1年以上先の予定を覚えておられ、これまであまり会ったことも無い私を見て、即座に9月9日の高岡市での講演会開催を思いつかれたものだと思う。

 さて、「新老人の会」の地方支部規約には、“地方支部世話人代表(1名)は、「新老人の会」会長により任命される。また、地方支部世話人は地方支部世話人代表により10名以上20名以内の範囲で選出され、「新老人の会」会長の承認を得る”となっているのだが、富山支部が設立された平成19年3月から2年間、世話人代表一人だけで他に世話人はいなかった。そんなことも知らずに初代の世話人代表に頼まれて、軽い気持ちで世話人代表を引き受けた。引き受けたからにはまずは世話人を決めようと、その年の7月に富山支部会「会員の集い&ピアノコンサート」を開催した。プロのピアニストで、あさひホームの介護スタッフでもあった福井るりさんのピアノ演奏後に議事に入ったが、素敵なピアノ演奏の余韻が残る中での協議となり、議題にはしっかり「世話人の選出」を書いていたのに、時間も少なく、結局世話人を決められないままにお開きとなった。

 そこで、世話人代表2年目の昨年は、6月に行った「会員の集い&ピアノコンサート」の前に前年の反省を踏まえて、二人の世話人を個別にお願いして決めておいた。一人は私の勧めで会員になり、3月に富山県庁を退職されていた女性、もう一人は前世話人代表の娘さんで私の知人の奥さんである女性である。会員の集いでは、私が男性会員の何人かに世話人を打診し、学校の先生をされていた男性お一人に何とか引き受けていただけ、ようやく3人の世話人が決まった。
このようにして私以外の世話人が決まった翌月に、先生からの講演会開催のご指示である。全国に32支部(当時)あるが、ほとんどの支部が会員数100名以上であり、多い支部では400名、500名、先生の出身地の山口県では600名を超える会員を擁しているのに、会員数40名と最も少ない富山支部での講演会開催は非常に難しいと思った。しかしすぐに、現在98歳の先生は今年10月の誕生日で99歳になられ、来年の9月9日は未だ99歳、9が2つ並ぶ9月9日に99歳の先生の講演会を行うのはチャンスではないか、と思った。こんな楽天的なところが、いかにも私らしいと、今にして思う。
 
 そこで、前述の「いのちの授業」の翌日7月15日に金沢で開催された石川支部による先生の講演会に参加した10名ほどの富山支部会員には、「昨日先生から、来年9月9日に講演会をするように言われた。検討しましょう」と話した。講演会終了後の先生を囲んでの懇親会では、石川支部の方からの「来年も金沢で講演会を行いたい」という申し出に対し、本部の事務局長は「来年は9月に富山支部が高岡で開催するから再来年にしてください」との返事。先生の講演会を開催するには1年半ほど前から手を上げ、本部で調整してもらわなければなければいけないのに、先生から日程と場所まで指定されての講演会開催である。事務局長からは、「無理だったら、やらなくても良い」とも言われていたが、これで私の腹が決まった。この懇親会に私の他にもう一人富山支部から男性会員が参加していたが、この方の奥さんを私が知っていたこともあって、講演会開催のために世話人を引き受けて欲しいとお願いし、快諾してもらえてラッキーだった。
 
 1週間後の7月22日には、富山支部初めての世話人会を当社で開催した。4人の世話人の他に、平成20年11月に富山国際会議場をメイン会場にして、私が実行委員長として行った国際ロータリー地区大会で、トータルでコーディネートをお願いした会社の女性担当者にも来てもらった。彼女は、高岡市内の会場リストと、9月10日の音楽療法学会総会では、県民講座としてオーバードホールにおいて無料で先生の基調講演が行われるという貴重な情報も持ってきてくれた。

このリストと翌日の無料講演会の情報から、富山県の県民性(ケチ)を考えると、1000円の参加費を払って参加する人は少ないのではないか、また、交通の便を考えると、705席の高岡文化ホールより、JR高岡駅前にある403席のウィングウィング高岡がよいのではないか、そして、講演会よりも、高岡市の小学校の児童に「いのちの授業」をステージの上で受けてもらい、それを参観するという公開形式が良いのではないか、という画期的なアイデアが世話人の中から浮かんだ。

 しかしこのアイデアは、本部からの、公開形式の「いのちの授業」は子供たちが緊張して普段の教室での授業のようにいかなく、先生も声の小さな子の代弁などで心身の負担が大変なこと、また、本部としては、富山県は「新老人運動」の趣旨の啓発が足りない地域なので、趣旨を啓発するために講演会を開催して欲しい、だから会場も高岡文化ホールで満席にして欲しい、という指導(?)で没となった。そこで、世話人会で協議して高岡文化ホールでの講演会実施を決め、11月に富山支部の全体会を開催してこの旨を報告し、協力依頼した。参加した方はほとんど70歳代80歳代だったが、皆さん積極的に発言され、これなら何とか開催できそうだという感触を得た。

