話を聞いた途端に、NHKの『みんなのうた』で歌われていた「コンピューターおばあちゃん」を思い出させられた女性たちに出会った。
1981年に初めて放送され、その後もたびたび放送されたこの歌は、「明治生まれという高齢でありながら、かくしゃくとして博学、さらに英語にも堪能な自慢のおばあちゃん(コンピューターみたいになんでもできる祖母)への、孫の敬愛といたわりを歌い上げた佳曲であり、発表時の時代的な通念を織り込んだ歌詞でありながら、世代をこえて愛されている。「コンピューター」は当時、最先端技術であり、それは万能を意味していた:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」歌であるが、この説明を読んで歌詞やメロディーが懐かしく思い出された読者もいることだろう。
「コンピューターおばあちゃん」たちに会ったのは、3月23、24の両日、私が富山支部世話人代表として参加した、東京での「新老人の会」拡大世話人会であった。
「新老人の会」は、1911年(明治44年)生まれで現在も聖路加国際病院理事長をされている日野原重明(ひのはらしげあき)先生が、新しい老人の生き方を追及するために、1、自立と良き生活習慣や我が国の良き文化の継承 2、戦争体験を活かし世界平和の実現 3、自分の健康情報を研究に活用 4、会員がお互いの間に新しい友を求め、会員の全国的な交流を図る 5、自然への感謝と良き生き方の普及の5つの目標を掲げて2000年9月に結成された会であり、現在、東京に本部と全国に33の支部がある。
私は2007年に富山支部が設立された時にジュニア会員(60歳〜74歳)として入会し、頼まれて昨年4月に世話人代表を引き継ぎ、今回初めて拡大世話人会に参加して初日の23日に支部の活動状況を報告した。報告は事前に本部に提出した資料に基づいて行うのだが、報告書はなるべくワープロで作成し、メールに添付して送るように本部から要請されていた。しかし、2支部はFAX送信であり、やや見づらかった。
私の発表の後が鹿児島支部のおばあさんで、開口一番「私は現在83歳だが、本部からメールで報告するように要請されたので、3年前からパソコンを始めました」と話されたのにビックリ仰天した。資料には、会員を会員別(シニア、ジュニア、サポート)、男女別に分けた人数や平均年齢が記入された表が記載されていたが、合計人数や平均年齢はエクセルで表計算したものを貼り付けたのだと思う。
夕食懇談会で隣の席に座った方はとても若々しい女性で70歳代だろうと思っていたら82歳とのこと。支部では会報を担当し、会の活動に必要なので今でも車を運転していると言われた。現役で塾を経営していると言われるので教科を聞いたら数学。小中学生に教えているが、塾をやめるのは自分が生徒達より解くのが遅くなった時と言われて、これまたビックリ仰天だった。
翌日のワークショップでは、86歳のおばあちゃんと一緒のテーブルだった。この方は何と35年前からコンピューターに触っているとのこと。息子さんの一人がIBMに勤めていて、他の2人の息子さんと一緒にコンピューターを手取り足取りで教えてくれたと話される。頂いた手づくりの名刺には小さな花を可愛らしく片隅にカラーで刷り込んであり、Eメールアドレスとホームページアドレスも入っていた。
とにかく、会議、夕食懇談会、ワークショップで会う人すべてが、今年10月に99歳になられる日野原先生を筆頭に、元気なおじいさん、おばあさん(と言うより、おじさん、おばさん)ばかりであった。
一方、朝日ケアが運営する老人介護事業所「あさひホーム」でお会いするお年よりは、体が不自由であったり認知症が出たりしている方々ばかりであり、中には「新老人の会」で活動している人より若い方もいらっしゃる。しかし、一人の人間としての尊厳を有する高齢者であることは同じだ。
私は今63歳。10年後、20年後、さらに30年後、東京の拡大世話人会でお会いした「コンピューターおばあちゃん」たちのように元気一杯で毎日を過ごしているのか、それとも「あさひホーム」を利用されるお年寄りのように介護されるようになっているのか、それは分からないが、どちらにしろ、生きている意味のある日々を過ごしたいと思う。
私は、アイバックの小沢社長が主催する勉強会に20年以上参加しているが、小沢さんは昭和47年に渡米し、ハーバード大学を修了してから米国企業で働き、昭和58年に帰国して昭和61年にアイバックを設立された。その小沢さんの英語力にはいつも感心させられている。その小沢さんも私もロータリアン(ロータリークラブ会員)であるが、以前の勉強会で、ロータリーの「四つのテスト」について、3箇所で日本語訳が間違っていると話された。
