今年も残すところわずかになったが、私にとって今年一番の出来事は、何と言っても5月24日の父の死である。
私の母は、当社の子会社である有限会社朝日ケアが平成15年4月に富山市北代に開業した老人介護事業所「あさひホーム」のショートステイを2年間利用していたが、平成17年の4月に誤嚥から富山大学附属病院に入院した。その後富山病院に転院し、翌年1月に85歳で亡くなった。父は、平成16年3月から週2回、母が泊まっている「あさひホーム」のデイサービスの利用を始めた。私も週に1回、車で父を自宅に迎えに行き「あさひホーム」で一緒に食事をしていたが、デイサービスのご利用者に碁の強い男性がおられ、父はその人と真剣な表情で碁を打っていた情景が思い出される。
母が亡くなった年の平成18年7月に、自宅から歩いて2分もかからない場所に「あさひホーム吉作」が開業してからは、こちらのデイサービスを利用することになった。北代の時と同様、私は週に1回父と「あさひホーム吉作」で昼食をとった。最初の頃は、父は杖をつきながら私と一緒に歩いてホームに出かけていたが、だんだん脚が弱ってきて、ここ2、3年は数歩歩いては休むということを繰り返して10分以上かけてホームにたどり着くようになっていた。夏の暑い日、雨風や雪の日には、わずかな距離だが車で行くということも度々であった。
夕食は、父が渡り廊下続きの私の家に、ご飯茶碗と湯飲み茶碗、それに好物の松茸昆布と胡桃の佃煮を入れた二皿をお盆にのせ、杖をついたりレンタルの手すりを伝ったりしながらやってきて、私の家族と一緒に夕食をとり、朝食は妻が作って父の家に運んでいた。しかし、一昨年頃から朝11時を過ぎても起きなくなり、朝食もとらないことが多くなったので、昨年の夏から「あさひホーム吉作」のグループホームで暮らすようになった。私は毎週月曜日にホームに出かけ父と一緒に昼食をとっていたが、今年の春先から義歯を上下とも紛失したことも手伝ってか、父の食欲がめっきり衰え、食事を残すことが多くなってきた。あまりにも食べなくどんどん痩せ細ってきたので点滴をするようになり、ゴールデンウイーク後は、朝7時過ぎにホームで父の様子を観察してから出勤するようにした。
そして5月19日の土曜日、本社で業務推進会議をしていたところ、12時前に妻から携帯に電話があったが、「会議中だから終わってから」と電話を切った。会議を終えて妻に電話したら、救急車の音が聞こえる。「家のそばに救急車が来ているの?」と聞くと、「昼前にホームに行ったら、お父さんがひどくお腹を痛がっていて、往診してもらったお医者さんの判断で、今お父さんと一緒に救急車に乗って済生会富山病院に向かっているところです」とのこと。書類を片付けて3時に病院に着いたら、父は救急処置室に、妻と弟は処置室の横の待合室にいた。担当の外科医から説明を受けると、胃潰瘍で出血していて、手術をして出血を止めるか、そのままにしておいて潰瘍の穴がふさがるかもしれないのを待つかの選択を夕方までにするようにとのこと。手術するならスタッフがそろっている今日しかできないと言われ迷ったが、母が植物人間状態で9ヶ月あまり入院していたことを思うと、父が手術を受けても母と同じような状態になる可能性が大きいように思われ、手術しないことにした。その後父は処置室から一人部屋に移ったが、点滴の管をはずそうとするので両手にグローブをはめさせられた。しきりに「(手袋を)はずしてくれ」と私に頼むのを、何だかんだと言って誤魔化し、はずさずに見守るしかなかった。
翌日の日曜日、朝から行事が続き、夜のパーティーを途中で抜けてようやく8時過ぎに病院に行った。父は肩で息をしながら眠っていた。月曜日には病院から病室に誰か泊り込むように勧められ、その晩と翌日は弟が泊り込んだ。水曜日の昼、病院の看護師さんから血圧が60に下がったと電話があり、午後2時半頃には、富山市建設業協会の次年度役員会議中に、血圧が測れないので家族を呼んだほうがよいとの電話。弟、妻、3人の子ども達、従兄弟が次々に病室に入って父を見守った。夕方の血圧は68。その晩は私が泊まった。翌朝の看護師さんの巡視で、脈が落ちてきたので家族に連絡するようにと言われる。4時40分だった。すぐに弟や妻に電話し、じっと心電図のモニターを見ていたら、5時5分頃に心拍数がゼロになり、その後チョット持ち直すもまたゼロに戻りそのまま脈が打たなくなってしまった。主治医が病室にやって来て死亡を確認した時刻が5時29分。享年92歳であった。
私が昭和50年に朝日建設に入って間もなくの頃、父が新年式の年頭挨拶で「強く、明るく、そして、少しは世の中の役に立つように生きてもらいたい」と話したことを記憶している。父を亡くして7ヶ月、新しい年を迎えようとしているこの時期、そして日本が社会、経済、政治、また外交の面でたいへん厳しい状況にある時に、二つの会社の社長として、20年、30年後を予想しながら、旺盛な好奇心とチャレンジ精神を持って、「少しは」ではなく「大いに」世のため人のために働こうと、心を新たにしている。