6月19日金曜日午前10時、経営戦略会議の最初の議題であった私の報告を終えると、傍らに置いておいた旅行カバンを手に会社を飛び出し富山駅に向かった。翌日から仙台の宮城県武道館で開催される第64回全国七大学柔道優勝大会(七大学戦)で、母校東北大学の試合を応援するためだ。
私は、昭和40年4月に東北大学経済学部に現役で入学し、4年生の時に留年して昭和45年3月に卒業した。恥ずかしい話だが大学での勉強の思い出がほとんど浮かばない。最近は見ないが、以前は英語の期末試験が翌日なのに、その英語の授業に1度も出席していなく、教科書も開いたことが無く、教科書を読もうとするものの1ページ目を何度も読み返しているばかりで先に進めず、「どうしよう、どうしよう」と焦りがつのる、そこで目が覚め「夢だったのか」と安堵するという悪夢を年に1度は見た。
大学4年生の時、卒業するための単位を1教科わざと残して留年したのは、せっかく大学の経済学部に入ったのに専門の経済学の勉強をしていないと思ったからだったが、留年した年に必死に勉強したという記憶が全く蘇ってこない。それよりも、大学に入学してから始めた柔道の稽古のほうが熱心だった。部員の少なさと寝技での守りの強さで3年生の時から選手として出場していた七大学戦だが、留年して2度目の4年生の時も、北海道大学で行われた第18回七大学戦に選手として出場した。名古屋大学に2対1で勝ったものの東京大学に4対5で敗れたが、私は2試合とも15人の選手の中の三将(大将、副将の前の13番目)として出場し、いずれの試合も寝技で引き分けている。
大学で柔道を始めたのは、入学したものの受験勉強の明け暮れから太っているだけで体力が全く無かったので、せっかく志望大学に入れたのに体力が無くては社会に出てから役に立たないと殊勝にも思ったからだ。運動神経がゼロの自分でも少しは勝つことがあり好きだったのが相撲で、相撲部に入部したいと思ったが部が無かったので柔道部に入った。新入生は30名以上入部したと思う。しかし毎日の稽古や合宿の辛さのため、あるいは大学では柔道より楽しいダンスなどをしたいとの理由で、高校時代にかなりの成績を残した強い同期が次々に辞めていった。卒業まで残った5人(経済学部3人、工学部と理学部各1人)のうち柔道経験者は一人だけで、経済学部の3人が選手として七大学戦に出場した。
当時の東北大学の柔道部は長年低迷していた。私が2年生の昭和41年に部誌作成の担当となり、柔道部の鈴木千賀志部長に原稿を依頼に行ったときに言われた言葉を今でも覚えている。医学部の教授で柔道部の先輩でもある部長は、昭和27年の第1回大会で東北大学が優勝した時のメンバーで大変強い方であったと聞いていた。「七大学の学生は皆同じ条件なのに、第1回大会で優勝して以来毎年下位に喘いでいて十数年間優勝できないとはどういうことか。毎年優勝せよと言うのではない。健康のためなら柔道ではなくラジオ体操をやっていればよい」というようなことを厳しく言われた。しかし初心者で闘争心の弱い私にはただただ怖い先輩であり、鈴木先生の情けなく腹立たしい思いを理解できなかった。
この時から2回目の優勝までには、昭和61年に京都で開催された第35回大会での東北大と京大の両校優勝まで20年の歳月を要したが、翌年も京大との両校優勝を果たし、平成10年についに単独優勝した。その後さらに4回の優勝と5回の準優勝を重ね、昨年は阪大に敗れて連覇を逃し準優勝だった。私の現役時代とは大違いで、東北大学が決勝進出の常連校となって久しいが、今年は初めての地元仙台での優勝を目指していた。
卒業後七大学戦の応援に出かけたのは今回が初めてだった。入学が私より1年後の昭和41年だが卒業は私と同じ昭和45年の柔道部OBのSさんから、仙台郊外の秋保温泉で卒業45周年の同期会を行い翌日七大学戦の応援をするので昭和44年卒の方も参加しませんかというメールが今年に入って早々にあった。卒業後仙台で行われた柔道部関連の集まりに2、3度参加し、平成23年には創部60周年記念祝賀会に参加していたが、七大学戦を応援することは卒業以来なかったので、優勝の可能性が大いにあるという メールに、今年の大会は見たいと、会社を休んで参加することにした。