 今年に入ってからは、何度も世話人会を行って、会場予約の他、チラシのデザインと配布先、後援団体の選定、第2部アトラクションの内容と出演者、募集と申込み方法などさまざまな検討を行い、後援依頼にも回った。5月の連休明けから、刷り上ったチラシを後援団体に世話人が手分けして持参した。また、5月31日に全体会を開催し、チケットの販売やチラシの配布を依頼した。
 
 6月1日から当社宛の申し込み葉書の受付を開始したが、出足が悪く、400名くらいにしかならないのではないかと不安になり、私が所属するいろんな団体にチラシとFAX申込み用紙を届けたり、メールで案内したりした。世話人会では、高岡の高校生と看護学校生を無料で招待することに決めた。
ところが7月に入ると毎日のように私の机の上に申込み葉書が置かれ、また、チケットの販売代金も増えていった。7月27日には全体会を開き、当日の役割分担の確認や、入場券(葉書)の宛名書きを行った。7月末には申し込みが820人ほどになり、受付を締め切ることにした。しかし、8月に入っても申込み葉書やFAXが届き、問い合わせ担当の世話人は、お断りの葉書の発送に追われた。9月になっても何件かの申し込みや問い合わせがあり、日野原先生の人気に驚くとともに、世話人会では700人を大幅に超した場合の来場者対策も検討した。
 
 そして、ついに9月9日がやってきた。私が車で先生を富山空港に迎え、高岡への途中、あさひホームに寄って利用者さんと一緒に記念撮影していただいたが、文字通り「役得」であった。会場についてからは、開場前の30分間ほど、会場に設けた先生の著書販売コーナーで本を買った人へのサイン会をこなされた。このサイン会は、どこの支部の講演会でもなさっておられるのだが、1冊7秒のスピードでサインされていた。
定刻の12:30に始まった講演会、そしてアトラクションについては、紙面が無くなったので、何度も富山での会議に参加していただきアドバイスをいただいた石川支部の高山さんからの以下のメールから想像していただきたい。
 
 『講演会が良かったと言った10回以上も日野原さんの講演会を聞いたという会員に、何処が良かったのかと質問したところ、以下のような返事が返ってきました。
今回が一番良かった。高岡講演会は日野原先生の講演内容自体が中身のある(前回の金沢講演と比べて数段違った)一時間でした。

 そして、アトラクションが参加者の年齢層に合った内容であり、
1)まず、日野原先生の主旨に合わせたコーラス〜いのちの旅〜の流れ
2)童謡も参加者の立場に立った選曲と指揮者(肥田きくゑさん 89歳)の意義等
3)全員合唱の選曲の新鮮さ(高岡で生まれ、今年生誕120周年の室崎琴月作曲の「夕日」)
4)パンフレット及び入場券、入場整理券代わりの案内ハガキ等の出来具合
5)当日の入場者等を考えた対応等
6)富山支部代表の挨拶内容(注:当日が9が重なった重陽の節句であることの紹介から始めた)
7)懇親会(茶話会)も日野原先生のあの程度の時間であれば、あの場所とセルフのケーキセットは妥当であった。

 他に、85歳の男性会員は肥田きくゑさんのお元気な姿にびっくりしたと話してくれ、私も、もっと頑張らなくてはいけないと言っていました。』
 
 これまでに、青年会議所やロータリークラブなどで、今回とは比べ物にならない規模の大会を、中心的な役割を担って実施してきた経験のある私だが、今回の講演会を終えての感動と充実感は、これまでのそれに勝るものであった。それは、最初から最後まで、世話人の皆さんと一緒に考えたり悩んだりしながら、皆でオリジナルな講演会を作り上げたと強く感じられたこと、そして、70歳代、80歳代の会員の皆さんの、日野原先生に対する敬愛の念の強さと、年齢を感じさせない行動力やお一人おひとりの前向きな姿に感動したからであろう。
 
 「新老人の会」の3つのスローガンのひとつ「創(はじ)めること」を実感できた機会となり、また、今後の活動に対する方向性を見出すこともできた講演会の実施であった。

  


 

