新聞での本の紹介欄を見て買ったのが、愛蔵版「グレイがまってるから」という405ページもある分厚い本です。定価は税込み2,420円で、いせひでこ(伊勢英子)という1947年生まれの画家・絵本作家が書いています。
本の帯には
「犬、ひとと会う。―30年の軌跡
シベリアンハスキーのグレイ。犬が歩いたあとを、絵描きは目を掃除機にして拾い歩いた。表情、行動、季節のうつろい・・・・・・
迎え入れ~看取りまでの、絵描き家族との5年のいとなみ。愛犬ものがたり三部作に、あらたなスケッチ・エッセイをそえて集大成した愛蔵版。」
とありました。
我が家には、クロスケという名の9月に13歳になったやや黒っぽい色の柴犬のミックスがいるので、5歳で死んでしまったグレイ(灰色)とついつい比べてしまいながら、毎晩寝る前に2か月くらいかけて読みました。
この本の章立ては、◎グレイがまってるから、◎気分はおすわりの日、◎グレイのしっぽ、の3章で、それぞれの章には、そして運命の日がきた、うちのめされて、夜の集会、訓練士とグレイ絵描きとグレイ、ひとりぼっち、失恋、グレイがまってるから、グレイが何をまっていたのかかきそびれた話、発作、てんかん、くすり、アレルギー、うんち、緑陰コンサート、ハイドン、ブラームス、サンサーンス、笑う人笑う犬、グレイの入院、グレイをまちながら、みえない犬、グレイの不安、ヨドコーの犬小屋、インフォームド・コンセンント、在宅ケア、それでも「ね」の顔、夜空の向こう、抜糸、誕生日、ガン、透きとおる羽毛のような巻雲がどこかに向かって急いでいた、空のてんらんかい、1000人のチェロコンサート など惹きつけられるタイトルが105あります。タイトルを書きだしながら、内容を思い出したのもあればどんな話だったろう?読み返してみよう、と思うのもありました。
そして挿絵に添えられた言葉も秀逸です。例えば「さんぽをしていると、時々わけのわからないことを言う人に会うことがある」では、おばさん「犬は犬好きを知る、といってね、わかるんですよ」、グレイ「ぼく、別にこの人のこと好きじゃないけど・・・」にクスリ。「せなかがまるくなって急に年とってみえるグレイ」には、私がクロスケと散歩中に時々会う人ふたりから「背中が丸くなりましたね」と言われ、「10年前に脊柱管狭窄症の手術をしましたが、ここ数年また再発したようで」と答えると、「クロのことです」とふたりともに言われたことを思い出しました。ボクもクロスケも背中が丸いのが共通点。ボクは歩くときは下を向き加減で歩き(前を向いては歩けないのです)、クロスケは何を探すのか鼻が道路にくっつかんばかりにして歩きます。
訓練士が「すわれ」というと1回で正座するのに、絵描きが「すわれ」「おすわり」「すわりなさい」と何度も言われてようやくおかま座りするグレイの挿絵には、我が家のクロスケが「おすわり」をするのは、餌をもらえる時だけだなと思いました。ジンマシンにかかり天狗のような鼻になり「ぼくのかおかわいい?」と言ってる挿絵には「かわいいよ」と言ってやりました。
クロスケの毎朝6時からの散歩と終わってからの餌やりは私で、夕方のそれは主に妻、ときに次女や長男がします。犬は餌をくれる人より散歩させてくれる人が好きだと聞いたことがありますが、クロスケが大好きなのは間違いなく次女です。次女に飛びつくときの嬉しそうな様子は、明らかに次女以外に対する態度とは違います。見ていてほほえましくなります。
妻は、犬や猫は好きではないと言っていましたが、散歩をしてくれ「クロちゃん、何でそんなに鳴いてるの?」とちゃん付けで呼びかけます。私は「クロスケ!」とピシリと呼びます。「仕方がないでしょう」と言いながらも散歩してくれる妻に感謝です。
私はあと5年で80歳、その時クロスケは18歳。最近ネットで20歳まで生きられるとうたったプロテインの白い粉を、高価でしたが買いました。クロスケ、20歳まで生きろよ!