そのひとつが、このテストの2番目の「みんなに公平か? Is it FAIR to all concerned?」で、公正FAIRと平等EQUALは違うのであり、FAIRは「公平」ではなく「公正」と訳すべきだと言うのである。それを聞いて私なりに、なるほど英語の「フェアプレー」は、訳すなら「公平プレー」ではなく「公正プレー」であり、正々堂々と戦うことだと合点した。そして、このコラムを書くに当たって、田中毅パストガバナー(2680地区の元ガバナー)が、ご自分のウエブサイト「ロータリーの源流」の中の「炉辺談話」(284)に書いておられる「「四つのテストの解釈」を見つけた。そこには「FAIRとall concernedという言葉の翻訳には問題があります。Fairは公平ではなく公正と訳すべきでしょう。公平とは平等分配を意味するので、例え贈収賄で得たunfairなお金でも平等に分ければ、それで良いことになります。(後略)」と書かれていた。
そこで、念のために私の電子辞書の国語辞書「大辞林」で公正と公平を調べると
【公正】かたよりなく平等であること。公平で正しいこと
【公平】かたよることなく、すべてを同等に扱うこと。主観を交えないこと
とあった。これならば、公正でも公平でもさして変わりが無いのではないかという意見もあるかと思うが、私は小沢さんや田中パストガバナーが言われるように、ここは公正であるべきだと思った。というのも、平等というニュアンスで公平が使われることが多いと感じているからだ。この考え方で世の中の規則や政策を見ると、公正ではなく平等に重きを置いた最たるものが、今国会で審議されて月内に成立する「子ども手当」だと思う。
この子ども手当は、15歳以下の子どもの保護者に毎月2万6千円を支給するというもので、対象者は1375万人とのこと。財源、経済効果、受給対象外など様々な問題が指摘されているが、私が一番問題だと思うのは、実施する時の問題ではなく、子育て支援と称して、対象者の保護者に一律にお金を支給するという発想そのものである。子どもを餓死させる鬼の様な親に支給されたお金は、どう考えても子育てには使われないであろう。この不況で収入の減った家庭では生活費の補填に回るだろう。自民党政権時代に全国民に対して「定額給付金」という愚かな政策が実施されたが、これを思い出す。人気取りのために、「公平」という名の下に15歳以下の子どもの保護者に「平等」に「一律」にお金をばら撒いているだけである。
同様に、公立高校授業料無料化もおかしな話だ。高校教育は義務教育ではない。どんな習い事でも、習うにはお金がかかるものだ。それをただにするとは何事か。我が子に高校教育を受けさせたい、やりたがっている習い事をさせたいと頑張って働いて授業料や月謝を工面する親の姿を見て、子どもは感じるものがあり努力するのだ。前述の子ども手当と同様に、親も子どももなまくら者にする政策と思えてならない。
また、米農家に対する戸別所得補償政策も、訳が分からない。単純に考えても、米が余っているのになぜ米農家だけに所得補償をしなければいけないのか。生産費と農家販売価格の差を補填するというが、ここにも一律の考え方がうかがえる。これでは、頑張って生産費を下げようという意欲が起こるはずがないと思う。これも、農家をダメにする政策ではないか
「公平に⇒平等に⇒一律に」という発想はおかしい。個人でも、家庭でも、企業でも、地域でも、それぞれ別々の個性があり生き方、考え方があるのだから。
先日、朝のラジオで、「電機や自動車など大手製造業の春闘一斉回答が17日にあり、定期昇給が確保された」というニュースに対して、この番組に常連のジャーナリストが、「定期昇給は働くものにとって自分の給料が将来どうなるか分かる仕組みであり、経営者が定昇をしないのはとんでもないことだ」というようなコメントをしていたが、これはおかしいと思った。当社は平成18年4月に賃金体系を改正し、全社員に対して「これまでに経験したことの無い厳しい経営環境にある建設業界であるが、当社が建設業者として今後とも生き抜き勝ち抜くためには、年功序列賃金を廃して、有能な人材を幹部に起用することが喫緊の課題である。そこで、従来の賃金体系を改正し、同一労働、同一賃金を基本に据えて、労働の質(能力)と量(成果)に基づく実力に対応した賃金を支給するものである。」と説明した。ここには定期昇給の発想は全く無い。定期昇給とは毎年一定の時期に社員の基本給を上げることであり、1歳年をとったら1年先輩の給料と同額をもらうということである。これはまさに「一律」、「平等」の思想であり、社員一人ひとりの実力は違うのだから、定期昇給はありえないのである。当社では、実力に対する格付けに基づく本給・格付け手当の表が公表されており、自分の将来設計をするには、現在の自分の格付けをどうすれば上げられるのか、そのためにはどのようなスキルを身につけ、どのような態度で仕事に臨むべきかと考えることしかないのである。これが「公正」な賃金体系であると確信している。
私は、これからは常に「みんなに公正か?」と自問自答しながら経営していこうと覚悟を決めている。
