東北地方のこと

2011.04.01

 私は、47年前の高校3年生のとき、大学の受験勉強の合間に宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」を読んだ。この作品がとても心に響き、次に賢治の詩を何篇か読んだ。詩の中に登場する東北弁が心地よく感じられ、作品の舞台である東北地方に惹かれた。そして、東北大学に行きたいと思った。
3年生の学力試験の成績はだんだん下がりで、志望校を決める時点での学力では東北大学経済学部は危なかった。しかし全国模試でのA判定を信じて受験した。
 受験には母が同行してくれたが、上野から仙台に向う列車の中は東北弁が飛び交っていた。母は、「何を話しているのか全然分からない」と言ったが、私には東北弁がなぜだか懐かしさを伴って耳に入り、話の内容が全て理解できた。賢治の作品を読んでいたからだと思った。
 うまく東北大学に入学できた私は、体を鍛えようと柔道部に入り、そこで同じ経済学部の和田君に出会った。彼は大変な文学青年だったが、教養部2年生の時、3年生からの学部では専門の勉強に専念することになるので、教養部でもっと幅広く勉強したいという理由で留年した。オッチョコチョイの私は彼の考えに共感し、私も留年しようと父に電話したら、「馬鹿者」と一言で退けられた。ならば学部で留年してやろうとひそかに決めて、4年生のときに1科目だけ残して計画的に留年した。親には、経済学をもっと勉強しようと思うと言っての留年であり、自分自身もそのように考えていたが、学生に対して親切な仙台の人たちの人情や、東北の風土から離れがたくての留年であったことは、2回目の4年生のときの勉強態度から明らかである。
 そんな私は、5年間も仙台にいて、有名な七夕も風光明媚な松島も一度も見たことが無かった。しかし、卒業前年の昭和44年の秋、宮沢賢治が生まれた岩手県花巻市をぜひ訪ねたいと、今でも思い出に残る4泊5日の岩手県一人旅をした。
 学生手帳に書き込んだメモによれば、初日は岩手県一関に向かい厳美渓を見た後、平泉に行き、高館義経堂中尊寺を回って盛岡で泊まった。二日目は、小岩井農場に出かけ、牧場に寝転び、賢治の作品に登場する岩手山をながめながら、賢治の詩を読んだ。この日の宿泊は宮古。三日目は、バスに乗って陸中海岸国立公園の中心をなす宮古の代表的な景勝地浄土ヶ浜に出かけ、遊覧船で巡る。バスと遊覧船で一緒になった一人旅の女性に心惹かれたと書いている。その後、釜石に向かい魚市場などを見物してから、柳田国男の「遠野物語」で有名な遠野に行って泊まった。翌日は、遠野の福泉寺に出かけ、福泉寺にある新四国八十八カ所霊場を参詣してから、「遠野物語」にでてくる狐でも飛び出してきそうな山間を、汽車で花巻に向かう。花巻の先の台温泉で宿を探すが、11月2日、3日の連休前の土曜日のため、どの宿も満員。やっと自炊旅館を見つけて泊まったが、部屋の床が傾いていたことを思い出す。そして最終日は、花巻に戻って、賢治ゆかりの場所をまわった。「雨ニモマケズ」の詩碑が建つ羅須地人協会(らすちじんきょうかい)跡で賢治の童話を読んだとメモしている。その後、北上川をさかのぼって、賢治が「イギリス海岸」と名づけた場所を見る。「北上川は、おだやかな良い川だ」とメモにあった。
 私が大好きなこの東北地方が、3月11日に発生した東日本巨大地震で壊滅状態になってしまった。私が訪れた宮古や釜石でも、多くの方が亡くなり行方不明になっている。
 私は、東北地方の復興には、地震や津波を、これまでのものよりも格段に大きく強固な防波堤などで真正面から防ごうとするのではなく、上手にかわすことを考えることがひとつのポイントだと思う。それを踏まえた上で、東北地方のそれぞれの地域が持つすばらしい文化や伝統を途絶えさせないようにするには、どのような形で街づくりをすればよいかを考えることが大事ではないかと思う。
 そこへ、菅直人首相が13日、福島第1原発周辺の居住が長期間困難になった場合の移住先として、内陸部に5万〜10万人規模のエコタウンを建設する構想の提案に賛同した上で「市の中心部は、ドイツの田園都市をモデルに考えたい」と述べたとの新聞記事である。こんなことが軽々しく発言され実行されたら、東北地方の文化は死に絶えてしまうだろう。
 賢治の作品の中に繰り返し出てくる「イーハトーブ」は、「岩手」をもじって賢治が造った言葉で、賢治にとっての理想郷である。この「イーハトーブ」を深く理解し、そして実現することが、亡くなった方々の魂に報いる道ではないかと思っている。

