6月27日、「三方良しの公共事業推進カンファレンス 2014 in 広島」にOさん、Dさんと参加し、翌日、3人で広島平和記念資料館を訪れた。私はこれまで広島を数回訪れているが、この資料館を訪れる機会がなかった。何か忘れ物をしている感じがしていて、一度は訪れるべきだと思っていたので、今回はぜひとも足を運びたかったのだ。
ホテルでの朝食時、ウエイトレスさんに資料館の見学にはどれくらいの時間がかかるかと尋ねたら、30分くらいだとの返事。広島生まれだという20歳過ぎのこのウエイトレスさんに、さらに、何回行ったことがあるかと聞くと、1回だと言う。数回くらいは行っているのではないかと思っていたので、地元の人でもそんなものなのかと拍子抜けした。
小雨の中をホテルから10分ほど歩いて資料館に着き、東館の入り口から50円の入場料を払って入館したのが8時45分。OさんとDさんは、私より早い列車で帰るために10時半頃に退館したが、私は全ての展示資料を見て、パネルの説明文を読んだ。本館の出口に着いたら11時15分に なっていた。資料館から広島駅まで乗ったタクシーの運転手さんは、小学生の頃と大人になってからの2回資料館に行ったが、昔の方が展示してある被爆人形が、皮膚が垂れ下がっているなどで怖かったと話してくれた。ホテルのウエイトレスさんが小学生の頃に見学した時は、展示物が今よりは生々しく、怖くて足早に通り過ぎ、それで30分ほどだったと記憶していたのだろうと想像した。私のように2時間半はかからなくても、30分で見られるような数の資料ではない。
昭和20年8月6日午前8時15分に、人類史上最初の原子爆弾が広島に投下され、爆心地では 約3000〜4000度の熱風、爆風、放射線を受け、ほとんどの人が瞬時にその生命を奪われた。被爆当時は約35万の人がいたが、8月から12月の間の被爆死亡者は14万人と推定されるという。
東館の入り口から入ると、日清・日露戦争から第二次世界大戦、そして原爆投下にいたるまでの歴史的経緯や当時の広島市の状況などが詳しく模型や写真、パネルなどの資料で説明されていた。
南京事件や朝鮮人慰安婦について記述したパネルもあった。東館の2〜3階では核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて紹介されていた。渡り廊下を通って本館に入ると、数多くの遺品や被爆資料、写真が展示されていた。遺品や写真には13歳から15歳くらいの少年、少女の物が多くあったが、説明文には8月6日から2〜3日のうちに皆さん亡くなったと記されていた。亡くなった幼子が愛用していた三輪車(写真1)を焼け跡で見つけ、焼け焦げになったその三輪車を、子どもが寂しくないようにと棺に一緒に入れたというパネルに涙した。
今回の観覧で、戦争体験のない私にも戦争のむごさや悲惨さがひしひしと伝わり、平和な世に生きていることの幸せと、平和な世の中を作り上げ、さらに維持していく努力の必要性を感じた。そのためにも、資料館で買った2冊の写真集、原爆写真「ノーモアヒロシマ・ナガサキ」(写真2)と写真物語「あの日、広島と長崎で」(写真3)に、時々目を通そうと思っている。
1ヶ月前には、東日本大震災から3年を経ても復興が遅れていると感じざるを得ない東北の被災地を会社の旅行で訪れ、今回、69年前に原爆で壊滅したものの今や人口が120万人ほどもある近代的な都市となり、平和記念資料館の資料や原爆ドーム(写真4)が辛うじて原爆の悲惨さを想像させる広島市を訪れた。一方は自然災害であり、もう一方は人間が起こした戦争だが、現地を訪れ自分の目で災害の爪あとや遺品を見たことで、いずれにおいても多くの尊い命が奪われ、筆舌に尽くしがたい悲しい別れがあったことを実感させられた。そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。 そして、これらの悲劇を時間と共に風化させてはいけないということを、頭だけではなく体でも感じさせられたように思う。
廃墟の街の復旧・復興を担うのは地元の建設業者であり、その重い使命を自覚して経営に当たらなければいけないが、そのためには何をなすべきかと自問自答しながら、広島を後にした。