本年1月9日大安の土曜日に、長男の悠介が民芸品などを扱う店「林ショップ」を、総曲輪の西別院が所有する貸し店舗で開店した。彼は7年前の2003年3月に金沢美術工芸大学の環境デザイン科を卒業したが、就職せずに自宅に戻り、時々アルバイトをしながら、学生時代にのめり込んだ写真を続け、撮った写真をコンクールに応募したり、金沢で個展を開いたりしていた。写していたのは、魚津の蜃気楼や近所のため池で採ったミジンコ、あるいはファミリーパークのキリン、はたまた天文台に出かけての土星など様々だった。
長男と同じ23歳で大学を卒業した私の場合は、4年生になり就職活動を始める時に、朝日建設の社長であった父親に、「朝日建設を継がなければいけないのなら、よその建設会社に腰掛けで就職するのは悪いと思うが、どうなのか?」と尋ねたら、「別に継がなくてもいい。好きにしたら良い」との返事だった。
私は銀行や商社ではなく、もの作りをする会社に勤めたいと思っていた。同じ思いの経済学部の同級生は製鉄会社や電気メーカーを受け内定していったが、私は子供のころ父に連れられて工事現場に行って遊んでいて建設業に親近感を持っていたので、建設会社を受験することにした。しかし、どうしても建設業でなければいけないという程ではなかった。落ちるはずが無いと思って受けたスーパーゼネコン2社はいずれも重役面接で落ちたが、大学の先輩の誘いで関西の中堅ゼネコンのA社に内定し1970年に社会人になった。ところが入社後3年目に父から、A社を辞めて朝日建設に入るようにと言われた。A社に入社した直後から、周りの社員に「林君はいつ辞めるんだ」と聞かれ、また、経営者の任務の重要性も分かるにつれて、いずれは朝日建設に入らなければいけないと思っていたが、3年間の勤務ではA社にお返しが出来ていないと思った。そこでもう2年間勤めて1975年4月に朝日建設に入社した。
悠介は朝日建設の3代目社長である私の長男なので、世間の一般的な考え方からすれば4代目社長を期待されるところであろう。しかし私は、長男の優しい性格は建設業には向かないと思っていた。そこで彼が志望の美大に入ってから「朝日建設を継がなくても良い」と告げた。
日本の建設産業は20世紀の終わり頃から厳しい経営環境に直面するようになったが、当社もとやま国体の2000年をピークに売上は右肩下がりで急落し利益も減少し、ついに2005年12月決算では1953年以来52年ぶりの赤字となった。翌年の1月、母が亡くなった後しばらくして私は悠介に言った。「朝日建設はこれまでのように公共事業依存ではいけない。ユニバーサルデザイン室を作って、建築や街づくりにも取り組もうと思っているが、悠介が大学で学んだ環境デザインが生かせると思う。朝日建設に入らないか」と。悠介は、「父さんは、朝日建設に入らなくても良いと言っていたのに」と驚いた。そして、インターネットで東京に写真現像所のアルバイトを見つけ、3月に東京に行ってしまった。
それから3年たった昨年の春頃に、亡くなった母が生前よく出かけて結構高価な民芸の皿や花瓶などを買っていた“きくち民芸店”のご主人から、「この7月末で店を閉めるが、この店の跡を悠介さんがやってみないか」と言われた。悠介は、最初に勤めた老舗の写真現像所が、現像依頼がどんどん減ってきて次々に店を閉鎖しついには廃業したので、2008年の夏からは富士フィルム系列の現像会社に契約社員として勤めた。しかし昨年の4月に契約を更新せずにその会社を辞め、知人に頼まれて7月から新潟県十日町市で“大地の芸術祭アートトリエンナーレ越後妻有(つまり)2009”の手伝い(アルバイト)をしていた。悠介は美術好きだった母の血を最も濃く受け継いでいて、東京では日本民藝館に何度も訪れていたので、民芸品店の商売は彼に合っているかとは思った。しかし、“きくち民芸店”の店仕舞いの理由が、ご主人の年齢だけではなく、人通りが少なくなり、民芸愛好家も少なくなったことにあるので、果して商売としてやっていけるのかという不安を、私も妻も本人も抱いた。でも、悠介は店をやることにした。若い人たちに、民芸という枠にとらわれずに良いものを知ってもらいたいと言う。
悠介は昨年11月に、“きくち民芸店”のご主人と一緒に島根、鳥取、広島、岡山、滋賀県に仕入れに出かけた。また12月には、一人で栃木県の益子町や東京に買い付けに出かけた。その間、ブロンズ作品のトラの原型作りに何日も徹夜していた。年が明けたら、何度もスケッチを描きなおしながら店の看板を作っていた。
「好きなことを仕事に出来れば良いが難しい。特にスポーツや芸術では難しい。だから、自分がついた仕事を好きになることである」と聞いたことがある。私はまさしく後者であるが、息子は前者を選んだ。「その志や良し」である。
開店してまだ1ヶ月あまり。お客さんがゼロという日は未だ無いが、売上ゼロの日は何日かあったようだ。今のところは、私の知人に多く訪れて頂き息子も感謝しているが、採算は厳しい。しかし、起業を決断した時の想いを忘れずに、夢の実現に向かって希望を持って進んで欲しいと願っている。