1月29日(日)、雪での遅れを考慮して1便早めた午前11時10分発の飛行機で、富山空港から羽田に向かった。私が所属している富山みらいロータリークラブ(RC)の姉妹クラブであるオーストラリアのケントフォーストRC訪問と、バヌアツ共和国への3度目の支援と確認の旅の始まりである。
19:50成田空港発のカンタス航空22便で日本を発ってシドニー空港に翌30日(月)の朝7:30(日本時間5:30)に到着。我々RC会員7人とその娘さんや娘さんの友達4人の11人は、空港に迎えに来てくれたケントフォーストRC会員の案内で市内観光した後、ケントフォーストに向かう。ホームステイ先のケントフォーストRCの5人のメンバーの家にそれぞれ分かれ一休みしてから、ケントフォーストRC会員の一人の大邸宅でのクラブ例会(我々の歓迎パーティー)(写真1)に向かう。このパーティーで、私は今年6月5日に開催する我々のクラブの設立15周年パーティーへの参加依頼のスピーチをおこなう。私より英語の上手なメンバーがいたのだが、1999年にを訪れて姉妹クラブ締結交渉を初めて行った者として、またクラブ会長経験者ということで私が挨拶した。(写真2-1)ホームステイ先のホストのKeith(キース)さん(写真2-2)に教えてもらった挨拶での切り出しの言葉「Unaccustomed as I am to public speaking」(たぶん「公式な挨拶は私は不慣れなのですが」という意味)は、Keithさんの予測通り笑いを誘った。
翌日の31日(火)は、3人のホストファミリーの車に便乗して、ブルーマウンテンの観光(写真3-1)に向かった。そこでの昼食時に聞いたホストファミリーの一人のGil Kommer(写真3-2)さんの言葉が忘れられない。それは、「人生は毎日の続きであり、過去や未来を恐れることは無い。何事も常に変わり、意識を変えることを恐れてはいけない。」というような話だ。
この話から、私は今年の当社新年式で話した「目が覚めたら朝だった」という、砺波に住むお百姓さんの言葉を思った。朝、目が覚めるのは当たり前だと思っているが、それは生きているから目が覚めるのであり、今日も生きて一日を過せることに感謝しようということなのだ。さらに私は、これからは今日一日を悔いの無いように生きたい、と話したのであった。毎日をシッカリ生きることの大切さを、Gilさんの話で再認識させてもらった思いである。
このGilさんは、姉妹クラブについて協議した時のケントフォーストRC側の3人の内の一人だが、その時にも、「赤ん坊は歩きだす前に、ハイハイする」すなわち、何事も段階を追って進んでいくことが大切、姉妹クラブの関係も同じで、最初は手紙やビデオのやり取りから始まって、お互いのクラブの訪問に進ばよいという話をされたことを思い出した。
ブルーマウンテン観光の後は、2つ目の目的地バヌアツ共和国への移動であるが、2006年に初めてバヌアツ共和国に出かけたときと行きも帰りも同じ行程であった。夕方フェリーでケントフォースとからシドニーに向かい(写真4)、シドニーのホテルに泊まる。翌日2月1日(水)は美術館でピカソ展(写真5)を見たり、大聖堂(写真6)を見学したりしてから午後8時過ぎのバヌアツ航空の飛行機で3時間半かけて、バヌアツ共和国首都ポートビラ(エファテ島)に真夜中に到着。その時と同じホテルに泊まり、翌日2月2日(木)の早朝、ポートビラ空港から50分間のフライトでエスプリッツ・サント島に向かう。(写真7)
このサント島のベネという村にケントフォーストRCが妊産婦のための診療所を国際奉仕事業として建設していたが、その増築工事に我々のRCも資金提供したのがきっかけで、2006年12月に初めて、名前も知らなかったバヌアツへの現地視察に出かけた。その時のメンバー4人が、2009年8月の2回目、そして3回目の今回も参加したのである。
3回目のバヌアツ視察に、当初私は参加する気はまったく無く、ケントフォーストRC訪問だけで帰国するつもりであった。しかし、昨年11月に行われた夜のクラブ例会で、バヌアツに1回目も2回目も一緒に行った3人が座っているテーブルに酒を注ぎに行ったら、「林さんも行きましょうよ」と強く誘われ、気が変わったのであった。
