タローとクロスケ

2024.09.25

 今月9月2日、我が家の飼い犬クロスケが、15歳になりました。ほとり座で2回観た映画「石岡タロー」のビーグル犬の雑種のタローは81年の夏に18歳で亡くなりました。

   

  「石岡タロー」は、海外の映画祭で最優秀映画賞5冠、最優秀脚本賞1冠を獲得した映画です。この映画は、子犬の頃(その頃の名前はコロ)の飼い主である幼稚園年長組で当時5歳の成島恭子ちゃんへの愛と忠誠心を貫いた犬の一生を描いた実話です。タローが少女と過ごした子犬時代、タローが茨城県石岡市の石岡東小学校ですごした成犬時代、タロー没後の後日談、少女が離れ離れになったコロの消息を知るまでと、時の流れに沿って展開します。

   

 長くなりますが、ネットで「石岡タロー」を検索した結果と私の記憶でのタローの生涯は、以下の通りです。

   

 コロは63年に生後4カ月で恭子ちゃんの家にやってきました。当時5歳だった恭子さんは。自宅から200メートルの鹿島鉄道(07年に廃線)玉造町駅で電車に乗り、幼稚園のある11駅目の石岡駅へ通っていました。玉造町駅への送迎は、家業の陶磁器店で忙しい両親に代わって、コロがしてくれました。毎朝、一緒に電車に乗り込んできて、恭子さんが座席に着いて頭をなでてやると、電車を降りて引き返して家に戻り、帰りは玉造町の駅に出かけ待合所で待っていました。

   

 翌64年のある朝、電車の車内が混雑していてコロは玉造町駅で降りられず、石岡駅までついてきてしまいます。「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれた恭子ちゃんは、犬を乗せたことを怒られると思って首を振りました。コロは追い払われてしまいました。

   

 恭子ちゃんはショックで熱を出し、10日間寝込こみました。お父さんはスクーターに乗って、石岡駅周辺へ6回も捜しに行きました。コロは教室をのぞきに3度、幼稚園に現れましたが、園が捕捉しそこねてしまい、その後の消息はつかめずにいました。

   

 その年、石岡東小学校の用務員のおじさんが、道端で中学生に針金で首をまかれ怪我をして放置されていたコロを保護し、用務員室で一緒に寝ていました。夜間の構内の見回りにもついてきました。しばらくして、朝夕の石岡駅通いを始めました。一方、恭子さんは翌年に卒園すると、石岡駅を使うこともなくなり、コロを見ていません。

   

 石岡駅の改札の駅員は、当初は駅長に、「犬が駅の中にいてよいのですか」と聞き、タローの写真を撮りました。しかし駅長はタローも乗客の一人だと答えたのです。

   

 同小創立50周年に、石岡東小学校を定年で退職していた校長先生の小学校での想い出としてタローのことが語られ、地元の新聞に載った橋本校長先生と、駅員が撮った「タロー」と呼ばれた犬の写真を見て、コロに間違いないと恭子さん(撮影時50)と両親は確信しました。

   

 コロは81年の夏に死ぬまで石岡駅に通い続け、ずっと自分を捜していたと思うと、恭子さんは胸が痛み、「あの時、駅員にウソさえつかなければという45年間抱き続けてきた自責の念にさいなまれ、もっと捜せばよかったと改めて思います。でも、コロがみんなに愛されていたとわかり、救われる思いがします」と語っていました。

   

 タローは石岡市で保護されてから、賢い行動で児童を出迎えたり、教室をまわったりして、小学校の人気者となりました。ある日から、タローは小学校から石岡駅までの約2キロの道のりを毎日朝と夕の2回往復する日課を始めるようになりました。これは、子犬の頃に離れ離れになってしまった飼い主を待っていたと考えられています。

   

 学校の正門を出て歩道橋を駆け上り、車の多い国道6号を西へ向かう。横断歩道を渡って坂を下り、交差点を右折、常磐線の踏切を渡ると駅が見えてきます。赤と青を見分け、ちゃんと信号を守っていました。

   

