5月のこのコラム「東北地方に旅しよう!」で、『5月13日の経営戦略会議の席で、「今年の経営環境は昨年よりさらに厳しく、12月決算では赤字も予測される。しかし、東北地方に同僚や家族と旅をし、温泉などでお金を落とし、被災地を自分の目で見てきた社員に対して、会社から家族も含めて経費の補助をしようと思う」と提案したら反対意見は無く、止めて久しい会社の慰安旅行を被災地にすればよいのではないかという意見も出た。』と書いた。それが10年ぶりの慰安旅行として今月の7日、8日に実現した。
5月のコラムの後、この提案を必ず実現しようと、部下の意見はどうかと会議で部門長に聞いたところ、家族の場合は、子供の部活とか、子供が小さいとかでいけないと言う意見があるとのこと。私もそういう体験があるので、それなら、まずは会社で旅行しようと、6月6日に、知人である旅行会社エヌトラベルの中井社長に、5月のコラムを読んだ上でプランを立ててもらいたいと電話した。すると翌日、東北に限らず東海・海外まで旅行の自粛が発生している中、私のコラムに同感である、とのメールが届き、6月13日に“原発問題で観光客激減!!「会津地方」震災支援ツアー”という企画書の説明を受けた。その中で、被災地には災害救援隊であることの腕章・ステッカーを交付されていなければ立ち入れないので、今回は被災地には行かず、宿で女将さんなどから被災状況について話を聞くことにとどめたいと言われ、止むを得ないことと了解した。
私が考えた旅行日程は、以前の慰安旅行と同様に仕事日を避けて土、日を使っての7月9日10日であったが、専務が、ウイークデーでの1泊2日、例えば7月7日(木)8日(金)はどうだろうかと提案してきた。そこで、各部門で日程について意見を聞いたところ、土・日にはすでに予定が入っている社員が何人かいるということで、7日、8日に決定した。
私は、全社員74名の内、参加者は30名から40名くらいだろうと予想していたが、結果は何と56名。今年は施工中の工事が特に少なく、参加しやすかったとはいえ、正直驚いた。
宿泊先の芦ノ牧温泉丸峰観光ホテルには、福島原発事故で退去を強いられた、福島第2原発がある楢葉町の住民が当初180名避難していたとのことで、この方々に何か支援物資を贈りたいと思い、新潟県の建設業者がコシヒカリを何トンだか持って、被災地でのボランティアに出かけたという話にヒントを得て、当社も富山のコシヒカリをバスに積んでいこうと思った。しかし、中井社長が、避難している人たちが何を必要としているか聞いてみましょうか、と言うので、聞いてもらったら、これから暑くなるのでTシャツが希望だと6月27日に分かった。現在の避難者数が120名とのことなので、S30枚、M70枚、L80枚、XL20枚の合計200枚の白無地のTシャツを短時間で用意し、「衣」のほかに「食」も贈ろうと、高岡の銘菓“とこなつ”240個と、富山県と分かるだろうと清酒“立山”の1升ビン12本も用意した。
2台の大型バスで出発した最初の観光地は、蔵のまち喜多方。喜多方ラーメンの昼食の後、おたづき蔵通りの散策。私は、店先に並べられた小物に惹かれて入った土産屋で、店の女主人と話し込み、元々は下駄屋だと分かったこの小林履物店で、会津桐の下駄を買ってしまった。次に訪れた五色沼で、予定にはなかったが記念に集合写真を撮ることにした。その時に写真屋さんから聞いた話に愕然とした。4月から6月にかけての3ヶ月間に、例年は1400台以上の観光バスが来るのだが、今年は7月になっても、我々のバスが46台目と47台目だと言うのである。前年比97%減ではないか。当社の受注工事高が前年比50%減で、苦しいと思っていたのが恥ずかしくなった。
大型駐車場に観光バスがほとんど止まっていないのは、翌日訪れた大内宿、鶴ヶ城、白虎隊の飯盛山、薄皮饅頭の柏屋でも一緒だった。風評被害のひどさを、現実のものとして感じた。
宿泊先に着き、待っておられた楢葉町の総務課長さんから丁寧な感謝の言葉をいただいた後、ラウンジに集まっておられた避難住民の方々に私が挨拶し、Tシャツを男性Sさん、とこなつを女性Sさん、立山をUさんが担当して配った。一緒にいた社員から、「ありがとう」と言われて、何と返したらよいか分からなかった、子供から「お菓子を食べていい?」と聞かれ、思わず涙ぐんでしまった、などの言葉が聞かれた。私も、赤ちゃんを背負った若い母親や、赤と黒のランドセルを背負った男女の小学生を見て、彼らの毎日の生活はどんなだろうかと思い、一升瓶を抱えた気のよさそうなおじさんに「お酒、好きそうですね。お幾つですか?」と聞いたら、「68歳、365日酒を飲んでる」とにっこり返事され、「私は64歳、364日酒を飲んでいます」と返した。
宴会での女将さんの挨拶も、心に残っている。楢葉町の方から、「誰かにご飯をよそってもらえるのが、こんなに幸せで有難いことだと初めてわかった」と言われたと聞いて、一緒に涙しましたとのこと。帰って中井社長にこの話をしたら、このエピソードの背景を説明され、また、このコラムを書くに当たって女将さんに電話して直接確認したのだが、この話は、避難住民の方々は最初からこのホテルに来たのではなく,2回、3回と避難場所が変わり、朝はパン1枚、昼も夜もおにぎり1個の生活を1ヶ月続けた後にこのホテルに着いて、従業員の方からお茶碗にご飯をよそってもらった時の感想だったのだ。
参加した社員は「普段一緒に仕事をしていない部門の人たちとゆっくり話ができ、お酒を飲んで交流できて楽しかった」と言い、「旅行先でのお店の方々はとても明るく、おまけなんてもらったりして。わいわい楽しく話しをして下さいましたが、風評被害はどうしようもないとボソッと言っておられました。返す言葉がなくお土産を買う事しか出来ませんでした。」(Tさん)と思いながら、たくさんお土産を買って震災支援もしてくれた。
慰安旅行という言葉は、なんだか古めかしく思っていたが、失われた10年とも20年とも言われる厳しい経済環境の今、さらに3.11大震災が追い討ちをかけた国難の今、社員同士の交流のために、そして、震災の被災者のために「慰安」は意味ある言葉だと思う。
大内宿の中の一軒で、和紙に書かれた言葉が私の目に飛び込んできた。店主の女性が自ら書いた言葉「笑って過せる時がきっと来る。2011.3.11.14.46」である。来年は宮城県、再来年は岩手県に行こう、そして、笑顔を探そう・・・と、帰路のバスの中で思った。