2017.10.01

再び台湾土木遺産視察に参加して

昨年に引き続き、10月11日(水)~14日(土)、土木学会土木広報センター主催の第5回台湾土木遺産視察ツアーに参加しました。主な視察箇所は、日本の台湾統治時代に金沢市出身の八田與一の設計と施工監理によって造られた烏山頭(うさんとう)水庫(ダム)(工期1920年~1930年)と日月潭(にちげつたん)の大観水力発電所(1918年に着工したが途中で中断し1934年に竣工)、そして土木遺産ではありませんが、台湾大学構内にある「磯小屋」(磯永吉博士が台湾米の品質改良に取り組み1935年に「蓬莱米」を開発した研究室)でした。

 昨年のコラム「台湾土木遺産視察に参加して」では、「今回の旅行はこれからもずっと心に残る旅行だと思います。それは、昨年リニューアルした当社の経営理念“朝日建設は、建設事業とその関連事業を通して世の中の役に立つ。そして、ふるさと富山を発展させる。”の意味を、踏み込んで考えることができたと思えるからです。」、そして「土木とは何かを改めて考えるきっかけになり、経営理念の“世の中の役に立つ”とは、単に構造物を造って終わりではなく、このようにいつまでも人々の暮らしを支え、普段は目につかないけれども、記憶され続けることなのだと思ったのでした。」と書きましたが、今回の旅行では、ダムや発電所などの土木構造物や品種改良されてできた米といった「物」や、それらの「物」がもたらした多大の恵みには昨年と同様に感銘を受けました。しかしそれ以上に、日本の台湾統治時代に台湾の発展のために尽力した八田與一氏や台湾電力社長の松木幹一郎氏、そして戦後も台湾に残り、台湾で45年間過ごして米の研究に没頭した磯博士など、直接関わった人々の生き様に心を打たれ、「人」自身に対する尊敬の思いを強く抱きました。

 さらに「人」に関しては、今回の視察先では名前が出てきませんでしたが、台中の日月潭から台北に移動する3時間半のバスの中で、今回もこの視察旅行を企画した土木学会の緒方英樹さんから聞いた後藤新平の名前が強烈に脳裏に刻み込まれました。

 私たちの乗ったバスが走った道路は、高速道路はどこも片側3車線か4車線で、一般道もほとんど片側3車線だったので、台湾のインフラは日本よりも劣っていると漠然と思っていた私にはショックでした。そこで緒方さんに「台湾の道路は日本より上ですね」と話しかけたところ、「これも後藤新平のおかげです。後藤新平は関東大震災の後、(帝都復興院総裁として)東京に幅の広い道路を作ったが、それ以前(の明治時代)に、台湾総督の補佐役であった民政長官として幅広の道路を建設し、それが今に引き継がれています。」との返事。これには驚くとともに、片側1車線(暫定2車線)の高速道路が今でも3割以上を占めている日本との違いは、政治家の違いだと思い知ったのでした。

 日本では、2009年に民主党政権が誕生したときに、「コンクリートから人へ」という実に馬鹿げた政策がとられましたが、これも馬鹿な政治家が行ったのであったと、いまさらながら腹立たしく思いだされました。そして、衆議院選挙が終盤戦に入った今(10月19日)、立派な政治家を育てることが大切だとつくづく思うのです。

 昨今のインフラ整備は、新設から維持・メンテナンスに移行していますが、私は、日本においても富山県においても、これからも造るべきインフラがあると思います。道路の無電柱化は、景観の向上だけでなく、災害時の電力の安定供給や交通の確保のためにまだまだ行わなければいけません。また、今回の衆議院選挙では、原発活用か原発ゼロかも争点の一つですが、原発をゼロにするためには、昨年10月のこのコラム「水力発電が日本を救う」で紹介した著者の竹村公太郎さんが言う「水力発電の潜在的な力を引き出す重要な手段がダムを嵩上げすることであり、10%の嵩上げで発電能力はほぼ倍増することになるので、ダムをもう一つ造るのと同じになります。」を実行することが大切だと思います。しかし、こんな計画はさっぱり聞こえてきません。国土交通省の河川行政を動かす政治家がいないからです。

 これからも文明を発展させ続けるためには、インフラの整備は欠かせません。今回の旅行で後藤新平の業績の一端を知り、私は、財務省の緊縮財政至上主義をものともせずにインフラ整備を唱える政治家が必要なのだという思いを強く抱いたのでした。そして、人間に生まれたからには、計画の大きさから世間から「大風呂敷」とあだ名された後藤新平や八田與一のように、大きな夢を抱き、理想を持って生きていきたいと思うのでした。

 追記。インターネットで見つけた「日本の事業構想家 都市計画の父 後藤新平」(明治大学 教授 青山佾)には「一方、都市の効率性という面では人々が都市において効率よく生活し事業を営むことができるよう、幅広の道路を建設した。幅44メートルの昭和通り、36メートルの靖国通りをはじめとして日比谷通り、晴海通りなど幅30メートルを超す主要な幹線道路がこのとき整備された。戦後つくった環七、環八などがいずれも幅25メートルにすぎないから、これら幅広の道路をつくった先見性は刮目すべきである。」と書かれていました。