私は、1階に地場もん屋総本店が入っている総曲輪のウィズビルの4階にある映画館ほとり座で、毎月映画を観ています。観る映画は、ほとり座から毎月送られてくる予定表に書かれている、その月に上映される全ての作品についての100文字ほどの解説を読んで決めています。
これまでに観た映画は数百本になるかと思いますが、最近観た映画で良かったのは8月に観た「長崎の郵便配達」です。この映画は『ローマの休日』のモチーフになったといわれるタウンゼンド大佐と、長崎の原爆被爆者谷口稜曄の出会いに端を発するドキュメンタリーで、大佐の娘イザベル・タウンゼンドが、父の著書『THE POSTMAN OF NAGASAKI』を基に長崎を訪れ、父の足跡を辿りながら、父と原爆被爆者の谷口稜曄が願った平和への思いを紐解いていく姿を映しだす映画です。悪かったのは上映時間が205分で、料金もシニアでも2,000円の「わたしのはなし部落のはなし」というドキュメンタリー作品で、同じような場面が繰り返され時間とお金の無駄だったと思います。
今月は既に連続5日間に6本観ましたが、さっぱり分からなかったのは「シャンタル・アケルマン映画祭」と冠した5本の映画の内の「私、あなた、彼、彼女」です。解説には「アケルマン自身が演じる名もなき若い女がひとり、部屋で家具を動かし手紙を書き・・・」とあったので観た映画でした。
あくまでも個人の感想ですから、良かったと思う作品もあれば悪かったと思う作品もあって当然とは思いますが、良い映画だったと思って、初めて2度目の足を運んだ作品が9月に観た「こちらあみ子」です。
この映画は、芥川賞作家・今村夏子のデビュー作を映画化した作品で、主人公は、広島に暮らす小学5年生のあみ子で、少し風変わりな彼女のあまりにも純粋な行動が、家族や同級生など周囲の人たちを否応なく変えていく過程をあざやかに描き出す(パンフレットより)というものです。主人公のあみ子を演じるのは、応募総数330名のオーディションの中から見出された大沢一奈(おおさわかな)さんですが、きりっとした眼、チョット太い眉、上向き加減の鼻と忘れられなくなる顔立ちです。映画の内容は書きませんが、観終わって少し疑問に思ったのが、お母さんが実母ではないのかなということです。これは「あみ子さん」と「さん」付けで話しかけるところからの想像です。もう一つ確認したいと思ったのが最後の浜辺のシーンで、少し離れたところを行く何艘かの小舟を漕いでいる人の顔です。ぼやけたような顔なのです。そこで観終わってからパンフレットを買いました。母親が継母だとは書いてありませんでしたが、最後の船の人たちはオバケだと分かりました。それは、あみ子がさまざまな霊と交信できると書かれていて、だから「おばけなんかいないさ」と歌っていたのでした。
パンフレットの解説を読んでますますこの映画が好きになりました。DVDが来年2月に発売されると知り、早速ネットで注文しました。3度目を観るのが、今から楽しみです。
ちなみに「こちらあみ子」の「こちら」は、誕生日にお父さんに買ってもらったおもちゃのトランシーバーに向かって話しかけている「応答せよ、応答せよ、こちらあみ子」からのものです。
高志の国文学館では良い催しがたびたび企画されますが、9月11日(日)に表題の特別講演会が富山国際会議場で開催されました。「脳と言葉」という講演会で、脳科学者、医学博士、認知科学者の中野信子さんの基調講演と、国文学者であり高志の国文学館館長である中西進先生と中野さんとの記念歓談という構成です。
楽しみに出かけた講演会、メモを取りながら聴きました。
中野さんの講演で印象に残った話は、
・「言葉は噓をつくためにある」それは「虚構を作って皆を団結させる」そして「戦争を起こす」
