8月の朝礼は「国語力を高めよう!」のタイトルでお話しました。今月のコラムはこの朝礼の原稿ですが、手抜きではありません。朝礼に、現場の都合で参加できなかった社員にもぜひ考えてもらいたい内容だからです。内容は以下の通りです。
このタイトルにしたのは、私の子ども全員が通った呉羽小学校の児童が作成したチラシに「たかが命、されど命」と書かれていたことにショックを受けたからです。妻から、長男がこのチラシを見て、この言葉に「これはないよ」と怒っていたと聞き、私もチラシを見た途端「これはこのまま放ってはおけない」と思いました。
「たかが○○、されど○○」の「たかが」の後に来る言葉は、「たかが百円、されど百円」というように価値の小さいものがくるのであって、価値の高いもの、それも一番大切な命を持ってくるとは何事かと思ったのでした。
私は、中学校の課外授業でも富山大学経済学部で行う講義でも、冒頭にアンパンマンマーチの歌詞「何のために生まれて、何をして生きるのか」を映し、昨年105歳で亡くなられた聖路加国際病院の日野原重明先生が、小学5年生に行ってきた「いのちの授業」で必ず話された「いのちとは自分が使うことのできる時間」を紹介し、命=時間を自分のためだけではなく、世のため人のために有意義に使おう、という先生の思いを伝えてきただけに、「たかが命」になおさら憤りを感じたのです。
会社に行く途中、呉羽小学校に「注意したいことがある」と電話し、事務員に代わった校長先生に次のように話しました。「チラシのテーマは“今すぐできる地震対策”で、内容もいろいろ調べてあって良いのだが、裏面のトップに「たかが命、されど命」と書いてあり、これがこのまま町内に配られたのはどういうことか?児童は、こんな言葉も知っているよと自慢気に使ってみたかったのだろう。しかし、クラス担任が原稿に目を通していると思うが、何も注意せずにそのまま配布させたとすれば、この先生の国語力が低いと思わざるをえない。これを見て不適切な表現だと気づいた呉羽小学校下の住民は、呉羽小学校の教育力に不信感を抱くのではないか」と話したのです。校長先生は「自分はそのチラシは見ていないが、指導が行き届いていなくて申し訳ありません」と応えられました。
私はこの由々しき話を、会社で社員に、また知人に話しましたが、あまり共感を得られない、それどころかおかしいとは思わないという反応さえあり、愕然としました。
言葉の意味が時代とともに変わっていくことは理解しています。しかし「情けは人の為ならず」を「人に情けをかけるとその人のためにならない」というように間違って解釈してはダメです。「たかが○○」もそうです。国語力を高め、正しい日本語の使い方をしたいものです。
ベストセラーになった「国家の品格」の著者の、数学者であり作家である藤原正彦さんが、小学校から英語を教えることは日本を滅ぼすもっとも確実な方法であると、小学校からの英語教育必修化を批判して「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下」と述べていますが、私はこの主張に大いに共感しています。
政治家でも、間違った言葉を使ってマスコミにたたかれる人はたくさんいます。麻生太郎さんが総理大臣時代に「未曾有(みぞう)」を「みぞうゆう」と言って「漫画ばかり読んでいるからだ」と揶揄されましたが、安倍総理も「云々(うんぬん)」を「でんでん(伝々)」と誤読し、民進党の議員が「でんでん虫、虫、安倍ソーリ♪」と揶揄したと聞きました。人の間違いを面白おかしくからかうのはいかがなものかと思いますが、やはり一国のトップは、言葉に注意を払って欲しいものです。
人はそれぞれに、知識レベルや学びの経験も違いますが、子どもでも大人でも正しい日本語を使うという姿勢を持ち続けていただきたいと思います。そして、そのためには、読書し新聞を読み、知らない言葉に出会ったら必ず辞書で調べることです。
美しい日本語を、継承していきましょう。