3年前の2011年3月11日(金)午後2時46分に東日本大震災が発生した。国難と言えるこの災害を復旧するために当社としても何らかの支援を行おうと、週明けの3月14日(月)に臨時役員会を開いた。まず義援金を北日本新聞社を通じて日本赤十字社に贈ることを決め、昼には50万円を新聞社に届けた。また、前日の日曜日に国土交通省からあった緊急 要請に基づき、救援隊の一員として当社から社員を被災地に派遣することも決め、第一陣としてTさん、さらに第二陣としてSさんが向かってくれた。
しかし、会社としての行動はこれにとどまり、その後は時間が過ぎるだけであった。被災地に救援物資を運んだり、被災地で炊き出しをしたり、瓦礫の撤去を手伝ったりするなど、もっと直接的な支援をすればよいのだろうけれど、経営を考えると会社としても個人としても出来ないと後ろ向きに思い、一歩を踏み出せないことに恥ずかしさともどかしさを感じていた。
そんな時、以前聞いたニュースが頭に浮かんだ。それは、東北地方には良い温泉がたくさんあるが、今回の大震災ですっかり客が来なくなった。ぜひそこに行って飲食したり土産を買ったりしてお金を使ってほしい、そして、宴会だけでなく、被災地の様子も見ていってほしい、という内容であった。
そこで5月13日の経営戦略会議の席で、「今年の経営環境は昨年よりさらに厳しく、12月決算では赤字も予測される。しかし、東北地方に同僚や家族と旅をし、温泉などでお金を 落とし、被災地を自分の目で見てきた社員に対して、会社から家族も含めて経費の補助をしようと思う」と提案したところ反対意見は無く、私の提案に触発されて、止めて久しい会社の慰安旅行を被災地にすればよいのではないかという意見が出た。結果は、私の思いに反して東北旅行を計画する社員も実行した社員も出なかった。それならばと、思い切って慰安旅行をしようと決めた。それが2001年の中国旅行以来10年ぶりとなった7月7日〜8日の慰安旅行であった。
被災地には災害救援隊であることの腕章・ステッカーを交付されていなければ立ち入れないので、この慰安旅行は“原発問題で観光客激減!!「会津地方」震災支援ツアー”という企画で、福島第一原発事故で 退去を強いられた、福島第2原発がある楢葉町の住民が当初180名避難していた会津若松の芦ノ牧温泉丸峰観光ホテルに宿泊し、近辺の観光をすることにした。
この旅行には当時の全社員74名の内56名が参加し、避難住民への義援品のTシャツ 200枚、高岡の銘菓“とこなつ”240個、清酒“立山”の1升ビン12本を2台の大型バスに積み込んで出発した。1泊2日の短い旅行であったが、旅行を終えてから書いたこのコラム「フクシマ会津若松に旅して」の終わりに以下のように書いている。
大内宿の中の一軒で、和紙に書かれた言葉が私の目に飛び込んできた。店主の女性が自ら書いた言葉「笑って過せる時がきっと来る。2011.3.11.14.46」である。来年は宮城県、再来年は岩手県に行こう、そして、笑顔を探そう…と、帰路のバスの中で思った。
しかし、一昨年も昨年もこの慰安旅行は実現しなかった。でも、震災復興が遅れ、避難生活している人々が26万人を超えているのに、ソチオリンピックや2020年の東京オリンピックの明るい話題に隠れて、あるいは安穏とした日常に埋没して、被災地のことや被災された人のことを忘れがちになっている自分や自分の周りの人々のことを思うとき、実際に被災地に出かけ、自分の足で被災地に立って災害の傷跡を確認することが、この大震災のことを少しでも強く記憶にとどめるために必要だと思った。そこで出来上がったのが5月30日(金)〜6月1日(日)の“貸し切り バスで行く 東北震災支援2泊3日 岩手県/「陸前高田」と宮城県/「気仙沼」「南三陸町」「松島海岸」「仙台」”である。被災地を訪れるだけではなく、初日のバスの中でボランティアガイドによる現状説明を聞き、2日目の南三陸町では「語り部による学びのプログラム」の受講も盛り込んである。
政府主催の東日本大震災3周年追悼式で、天皇陛下は「被災した人々の上には、今もさまざまな苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなくこれからを過していかれるよう、長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。」と述べられている。日本国民として、このお言葉をしっかり受け止め、実際の行動に移さなければいけないと強く思う。当社としてのその第一歩が今度の慰安旅行だととらえており、多くの社員の参加を期待している。