・文字を読むのが好きな人は選ばれし人。本が100万部出版されたらベストセラーだが、これは日本の人口の1%弱(という選ばれた人)である。
・般若心経や法華経などの経典は美しくつくられている。詩の形で訳した人がいたことは特筆すべきこと。現代は論理で押し、正しいことを言っていれば分かってもらえるはずで、分からない方が悪いとし、美しい言い方をしない。
・空海の文章は繰り返しが多い。「生まれ生まれ生まれ」、「死に死に死に」。先行する刺激が次の刺激の理解を促進する。一度聞いた言葉に対しては反応が早くなり、ふわっとした酩酊感が起こる。
・我々は論理より、美しく分かりやすく短いものを好む。遅くて知的な論理が、必ずしも説得力を持つわけではない。
・約5分と言うが約18分とは言わないのは、5分刻みが切りがいいからで、5本の指を使っているからであり、5と10という指の形に脳が合わされている。人数を数えるのに軍隊では5人の隊の長は伍長。
・顔と名前が分かって自分の仲間だと認知できるのは150人までであり、解剖学的にも言えること。150人以上はよそ者で、よそ者は攻撃しても良いとなる。相手を貶める快感で相手を攻撃する。自分の身を削っても相手の苦しむ顔が見たい。
次に、中西先生と中野さんの記念歓談でメモしたことです。
中西:「額」という字は、「額づく」と「ひたい」と読むが、「ひたい」は「ひたすら」で、脳の小宇宙の中で働き直接認知するという直接の意味があるのではないか。
中野:右脳が芸術的で左脳が論理的という説には根拠がない。芸術的とはどういうことなのか定量的には測れない。前頭前野が芸術的働きをする。前頭前野はまず社会性をつかさどり、自分の欲を先行させない。損得ではなく美しい、醜いで考える。
中西:「美しい」という言葉はまず可愛いという感情。夫が妻に「美しいね」と言うのは可愛いと言っているだけ。「麗しい」が美しいの意味あい。
今回の講演会には1,200人の応募者から800人が抽選で選ばれたが、会場を見ると空席がある。これは麗しくない(会場に笑い)
仏教は絶望からスタート。人間は醜い、そこから立ち上がることが仏教。 中国の儒教は社会学であり、そこには美しい、醜いではなく、善か悪かである。良いか悪いかだけの人とは友達になりたくはない。徳とは真っ直ぐな心であり、美しい心ではない。
中野:月を見て美しいと思うのは千年前と同じ。しかし、美女を見て美しいというとき、千年前とは基準が変わっている。
地域や情勢によって善が変わる。戦争で人を殺すことは善。それに対応して善悪の基準が変わるように脳が設計されている。
中西:善とは羊のスープの意味で良いもの。人間の認知の仕方として善と美は同じと考える。
中野:善と美は同じ機能だろう。カントの真善美の哲学で真だけが浮いている。真には価値がないのではないか。脳には真をジャッジするところがない。真そのものが実態が確かめられない虚構である。脳科学的には、個人的には真はいらない。真は統治のための思考装置である。日本人は真よりも和を大事にする。真など必要ない。
中西:仏教の世界の三千世界など嘘。
中野:前世も後世も誰も知らないが、あると便利。
歓談の最後は、スクリーンに映し出された二つの和歌
「春の苑紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ少女」
「之乎路から直越え来れば 羽咋の海朝凪ぎしたり 船梶もがも」
について、中西先生は最初の歌は、文字の線を見ただけで情景が浮かんでくる。5感を包むアートであると話され、中野さんは二つ目の歌について、「来れば」の「ば」に、何とかすると何とかだという因果関係の処理をしていると話されました。国文学者と脳科学者らしいコメントだと思いました。
文系の私にとって、良い時間を過ごすことが出来ました。