お盆休みの片付け

2011.08.01

本社4階営業部の7人が、3階の総務部と同じフロアに移った。これもリストラの一環である。リストラと言っても、営業部の7人、総務部の3人の合わせて10人の社員数を何人か減らした訳ではない。リストラは英語の Restructuring の略語で、本来の意味は「再構築」であるから、いささか大げさだが、仕事の効率を上げるために、本社社屋の3階と4階のフロアの使い方を「再構築」したのである。
 本社の4回線の電話は最後の数字の番号によって、代表電話番号の441-3201は3階の総務部の女性社員、それ以外の番号は4階の営業部と2階のユニバーサルデザイン室(UD室)の女性社員の電話機が鳴るように設定されている。ただし、総務部の女性の電話機だけはすべての番号が鳴るようになっている。
 これまでは、2階のUD室や、4階の営業部に用事がある人が代表電話番号に電話すると、電話を取った総務部の女性社員はその電話を一旦保留し、目的のフロアの相手を呼び出し、電話をかけてきた人の名前を告げて転送していた。転送先の社員が不在の場合は、電話を取った社員がその旨をかけて来た人に伝えるか、不在だと言って総務部に戻していた。皆さんも、電話をかけたものの、「しばらくお持ちください」と言われ、長らく待たされた挙句、「ただいま外出中です」と言われた経験があると思う。これでは、電話をかけてきた人にとっても、電話を転送したもののその電話がまた戻ってきて対応する総務部の社員にとっても時間の無駄だ。
 ワンフロアになれば、一目で部屋にいるかいないか、外出なのかどうかが分かり、電話をかけてきた人にとっても、電話を受けた社員にとっても時間を有効に使うことが出来る。また、フロアが分かれていると、書類を届けたり、頼みごとや質問をするにも、階段を上り下りしなければいけない。これだって時間の無駄と言える。
ということで、経営が非常に厳しくなっていることに鑑み、仕事の効率を上げるためのひとつの方策として4階から3階への引越しを決め、お盆前から準備を始めた。この引越しの一番の課題が、総務部のフロアにある私の2つの机、そして、私の椅子の後ろの本棚にぎっしり詰まった書類と、机の上や周りにうずたかく積み上げられている書類だった。3年前に電気部をUD室に組織変更し私がUD本部長になってから、私は常に2階のUD室フロアで仕事をし、3階の私の机の上は私が2階から運ぶ書類で一杯の状態になっていたので、今回の移動は私の書類廃棄の手段でもあった。
 お盆明けの17日に移動することになり、13日から4日間のお盆休み中、私は午後4時間から8時間、エアコンもつけず、上半身下着姿で片付けに励んだ。何しろ、私が昭和50年に入社してから36年間の書類である。各種加盟団体や委員として出席した審議会などでの資料、参加した講演会やセミナーの資料、社内会議資料や賃金関係の資料、社員の作文、個人の生命保険証書や古い銀行通帳、さらに新聞の切抜き、名刺、写真、フロッピーディスク、文房具、各種バッヂ、ネームプレートなどなど雑多である。思い切って捨てれば2日間くらいで終わると思っていたが、残す資料を区別するのに時間を取られ、手を止めて懐かしい写真や名刺を眺める時間も多かった。写真を見れば、髪の毛が黒いし若かったなあと思い、名刺を見れば、こんな女性に会ったかなと思った。
 いろいろ貴重な資料に出会ったが、あるセミナーに出席した時のメモに、私の汚い字で、「時は金なり、というが、時は命なり、である。」と書かれていた。お金は失っても取り戻せるが、命は失ったら取り戻せない。だから、時は、お金以上に大切にしなければいけない、というものだった。
 これを見て思ったのが、「新老人の会」会長の日野原重明先生が、小学生への「いのちの授業」で話される、「命とは時間」だった。「時は命なり」を反対にしたのが「命は時なり」だと一瞬思ったが、何度か思い返しているうちに、そんなに単純なものではないと思えてきた。
 日野原先生は、「命は風や空気中の酸素のように目には見えないけれど、朝起きて、食事をして歯を磨き、学校に来て勉強したり遊んだりしているのは、時間を使っているということであり、時間を持っているということ。だから、命とは時間」と話される。命は時間を使うことなのだから、その時間を誰のためにどのように使うのかが大切なのだとおっしゃっている。単に、失ったら取り戻せないから大切にしましょう、と言っておられるのではないのである。
 お盆休みの片付けの時間は、命について考え、これからの人生を、仕事に、家庭に、地域に、日本に、世界に対して、どのように時間を使ってかかわればよいのかと考えさせられた時間であった。また、36年間の歳月を生きてきた私の命について、振り返り反省させられた時間でもあった。
 これからは出来るだけ整理整頓された机に向かい、経営者としてなすべき仕事をしっかり考え着実に実行し、密度の濃い時間を使いたいと思う。