サント島に着いた我々は、空港近くの町ルーガンビルで日本人が経営しているレストランで朝食をとってから、これも最初の訪問の時と同じくバッテリー(パナソニック製であった)を調達し、10時半ころ専用車で目的地のベネとホグハーバーに向かう。
ルーガンビルからのアスファルト舗装された道はしばらく走るとでこぼこの土の道に変わり、雨でぬかるんだりしていたのが(写真9)、今回は終着地のホグハーバーまで幹線はすべて舗装されていて、センターラインも引かれ(写真10)、交通標識もあちこちに立っていた。インフラ整備の状況に関しては、2回目の訪問の時は、携帯電話が使われていたのに驚いたが、今回の驚きは目的地まで舗装された道路や何箇所かで行われていた道路や橋の工事であった。これでは、当社がバヌアツに進出する余地がどんどん少なくなると思った。しかし、道路に沿って建てられた電柱は途中で途切れ、前回の視察で泊まったロンノックビーチには相変わらず電気が通じておらず、ホテルに備え付けの発電機からの電気も夜10時前には前回と同じように止まってしまい、夜中に使ったトイレはタンクに水が溜まらなくなってしまった。
シドニーで別れた4人以外の、男性5人と女性1人の6人の富山みらいRC会員(私が65歳で最年長)と会員の娘さん1人、そして毎回お世話いただいているケントフォーストRCの73歳のネイビルさん、そして運転手の53歳のイノックさんの9人を乗せ、さらに現地で配る古着のTシャツを詰め込んだ大きなカバンを積んで、ワイドサイズのハイエースは順調に走り、11時にはベネ診療所に着く。我々のために朝食を用意して(写真11)待っていてくれた住民のおばさんや子供たちに私が簡単に挨拶して、食事を頂く。1回目の訪問でもこの場所でTシャツを配り喜ばれたが、今回もたくさんのお母さんやおばあちゃんが1枚1枚手にとって品定め(写真12)しながら受け取られた。
その後は、2回目の訪問で富山みらいRCがソーラ発電機やパソコン2台を贈って支援しているホグハーバーの学校へ向かう。プロジェクターと追加のパソコンをそれぞれ1台贈呈し、電気関係の仕事をしている戸田さんとパソコン関係の仕事をしている吉田さんが、校長室に置かれているバッテリーの点検やパソコンの設定を行ったり(写真13)、教室ではプロジェクターで英語版の「日本昔ばなし」の中の桃太郎を写したりした。(写真14)プロジェクターは、これまではパソコンを取り囲んで生徒が画面を見ていたが、これでそのようなことはしなくてすむと大変喜ばれた。しかし、前日までずっと続いていた雨のためにソーラーからの電気がバッテリーに十分に貯まっておらず、数分間で電気が切れ映像が消えてしまった。電気があるのが当たり前の日本と比べようも無い状況を目にし、文明の発展とインフラ整備の関連性を思った。
翌日は小雨の振る中をシャンパンビーチ(写真15)に出かけ、途中の浜茶屋(?)ではヤシガニ(写真16)を食べ、過去の2回に訪れたのとは違うブルーホール(写真17)を見学してから、渡し舟でオイスターアイランドに渡り、最後の夜を過した。オイスター(牡蠣)という島の名前だけあって、夕食に食べた生牡蠣は絶品であった。生ものはあまり食べないほうが良いよいと出発前から言われていたが、私には関係の無いこと。ケントフォースとでもシドニーでも牡蠣を生でたくさん食べたが、それぞれに味が違っていたことが今回の発見である。
翌2月4日(土)の朝、ネイビルさん(写真18)とサント空港で別れ帰国の途に着き、シドニーから夜行便で成田に戻り、5日の日曜日、今度は予定より1便早い飛行機で羽田から富山に無事到着した。妻から1月31日に、富山が大雪だと、家の前の雪の山に座っている我が家の犬の写真付きのメールをもらっていたので、富山空港に降り立って見た雪にビックリはしなかった。
今回の旅では、往復の飛行機の中で宇野千代さんの「天風先生座談」を読んだが、オーストアリアでGilさんから聞いた話やバヌアツ共和国での見聞と思い合わせて、これからはもっと積極的な生き方をしなければいけないと強く思った。よい旅であった。