東日本巨大地震

2011.03.01

東日本巨大地震が発生した3月11日(金)の午後2時46分頃、私は本社4階の会議室で午後1時から始まった「現場NOTE」導入プロジェクト会議に冒頭の1時間だけ参加した後、2階でデスクワークをしていた。地震発生時刻に揺れは全く感じなかったが、会議終了時刻の5時前に再び顔を出したら、東北地方で大地震が発生したと会議メンバーが教えてくれた。4階ではかなりの揺れは感じたが、2軒隣のビルの解体工事の揺れだと思ったとのこと。しかし、地震発生後すぐに隣室の営業部から情報が入って地震と分かり、会議を中断してテレビで津波の実況中継ニュースを見たと言う。そこで私もテレビを点けたら、津波が家や車を飲み込みながら田んぼを進んで行く凄まじい画面が飛び込んできて、言葉を失った。
 その後テレビはどのチャンネルも地震のニュースだけになり、死者、行方不明者の数は増え続け、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震による被害は、太平洋沿岸部の都市を軒並み文字通り壊滅状態に陥れた。
翌日の12日、私は午後から本社で、土曜日の日課となっている週間スケジュール表のチェックや確定申告書をe-Taxで作成していたが、巨大地震が頭を離れず、会社として、個人として何ができるだろうかと考え、とりあえず14日の月曜日には緊急の役員会を開き、義援金を贈ることを決めようと思った。帰宅したら、本日の午後、東京電力の福島第一原子力発電所の1号機で、爆発により炉心溶融の疑いを含む大事故が発生したとニュースで知った。
 そして日曜日の13日、私は大学に進学する次男の住むマンションを決めるために、彼と滋賀県の草津市に出かけた。順調にマンションを決め契約手続きを済ませ、午後5時過ぎに南草津駅行きのバスを待っていたところに、専務から携帯に電話。「何かあったな」と思いながら電話に出ると、国土交通省と防災協定を結んでいるF建設の社長から、災害救援のため明日の昼出発する部隊に、当社からもオペレーターを一人派遣してほしいという実に急な要請をされたとのこと。できるだけ協力するようにと専務に指示したが、結果が気になり、富山に帰るJRの中から専務に携帯メールしたところ、Tさんが行ってくれることになったと9時前に返信メール。ホッとすると同時に、Tさんに“ありがとう”との思いがこみ上げた。
 14日の月曜日、8時からの緊急役員会で、社員として10万円、会社として40万円の義援金を贈ることを決めた。S部長と一緒にやってきたTさんには、しっかり任務を果たしてくるようにと声をかけ、握手した。そして、昼には、北日本新聞社に50万円を届けた。
その後、津波による被害が増大し続け、福島第一原発の事故は日に日に危機的な状況になっていった。「日本沈没」の言葉もふっと頭をよぎるが、そんな悲観的な気持は払拭して、何としても復興させなければならないと、日本国民の一人として思う。
 復旧にはどのくらいのお金がかかるだろうかと、改めて、「公共事業が日本を救う」を読み返したら、以下の数字が目に留まった。
・ 利根川が決壊した場合のシミュレーションでは、経済的損失は約34兆円で、荒川が決壊した場合のシミュレーションでは、経済的損失は約33兆円で、この両方が同時に生じてしまうと、最悪の場合、約70兆円近くもの被害を首都圏住民は被ることになる。
・ 阪神淡路大震災では、6434名もの人命が奪われ、約11万棟が全壊・消失し、経済的損失は14兆円と試算されている
・ 首都直下型地震の被害想定では、経済損失は実に112兆円の試算もなされている。
 私はこれらの数字から、今回の東北、関東を襲った巨大地震の経済的損失は、わが国の国家予算の約90兆円を軽く上回るのではないかと思う。
 「公共事業が日本を救う」の7章「巨大地震」に備える の書き出しは、“地震から「絶対に」逃れられない国、日本”であった。だからこそ、日本の復興、そして日本の発展のために、個人として、建設経営者として、果たすべき役割は多いと思う。未来に希望を持ち、責任ある人生を歩まなければいけない。

