3月のこのコラムは「再び東北を旅しよう」だった。「震災復興が遅れ、避難生活している人々が26万人を超えているのに、ソチオリンピックや2020年の東京オリンピックの明るい話題に隠れて、あるいは安穏とした日常に埋没して、被災地のことや被災された人のことを忘れがちになっている自分や自分の周りの人々のことを思うとき、実際に被災地に出かけ、自分の足で被災地に立って災害の傷跡を確認することが、この大震災のことを少しでも強く記憶にとどめるために必要だ」との思いからであった。
5月30日(金)、富山オフィスと八尾オフィスを午前6時半過ぎにそれぞれ出発した観光バス(写真1)2台で、総勢53人が最初の目的地の宮城県気仙沼市に向かった。
私が乗った2号車は、最初カラオケ大会で、その後は、旅行会社の社長が用意してくれた「3.11東日本大震災激震と大津波の記録」というビデオの上映(写真2)。今回訪れる南三陸町の津波(写真3)や、仙台港の石油コンビナートが燃えさかる様子(写真4)、陸上に打ち上げられた大型漁船(写真5)、「震災から10日目石巻市で80歳の祖母と16歳の孫の2人が奇跡的に救出された(写真6)」という映像に写された救助ヘリコプターなど、発生当時の想像を絶する被災状況を、固唾を飲んで見続けた。
午後4時半に気仙沼魚市場に到着。それぞれのバスに語り部ガイドさん(写真7)が乗り込み、気仙沼市を1時間ほど走りながら、ガイドさんの3.11当日やその後の体験を聞いた。市街地に打ち上げられ、解体か保存かで話題になった大型漁船第18共徳丸(写真8)は、解体され更地になっていた。解体される前は観光客がたくさん訪れていたが、解体後はさっぱり来なくなったとガイドさんが話してくれた。私は、保存していたら大変な観光資源となり、津波の力を実感させてくれる歴史的な遺産になっただろうにと、残念に思った。
3階まで津波が押し寄せた4階建の気仙沼向洋高校(写真9)の前でバスを停めたとき、1号車から鼻をぐすぐすさせて女性の添乗員が降りてきた(写真10)。「私、こんな話に弱いのです」という。女性社員も涙ぐんでいる。1号車の男性の語り部ガイドさんの話にショックを受けたのだった。後で聞いたら、ガイドのMさんは31歳の息子さんを亡くし、Mさんの弟さんは、奥さんと、就職が決まっていた18歳の娘さんを亡くしたとのこと。
カラオケで盛り上がった気仙沼のホテルでの宴会(写真11)の後、私は旅行会社の社長と添乗員と一緒に外に飲みに出かけた。9時半過ぎだったと思うが、復興商店街にあるスナックや寿司屋はもう閉店時間で、紹介された「ぴんぽん」(写真12)という居酒屋に入った。大きな店で、地元の人でたいそう賑わっていた。店のご主人に富山から来たというと、気仙沼港に、今、富山の漁船が入っていると言う。そうか、気仙沼は観光の町ではなくて、森進一の「港町ブルース」に、♪港、宮古、釜石、気仙沼♪と歌われる港町なのだ。またまた、第18共徳丸の解体撤去が惜しまれた。
翌朝、ボランティアガイドさんの案内で気仙沼魚市場(写真13)を見学した。波穏やかな気仙沼湾が一面の火の海になったと知る。次に復興商店街の南町紫市場(写真14)に出かけた。「揚げたてコロッケ屋」に入り、コロッケで生ビールを飲み、カウンターに並べてあった地元の高校生が考案したという「なまり節ラー油」と岩手県一関市の酒屋が造っている焼酎を土産に買った。被災地同士で助け合っているのだという。店を出たところでHさんから、お店のお母さんが「立ち寄って話をしてくださるだけでいいんです。遠いところから、お金と時間を使って来てもらえた。私たちもがんばろうと思えるから、私たちの励みになる」と言われたと聞く。やはり実際に現地に来ないと分からないことがあるだろうという私の思いの、ひとつの証左だと思った。
その後、陸前高田市の「奇跡の一本松」(写真15)を見学。一本松よりも、土地造成のために山を切り崩し、その土砂を運搬するために縦横に走っている巨大なベルトコンベア(写真16)の威容が印象に残った。
そしていよいよ南三陸町へ。さんさん商店街で具沢山の海鮮丼を食べてから、ポータルセンター(写真17)で78歳の語り部ボランティアAさん(写真18)から、「南三陸まなび旅」(写真19)のスライドを使っての自然豊かな南三陸町と大震災の爪あとを説明していただいた。引き続きバスに同乗したAさん(写真20)(1号車は別のボランティアガイドさん)から、3月11日当日のAさんの避難の様子などを伺いながら町内を巡った。結婚式を秋に控えた防災庁舎の職員遠藤未希さん(当時24歳)が何回も無線で避難をするようアナウンスしたおかげで多くの住民が助かったが遠藤さんは亡くなってしまったという、当時何度も報道された悲劇を改めて聞き、骨組みだけ残った庁舎(写真21)を目の当たりにして、遠藤さんのご冥福を祈らずにはおられなかった。そしてAさんが、自宅にたどり着き、胸まで津波の水につかりながら近所の人3人を助けたが、嫁を待っているといってAさんと逃げるのを拒んだ隣のおばあちゃんが亡くなった、あの時無理やり手を引っ張って逃げるのだった、とにかく生き残ることが一番という話に、生きることの意味を考えさせられた。このことが、6月10日に石動中学校で行った課外授業の演題を、それまでの「学ぶこと、働くこと」から「生きること、学ぶこと、働くこと」(写真22)に変えさせた。
2泊目の松島海岸のホテルのロビーでは朝市が開かれていた。気仙沼産のふかひれスープやサンマの蒲焼などを買ったお店のおばさんは、「大震災後はお客さんがたくさん来て、よく買ってもらったが、最近は少なくなって、今朝はお客さん(私)が2人目です」と言う。こんな話も、現地にこなければなかなか分からないことだと思った。このふかひれスープは、仙台の青葉城址(写真23)の土産店でも扱っていたが、宮城県内や、岩手、宮城、福島の3県で助け合っているのだろうと思った。
旅行後、週間スケジュール表で、Mさんは「被災地の見学では涙しました。心苦しかったですが、自分の中で何か変りました。」と書いているし、Hさんは「最近は報道で取り上げられることが少なくなったので、(東北の物を)目にする機会が減ってしまいました。買い物時に東北の物を見かけたら、買うようにしようと思いました。」と書いているが、今回の旅に参加した社員一人ひとりが、それぞれの感慨を抱いたことだろう。今回の旅行の目的は達せられたと思うと同時に、今後も3.11東日本大震災を忘れてはいけないし、何らかの支援活動を続けなければいけないと強く思った。