10月19日(水)~22日(土)、土木学会土木広報センター主催の台湾土木遺産視察ツアー「烏山頭(うさんとう/台南)・白冷?(はくれいしゅう/台中)・宜蘭(ぎらん/台北)4日間」に参加しました。帰国して1ヶ月たちましたが、それぞれの見学地で土木遺産を見た時の感動、そして説明を聞いた時の感銘が未だに残っています。
生まれてこの方、ずいぶん多くの旅行をしましたが、今回の旅行はこれからもずっと心に残る旅行だと思います。それは、昨年リニューアルした当社の経営理念「朝日建設は、建設事業とその関連事業を通して世の中の役に立つ。そして、ふるさと富山を発展させる。」の意味を、踏み込んで考えることができたと思えるからです。
視察した3ヶ所の土木遺産のそれぞれについて概要を記したいのですが、紙面の関係から、最初の視察地の烏山頭水庫(ダム)についてだけ簡単に説明します。
烏山頭ダムは、八田與一(はった よいち 金沢市出身 1886~1942)の設計と施工監理により、彼が34歳の時に着工し10年の歳月をかけて1930年に竣工した、当時のアジア最大のダムです。堰堤長1273m、高さ56m、貯水量1億5千万トンのこのダムにより、洪水・干ばつ・塩害に喘いでいた嘉南平原15万ha(富山市の面積は12万4千百ha)の60万人の農民に対して、烏山頭と濁水渓のダムに貯水した水を16000?(地球の円周は4万?)の給・排水路に水を引き、15万haの土地すべてに同時給水することは物理的に不可能だったので、三年輪作給水法という灌漑方式で水を分配しました。この事業によって、荒地が3年で沃野に変わり、穀倉地帯に変貌して、地域住民の生活が一変しました。
日本の植民地であった台湾において、ダムが完成するとすぐ、八田は工事に携わった多くの犠牲者のために、日本人、台湾人の区別無く死亡順に名前を刻んだ殉工碑を作りました。八田は嘉南平原の農民から「嘉南大?の父」と慕われ、ダムのほとりには彼の銅像が建てられ、戦後の混乱が収まると、八田の像の前では、命日の5月8日に彼の恩をしのぶ墓前祭が毎年続けられています。
私は初日の烏山頭ダム見学で、22名の研修団の団長として、八田與一の像に花束をささげました。今回の研修を企画した土木学会土木広報センターの緒方英樹さんから、事前に送られてきた緒方さんの著書「台湾の礎を築いた日本人たち」を読み、緒方さんが企画したアニメ映画「パッテンライ(八田が来た、の意味)!南の島の水ものがたり」を観て、八田與一の業績や生涯についてかなりの知識を得ていたので、花束と共に銅像に向かって心からの感謝の祈りをささげることが出来ました。
今回の研修では3ヶ所それぞれで、これらの施設に関わっている現地の方から説明を受けましたが、何度か聞いたのが中国の「飲水思源」ということわざでした。水を飲むたびに、井戸を掘った人のことを思い、感謝するということですが、いかに八田與一、磯田謙雄(白冷?)、西郷菊次郎(宜蘭河の西郷堤防)が、今でも台湾の人たちに敬愛されているかを知りました。そして、土木とは何かを改めて考えるきっかけになり、経営理念の「世の中の役に立つ」とは、単に構造物を造って終わりではなく、このようにいつまでも人々の暮らしを支え、普段は目につかないけれども、記憶され続けることなのだと思ったのでした。
台湾から戻り、経営理念について引き続き考えていた時に思い出したのが、平成8年から13年まで富山県土木部長・公営企業管理者をされていた白井芳樹さんに県庁の土木部長室で伺った青山士(あおやま あきら)の言葉でした。
青山士は、昭和6年に信濃川の大河津分水可動堰を完成させ、流域の洪水から耕地をまもり、民の暮らしを安泰にしましたが、分水路の脇にある完成の碑文に、青山は「人類ノ為メ国ノ為メ」と記しました。この言葉の拓本が額に入れて部長室に掛けられていたのです。
この「人類ノ為メ国ノ為メ」が、経営理念での解説『世の中の役に立つとは、周りを楽にすることである。「働く」=端(周り)を楽にすること』、そして「ふるさと富山を発展させる」と結びついたのです。
経営理念について改めて考え、これから如何に「世のため人のため」を心から願って経営していくかを考えさせられた台湾の旅でした。