ワーク・ライフ・バランス

2011.02.01

 新年式では毎年5つの経営指針を発表しているが、今年度の経営指針の4番目は“ワーク・ライフ・バランス(work life balance)「 仕事と生活の調和」の推進”である。
「ワーク・ライフ・バランス」を指針のひとつとした大きな理由は、先日2月15日に、名古屋市主催の「中小企業 活き・イキ人材活用セミナー」で私が行った講演のタイトルが、「私が考えるワーク・ライフ・バランスとは 〜踏み出そうワーク・ライフ・バランスの第1歩〜」であったことにある。
昨年の11月末に、名古屋市役所の担当者から送られてきた講演依頼文には、前述のタイトルが仮題として記されており、講演内容としては、「ワーク・ライフ・バランス」を企業の中で推進していくには、どこから手をつけたらよいか、どのように社員に利用してもらえばよいかと悩む中小事業主や人事担当者が少なくない。そこで、社長自身の「ワーク・ライフ・バランス」に対する考え方を示したうえで、実際に朝日建設で取り組んでいる各種ワーク・ライフ・バランス施策を紹介してほしいという要望であった。
インターネットのフリー百科事典Wikipediaには、『2007年(平成19年)末、政府、地方公共団体、経済界、労働界の合意により、「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」が策定され、現在、官民を挙げて様々な取組が進められている。』とあり、「ワーク・ライフ・バランス」は、割合に新しい政策である。
しかし、当社では働き方に関する取り組みとして、1991年(平成3年)から女性技術者の採用を始めていて、1994年(平成6年)には、雇用促進事業団が発行する機関紙「つち」の「わが社の小さな改善 大きな成果」のコーナーに、「人は資源」と題して選択月給制やリフレッシュカーの開発などとともに女性技術者の採用が取り上げられた。
1997年(平成9年)には、北日本新聞社の企業グランプリ富山の経営部門賞を受賞(記事1、記事2)したが、リサイクルアスファルトプラントやカラー舗装などとともに、女性技術者の採用拡大が受賞理由であった。
1998年(平成10年)には、私が書いた「わが社の輝く女性技術者たち」が建設大臣顕彰を受賞し、平成12年度には、女性労働者の能力発揮を促進するための積極的取組(ポジティブ・アクション)について、他の模範とも言うべき取組を推進している均等推進企業として富山労働局長表彰を受賞している。
そもそも私が女性技術者を採用しようと考えたのは、男性の技術者の時間外労働時間の多さを何とか解消したいという思いからであった。前述の「つち」にそのこと を書いているので、書き写してみる。
「時短を進めようとするときに一番問題なのが、会社で最も残業の多い土木工事課の男性技術職社員の長時間労働をどうするかでした。そこで女性でもできる仕事、あるいは女性のほうが上手にできる仕事があるはずだと考え、平成3年4月に高校の普通科の新卒女性を採用しました。この女性は3年後、写真撮影や出来高測量から、補修など小さな工事の現場代理人もできるようになりました。(後略)」
当社がこれまでに採用した女性技術者は、土木14名、電気2名だが、現在も勤めているのは、土木工事部の2名と、総務部に異動した1名、そして、ユニバーサルデザイン室で、福祉用具レンタルの営業をしている1名のあわせて4名だけである。有能な女性技術者ほど、結婚、出産後に保育所への送迎などで周りの社員に迷惑をかけるのではないかという思いから、結婚を機に退職していった。そこで講演のタイトルをきっかけに、今後は、事務職の女性のように、子育てしながらも働き続けられるようにしなければいけないと考え、今年度の経営指針に「ワーク・ライフ・バランス」を掲げたのだ。
ある経営コンサルタントは、「“企業は人なり”というが、中小企業においては人とは社長自身である」と言っていたが、その通りだと思う。「ワーク・ライフ・バランス」に関しても、私が最も関心を払わなければいけないだろう。そこで、男性の残業や休日出勤に対しては、私が週間スケジュールをチェックするとき、これまでのコメントに加えて、休日出勤予定者には、しっかり代休を取るようにコメントし、家族旅行をする社員には、良い思い出を沢山作るようにとコメントし、また、感想を求めるようにしている。
ただし、考えるべきは、充実した生活(ライフ)を送るためには、雇用が安定していることが前提であり、そのためには、どこかの総理大臣のように「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と叫んでいるだけではダメだということだ。自分が働く企業が成長、発展してこそ、そこに「ワーク・ライフ・バランス」を考えるゆとりが生まれるのであり、そのためには、仕事(ワーク)の効率を高め、時短しながら付加価値を高めることがなければならない。同じ仕事なら、どうすればこれまでより早く仕上げることができるかと、働いている時間中は必死に考えることだ。