夜遅くまで楽しく飲み語らった秋保温泉での懇親会(写真1)の翌日、タクシーで宮城県武道館(写真2)に向かった。会場に入り各大学の名前の
入った柔道着をつけた選手たちを目にした途端、学生時代に立ち戻った感がした。戦前の高専柔道の流れを汲む七大学柔道は、講道館柔道と違って立ち技から直接寝技へ引き込むことが認められ、勝敗は1本勝ちだけで優勢勝ちはないというルールである。七大学柔道優勝大会は15人の勝ち抜き戦であり、大学から柔道を始めて寝技で取り役として活躍した名選手は何人もいる。
大会主管校の東北大学の最初の対戦相手はA会場での1回戦、九州大学対北海道大学の敗者だったが、あえてB会場での1回戦、東大対京大の試合を観戦した。東大には田上(たのうえ)(写真3)という3年生の身長187cm、体重121kgの巨漢選手がいて、彼は高校時代に、昨年の全日本選手権において大学生で優勝した王子谷選手より有望と言われた選手だと教えられたからだ。田上は逃げまわる相手を内股で投げ飛ばしたり、投げで崩してから押さえ込んだりと4(?)人抜きした。しかし後半に逆転されて敗れ名大との敗者復活戦となったが、この試合でも数人抜きして東大の勝利に貢献した。しかし、昨年の東大と東北大の試合では、田上を東北大は2人目で止めた(引き分けた)という。
東北大は、北大に敗れて敗者復活戦に回った九大に3人残して危なげなく勝ち(写真4)、続いて名大に勝った東大との試合となった。田上をどう止めるかがこの試合のポイントだったが、内股で2人抜き、3人目が副将田上との対戦となった4年生の小澤(写真5)は、立って寝てよく守り引き分けるかと思ったが、8分間の試合終了間際に投げで崩され押さえ込まれて負けた。しかし、次の三枝(次期主将)(写真6)がよく守りきって勝利を確実にし6人残して圧勝した。理想的な試合運びに思えた。
翌日2日目の準決勝戦、決勝戦も見たいのは山々だったが、このコラムの執筆期限が月曜日の朝ということもあって、富山に帰った。
さて翌日の日曜日、午後から原稿を書き始めたが、結果が気になって仕方が無い。1時半過ぎに今回の同期会の世話人Sさんに電話すると、声をひそめて「今、北大との決勝戦で中堅まで引き分けてきています」とのこと。すぐに電話を切り、大切に保管している部誌のバックナンバーを読み返しながら執筆を続ける。ずいぶん我慢し、ついに4時過ぎに電話したら、Sさんは「今、林さんにかけようとしていたところです。準決勝戦の阪大とは(15人で決着がつかず)代表戦の2人目で勝って、決勝戦では北大に2人残して勝ち、優勝しました。」と言う。私は「おめでとう」と言ってから、目頭が熱くなった。
柔道を離れて45年、部誌を読む限りこの間に寝技も進化しているようで、戦績に書かれている試合経過には、聞いたことのないテクニックや技の名前が書かれていた。しかし、目の前で展開された寝技の攻防は我々のころと同じだった。
5年間の柔道部生活で悔い無く稽古や試合をしたかと問われたら「No」といわざるを得ない私には、ここで東北大勝利の要因を書く資格は無い。ただ初日に観戦した東北大の試合を他校の試合と比べると、安定感が相当勝っていたと思う。即ち、抜き役は確実に1人、2人抜き、分け役はこれまた確実に引き分けていた。また、気迫や気合においても他校を上回っているように感じた。そして、戦っている選手とそれを見守る選手の一体感を強く感じた。恐らく、北大も阪大も同じような選手を擁していたのではないかと思うし、選手をどういう順に並べるかによって勝敗の行方が逆転することもあろうと思う。しかし、勝利の女神は東北大学に微笑んだのだ。
私のこれまでの人生で、柔道に限らず、仕事でも、青年会議所やロータ
リークラブの活動でも、周りからはそれなりに評価されても、やりきったという達成感を感じたことはほとんど無いように思う。今回、後輩たちの素晴らしい戦いぶりを見させてもらい、今後の人生での戦う姿勢や勝利に対する執念、組織としての一体感などを学んだ。これからの会社経営に活かしたい。
後輩たちに感謝し、このコラムを終える。