 先生や児童たちみんなに愛されていました。たいていは職員室の教頭の机の下にいて、登校時間になると、1年生の教室を順番に回る。自分で戸を開けて入り、教室の隅で児童を見守りました。昼休みは校庭で「給食」。好物のマーガリンと飲み残しの牛乳を子どもたちにもらっていました。

   

 タローは地元の駅前商店街の人たちにも可愛がられていました。石岡駅に向かう道すがら、その商店街で、寄り道をして帰ることもありました。駅前の定食屋とそば屋はなじみの店で、よく立ち寄ってはごちそうになっていました。焼鳥屋の前にはタローと書かれた丼鉢に餌が入れられ、その餌を食べていました。タローはそんなときは帰りが夜7時を回っていました。しかし、死ぬ前には、丼鉢の餌も食べなくなりました。

   

 72年に校長として赴任した橋本さん(撮影時88)は、タローとの8年間の思い出を大切にしています。夏休みのある日、「店の玄関にお宅の犬がいる」と駅前のスーパーから電話があり、迎えに行くと、店内から流れてくる冷房の効いた風を受けて、ちゃっかり涼んでいたということです。

   

 「犬はつないでおいて下さい」と保健所に2度、注意されました。しかし、小学校を卒業し中学生になっていた生徒が、校門の前で「小学生の時は、タローいて楽しかった」と話すのを聞いたことから、「小学校は児童と教師とタローで成り立っています。黙認してほしい」と嘆願しました。保健所長は黙って帰りました。主人を思って駅へ通っていたというのが地元の見方で、「そう思うと不憫(ふびん)でね。そんな犬を鎖でつないでおけますか」。橋本さんは保健所の指導に背いたことをいまも後悔していません。

   

 ある時、授業参観をしていた母親が、犬が教室にいることを嫌がり、犬にかまれたと嘘の電話を動物愛護管理センターにし、捕獲員がやってきて、タローを捕獲しました。用務員のおじさんは、娘さんから、タローが何日も戻ってこないと言われ、どこかで迷っているのだろう、そのうちに帰ってくるよ、と答えました。しかし、もしかしたらと、動物愛護管理センターに電話したところ、捕獲された犬は一週間飼い主が現れなかったら、翌日に殺処分されると聞き、殺処分される前日にセンターに行きました。檻が満員なので他の動物愛護管理センターに移したとのこと。再びそのセンターに行くと、檻の中に他の捕獲された犬と一緒にいるタローを見つけました。タローが尻尾をふって用務員さんのところに駆け寄ってきたのを見た職員は、飼い主だと分かり返されました。

   

 晩年のタローは一日中、用務員室で寝ていました。しかし、時間になると起き上がり、学校を出て行く駅通いは、動けなくなるまで続きました。しかし最後まで「主人」が現れることはなかったのです。

   

 橋本さんが退職した翌81年の夏、タローは死にました。全校生で追悼式をして土浦市内の寺に葬ったとのことです。

   

現在、石岡駅前広場には子供二人とタローの銅像が建てられています。

新聞を見た恭子さんが新聞記者に、自分が飼っていた犬だと話すと、新聞を読んだ地元の人たちが恭子さんに会いたいと言い出し、石岡駅の横断歩道橋の上で会うことになります。これがラストシーンでした。

一方、我が家のクロスケは、名前を呼んでも振り向きもしません。きっと、小さい時に名前を呼び、振り向いたら餌を与えていたら、自分がクロスケだと認識できたのだろうと、妻は言います。

   

 また、まだ15歳なのに、朝晩の散歩の時間以外は、玄関の中で寝ています。一日に22時間は寝ているだろうと思います。玄関の外にいるときは、門の所に宅急便の配達員がやってくると大きな声で吠え、配達員が来たことを妻に知らせてくれます。私にとっても、朝の40分ほどの散歩は良い健康法です

   

 小型・中型犬の年齢は、24+(年齢−2)×4で計算するようで、計算すると今15歳のクロスケは人間に換算すると、24+(15−2)×4=76になります。私が今77歳ですから、私とクロスケはほぼ同じ年齢ということになります。

   

 クロスケはあと3年で、タローが亡くなった年齢と同じ18歳になります。私は3年経てば80歳の傘寿(さんじゅ)になります。お互いに元気で80歳を迎えましょう。